雨の日のこと



ぽたぽたと滴り落ちる雨水は、地面で跳ねて足を濡らした。
生憎の天気は突然に訪れた。テラス席で空を見上げると、吹き付けた風に乗って水滴が頬につく。嫌な色合いの空から雨が降り始めるのを眺め雨止みを待っていたが、テラス席で粘るのもそろそろ限界か。店員さんが持って来てくれた冬用のブランケットを脚にかけても、コートにまとわりつく湿気と肌寒さはおさまらない。通りのタクシーは引っ張りだこで、今から拾うにはちょっぴり遅そうだ。のんびりメロンソーダを楽しんでいたのはマヌケだったな。
紳士が私を中に入れてくれようとしたのを「今、迎えを呼んだから」とお断りしてから十分ほどが経って、携帯電話がぶるぶると震えた。結構気まずいなと思っていたのでちょうど良かった。
「もしもし、ペッシちゃん?」
「うん、俺だよ。今どこにいるの?みんなこの雨で立ち往生してるみたいで、俺が傘を届けることにしたんだけど、まずはポルポからと思って」
「『レガメ』って喫茶店だけど……いいんだよ、他の人からでも」
少々気まずい思いが続くだけだし、私よりもイルーゾォ辺りの方が風邪に弱そうだ。ん?しかし彼は鏡の中を通って帰ることができるんだっけ?普通に傘を差して歩いているイルーゾォはとても可愛いから、できれば正攻法で帰宅していただきたい。そして可能ならば私もその場面を見たい。
「ポルポは女性じゃないか。俺、女の人を雨の中で一人にしておくなんてできないよ」
感動しすぎてメロンソーダの味をすべて忘れた。口の中に残った味はペッシの発言よりもずっと無味だ。ペッシがこんな男前なことを言うなんて、さすがイタリアーノと言うべきか、それとも彼の兄貴が女性の扱いについて一つ一つ丁寧に教えるステージに入っているのか、どっちでも構わん。素晴らしいじゃないかこの世界は。
携帯電話を耳に当てたまま、雨音の激しいネアポリスの街を眺める。人の姿はほとんどなくて、みんなお店や車の中から外の様子を窺っていた。雨の降る音は憂鬱だけど、心地よくもある。
他愛のないことを話していると、横断歩道の向こうにペッシが見えた。ペッシはたくさんの傘を携えている。大きな身体でてくてくと歩いて、笑って私に傘を差し出してくれる。
「全員分を持って来たの?半分持つよ」
「いいって。ポルポはお支払いが先だよ」
はい。ペッシを店先で待たせることになってしまうが、コップの底に残っていた薄まったジュースを飲み干して立ち上がる。
伝票を持って店内へ進み、ついでにブランケットを返すと、綺麗な女性の店員さんはニッコリと笑った。
「素敵な弟さんですね」
とんでもなくハキハキと「はい、私にはもったいないくらいの弟です」と答えてしまったが私は悪くない。私の弟だという誤解を除けば何も間違えてないもんな。ペッシは素晴らしい子なんだよ。
チャオを言い交わして店を出る。
「あのね、兄貴も傘を持ってないんだって。だから次は兄貴を迎えに行こうと思って。ポルポは先に帰っていてよ」
家の方を指で示されたけど、私は首を振った。きょとんと見下ろされたので見つめ返す。ペッシが来ると思っているみんなが、彼にくっついている私を見てどんな反応をするのかが気になるんだよ。数人の反応は目に浮かぶけど、事実は小説より奇なり、想像では遠く及ばないような出来事があるかもしれない。私はそういう楽しみを追求していきたくてね。
ペッシは素直に、そっかあ、と頷いた。
「じゃあ一緒に行こう。なんだかわくわくするね」
そうだね、ペッシ。微笑み合ってまた歩き出す。

イタリア男、プロシュートは煙草の箱を持て余して立っていた。吸うのか吸わないのかを歩きながら観察していると、彼はこちらに気づいて箱を内ポケットにしまってしまう。吸わないのか。今日は煙草プラス兄貴という最高の加算式は見られないようだ。
美丈夫はペッシに苦笑を向け、悪いな、とひと言お礼を言った。ペッシはむしろプロシュートの役に立てたことを喜んでいるみたいで、いいんです、なんて輝いた顔で朗らかな表情を浮かべる。
