ネアポリスで朝食を


いつも通りの食事の席でのことだった。
天気は晴れで、開け放った窓からは秋の冷えた風がカーテンを揺らして吹き込み、反対にぽかぽかと暖かい光も射し込んでいた。そのことを、ギアッチョはよく記憶している。
二日酔いの頭痛をこらえて食欲のない朝を迎えたギアッチョは、わらわらと飯をたかりに集まった酔っ払い達を見回した。
深夜まで続いた飲み会は、家主のポルポや酔いに負けたギアッチョ、イルーゾォやホルマジオらが脱落しても続けられ、リビングにはくだを巻いた男の屍の山が出来ていた。
それもこれもすべては不愉快な依頼主のせいで、ポルポもこれに関しては何も言わなかった。すべて酒に流してしまえと言わんばかりに連中を煽ってすらいたから、あの女も胸を悪くしていたのだろうと予想がつけられる。おかしなところでおかしな気を回すバカ女だと、ギアッチョはグラスを手渡した女を八つ当たりに睨んだ。眼鏡は頭痛に響くが、つけていないと視力が著しく低下する。ポルポはただ単に目が見えなかっただけだと思ったのか、気にすることもなくきょとんとしてからニッコリと笑った。おはようギアッチョ、と名前を呼ばれる。ギアッチョもそれに応えて、オウ、と短く挨拶をする。そんな普通の日常だった。

朝食というには遅く、昼食というには早い。
テーブルには弱った胃袋に優しい料理が並ぶが、その量はとにかく多かった。大の男が九人と、生半可な量では身の持たない不便な女が揃っているのだ。起き抜けのソルベとジェラートは、のびのびとしたクチーナで活き活きと腕を振るっていた。自分たちの料理が人を喜ばせることで満足を得るらしい。奉仕の精神からは程遠い二人の男が、よくもまあ料理などという手間取ったことに注力できるもんだ。ギアッチョは甘ったるいリンゴジュースで血糖値が上がれば他はどうでも良い。食えれば食う。食えなきゃ食わない。それだけだ。
しかし食卓には料理が並ぶ。当然ギアッチョの分も用意されているので、これは食わん方が不自然だ。ギアッチョも一応は若い盛りの男なので、訴える食欲には勝てない。勝負をする気もなかった。
もごもごと食前の祈りを簡潔に済ませてフォークを取る。
三個ほどパンをむしると、情けなく空腹を訴えていた胃が落ち着いたようだった。ポルポは顔を上げて、ナニが楽しいのか、へらへらと能天気に笑いかける。
「ねえ、日本旅行に行かない?」
いつも通りの食事の席でのことだった。



*



とんでもない依頼をとんでもない金額でとんでもない方法を使って押し付けられたので、こちらもとんでもないやり方で達成した挙句にとびぬけた結果を突っ返してやったった。
そうしたらとんでもなく取り乱していた依頼主は冷静さを取り戻して、改めてこちらに感謝を述べると、もともと予定していた金額に山吹色のお菓子をつけて