プロシュートの傘は黒い。黒地の中にスーツの模様と少し似た細いラインが引いてあって、凛として歩く彼の姿は雨の中でも劣らない。後ろから横から、ちょこちょこポジションを変えつつこっそりプロシュートの男前っぷりを楽しんでいると、エクストリームイケメンはポケットに突っ込んでいた片手を出して私の頭を押さえつけた。
「大人しく歩いてろ、転んでも知らねぇぞ」
「ポルポ、濡れないようにね」
「はーい」
軽く返事をして背筋を伸ばす。プロシュートは手を離す前に一度、わしゃわしゃと私の髪の毛をかき混ぜた。湿気でもともと広がっていたぶわぶわの天パが余計にひどいことになる。手櫛で直して、お返しにプロシュートの頭でも撫でちゃおうかと思ったけど、ばっちりキメてある髪型を間違っても崩してはいけないというイケメンへの畏敬の念が先立ってしまって手は出なかった。くっ、何をしていてもイケメンはイケメン。プロシュートレベルになると髪が乱れていても魅力は損なわれないどころか別のベクトルに向かって雌猫がまっしぐらなんだろうけど、こんな昼間のネアポリスを桃色に染める必要はない。秀麗な横顔に黙したまま尊敬のまなざしを送ると、横目で私を見たプロシュートは何もかもを見通すようにニヤリと笑った。イケメンすぎて胸中に釈然としないものが広がる。なんなんだ、プロシュートは。どこを目指しているんだ。覚悟の男道を突き進んだ者の輝きがそこにある。

ペッシと離れたくなかったのかもしれない。あるいは暇だったのだ。
なんと駅まで私たちについて来たプロシュートは、ペッシの腕に掛けてある傘のうち二本を取り上げてホルマジオとギアッチョに突き出した。異色のコンビだねと包み隠さず感想を述べると、ギアッチョがうるせーよと毒づいて傘の留め具を外す。
「電車が一緒になっただけだ」
「車両もな」
スゴイたまたまだね。
「なんかわからんが席が近くてよォ、どうせだから一緒に帰ることにしたんだがこの雨だろ?通り雨かと思ってしばらく待ってても止まねえし、ギアッチョは服が濡れんのを嫌がるし、どうしようもねーなと思ってアパートに電話したんだよ。悪ィなペッシ」
「気にしないでおくれよホルマジオ。こういうのもなんだか面白いから」
そうだね、いつもペッシは傘を届けてもらう側だもんね。
「しかし助かったぜ」
その辺でその場しのぎの傘を買う手もあるけど、急な雨に慌てたのは誰しも同じだ。駅周辺のお店は空っぽになっているだろうし、ギアッチョがこの雨の中で動きたがるかといえば微妙なところ。服が濡れたりするのを嫌いそうだもんね。私は彼に、仕事ならまだしもプライベートで自分の領域が侵されるのは原因が何であれ嫌がりそうなイメージを持っている。偏見かな?ごめん。でもギアッチョちゃんって水鉄砲とかスゴく嫌いそうじゃん。ツンツンした猫みたいだし、襲ってくるモノは水だろうと何だろうと全部凍らせねえと気が済まねえ、みたいなところもあるのかなって思ってるんだよ。本当ゴメン、口には出さないでおこう。
「あん?ナニ見てんだよ」
「ギアッチョは可愛いなと思って……」
「イタリア語で喋れ」
「え!?今のイタリア語だよ!?」
そんなに嫌か。

ホルマジオとプロシュートが揃っていると、自然と話題は大人げな進行を見せる。私とホルマジオが集まるとエロ談義くらいしか始まらないが、さすがは精神的に落ち着いている組と言ったところか。悔しくはない。ないってば。ないんだよ。
余談だけど、メローネとホルマジオの組み合わせも意外とまともな会話が繰り広げられる。マジオくんは誰に対してでも適応できる良いヤツなので、変態ちゃんと名高いメローネに対しても中和剤のような役割を果たしてくれるのだ。メローネがホルマジオに株価の話を持ち掛けていた時は訳が分からなすぎて笑った。どんな流れだったのかすごく気になる。
「お、ペッシ、……ホルマジオ、何でお前までいるんだよ?プロシュートにギアッチョ、ポルポも……目立つから集団で歩くの止めろよな」
「テメーも相当目立ってんぞ」
そうだね、二つ結びどころか六つ結びの男性がいたらみんな見るよね。四人の目立つ野郎どもとお付きの私が来ちゃったもんだから余計にね。
ホルマジオはイルーゾォに傘の柄を掴ませる。
「そんで、オメーもこの集団の仲間入りってこった。ホレ、さっさと行こうぜ。リーダーとメローネと……」
「ソルベとジェラートは濡れて帰るって笑ってたよ」
「んじゃあ、リーダーとメローネが待ってる」
ペッシが合の手を入れて、ホルマジオは言い直した。ばしんとイルーゾォの背を叩くと、イルーゾォは非難がましくホルマジオを睨みつけた。無言で紺色の傘を開いて、紅樺色の傘に並ぶ。

なぜかメローネはびしょ濡れだった。何が起こっているのかよくわからず、バールのカウンターでへらへらしているメローネを上から下までじっくり眺めまわす。ジャケットを着ていて、彼はかろうじて不可思議な趣味の洋服でも着用しているかのように見える。しかしその姿は、上から下までガッツリびしょびしょだった。
傘を置いて、それぞれ席につく。誰が言い合わせたわけでもなく各々メニューの黒板を見上げ注文すると、壮年のバリスタが動き出した。
店員さんに渡されたのか、メローネの腕には軽くタオルが引っ掛けてある。
「どうしたの?襲われて逃げたの?」
散々な姿だけど。
「あはは、違うぜ。傘を届けるってペッシから連絡があったんだけどさあ、俺は結構遠い所に居たからわざわざ来てもらうのも悪ィかなあと思って。リーダーんトコまで走って来ちゃった」
そのリーダーは、メローネの隣で黙ったままカッフェを飲んでいた。上着が少し濡れているように見えるのは、もしかしてずぶ濡れのメローネにハグでもされた結果なのかしら。再会のハグとしてわざと抱き付き無理やり頬にキスをするメローネと、それを面倒くさそうにやり過ごすリゾットか。うん、おいしいですね。私のような女子はみィんな大好物でございますよ。おいぴィ。
心配そうに眉根を寄せたのはペッシだった。
「そんなの風邪を引いちゃうよ。寒くはないの?」
「リーダーがラッテを奢ってくれたからね。あたたまってるぜ。触ってみるかい、ギアッチョ」
「なんで俺なんだよ。触んねーから近寄ってくんな」
メローネはけらけらと笑って手袋を嵌めた。手袋は濡れていない。外してから走ったのかな。
「こいつに奢ってやったのかよリーダー?」
「冷えていたからな」
「ふうん」
呆れて肩を竦めるイルーゾォは、傘から垂れた雨水で濡れた肩を手でぺちぺちと払う。その手をどうしようか考えた彼にタオルハンカチを差し出すホルマジオ。なんということでしょう、がやがやと賑わうバールにバディの絆が眩しいです。うおっ眩しっと一人目を逸らして、運ばれてきたエクストラキャラメルソースミルクマシマシぬるめキャラメルラテを口に運んだ。甘くておいしい。こういうのって心が癒されるよね。私はいつも視覚から暗殺チームちゃんたちに心癒されているけれど、甘いものは胃袋の方から身体を癒してくれる。二つがあわされば最強だ。つまりみんなと飲むお茶は至高。別に癒されてしまっても構わんのだろう?
「にしても、ひでェ雨だな。天気予報じゃあ雨は明日だっつってたのによお……クソッ、外れるなら外れるって先に言えよ……」
「それは無茶じゃねえ?」
「洗濯モン干してたんだよ!クソがッ!洗い直しだ!」
「なに、洗濯物干してたの?」
そりゃあ悔しいよな。明日から雨だからと思っていっぱい洗濯したら、ちょうど出かけている時に雨が降って台無しになるんだよね。あるある、それで何度泣いたことか。この季節は特に天気予報が信用できない。
「このまま待ってりゃ止むかな?」
硝子戸の向こうはざあざあ降りだ。雨足は強くなっており、待っていても止む可能性はなさそうに思えた。イルーゾォも本気で言ったのではないようで、サーブされたカップに口をつけて音もなくすすっている。
「一杯飲んだら帰るぞ、待ってたって仕方がねぇだろ。……ペッシの傘もあることだしな」
「えへへ……。はい、兄貴!」
カプチーノを飲むペッシが破顔し、それから自慢げに唇を引き結ぶ。
彼が持って来た八人分の傘はバールの入り口に立てかけられ、小さな水たまりを作っていた。色も長さもデザインもそれぞれな傘がちょこんと並んでいるのが可愛らしい。ちなみに一番新しいのはギアッチョの傘だ。彼が可哀想な先代を折ったのは先月のこと。悪質なナンパかっこ男かっことじに付きまとわれ我慢の限界を迎えたギアッチョによって電柱に叩き付けられたのが死因だった。骨組みがぐちゃぐちゃになった傘の尊い犠牲のおかげでギアッチョはナンパ男から逃れられたらしい。いや、むしろナンパ男がギアッチョから逃れられたと言った方が正しいかもしれない。ギアッチョが傘を持っていなかったらグーパンの一つは食らっていただろう。
「甘いものはいいのか?」
リゾットがメレンダを勧めてくれたので、メニューを眺める。
「リーダーの奢りかー、俺はズコットにしよっかな」
「奢らせんなよ!!」
「どちらでも構わない。メローネ、寒くはないか?」
メローネは首を振った。
「暖房が効いてるから平気だぜ。あんたらは何にするんだい」
戸惑ったように見上げられ、プロシュートは鷹揚に頷いて促した。
「甘えとけ」
ペッシは元気よく返事をする。ありがとうございますリーダー。歯切れの良いお礼に、リゾットは気にするなと短く答えた。
私もメニューを眺める。そうね、可愛らしいメローネちゃんがお揃いの物を食おうぜと誘ってくれたし、ズコットもおいしそうだからそうしよっかな。
ホルマジオはナッツのヌガーを。イルーゾォはカタラーナ、ギアッチョはアップルパイを選んでいた。アップルなのか、と微笑ましいものを見る気分でへらへら笑っていたらぎろりと睨まれたけど、彼の目の前にあるのは生クリームの添えられたアップルパイだ。まったく怖くない。
「リゾットは食べないの?」
「……」
我らがリーダーはメニュー表を見て少し考えると、ビスコッティを注文した。食べるのか、珍しい。自分から言っておいて何だけど、本当に注文するとは思っていなかった。俺はいい、の一言で終わるかとばかり。嬉しくなってしまいますね、リゾットが物を食べているのを見ると幸せな気持ちになるよ。ペッシにも同じ感情をおぼえるんだけど、これはなんだろうね、ペッシとリゾットが私の中で同属だということなのかな。癒しレベルの話なら確かにその通りだ。ペッシもリゾットも私の心をファーストエイドリカバーハートレスサークルレイズデッドしてくれる。ディアラハン。
八人並んでカウンター席を占領する私たちだったが、他にお客さんがいない訳じゃあない。賑やかなイケメンたちを見つめるおねえさま方の頬はぽっと染まっているし、筋トレに心得のある人たちは暗チちゃんたちの服の下の肉体にナニかを感じていることだろう、たぶん。そういうセンサーみたいなものが搭載されているものなんじゃないのかな、よくわからないけどそうであって欲しい。
そんな視線を物ともせず、あるいは気づかず、彼らはひたすら目の前にあるお皿に至福の時を見出している。やっぱり甘味は凄いわ。ギアッチョの眉間のしわがちょっと少なくなっている気がするもん。
「ポルポ、俺のズコット食う?」
「同じものじゃん」
それとも"俺のズコット"って何かの隠語か?
「味が違うかもしれないだろ?」
「良いなら貰うけど。……やっぱり変わらないわよ」
さっくりフォークを刺すと、抵抗なく切っ先が生地に沈んだ。そしてメローネが悲鳴を上げた。
「あああああッ!!違えの!俺の!スプーンで!」
「私、ズコットはフォークで食べることにしてるから」
「そんなことないくせに!」
弄ばれた、と泣くふりをし始めたので肩を叩いておく。"あーん"はリゾットとかギアッチョとかにしてあげてね。言わないけどさ。

私たちがカップとお皿を空にする頃になっても雨は上がらなかった。
水滴が落ちきり、空調の暖かさで乾き始めた傘を手に取って外に出る。支払いはリゾットが財布を開いてくれていた。おねえさんが払おうか、とリゾットを見たところ彼は無言で首を振ったので甘えることにする。意図せずアイコンタクトをしてしまったようで胸がドキドキした。時々あるんだよ、こういうことが。
「ソルベとジェラートが家で待ちくたびれてるかもな」
「帰ったら煩そうだぜ」
暖かい店内に比べると外気はかなり冷たかったけれど、広い道をのびのびと歩く私たちはそのうち寒さを忘れてしまう。時折笑い声が立って、雨のネアポリスが明るくなる。
きっと道路を上から見下ろしたら、傘の花がひしめき合って咲いているように見えただろう。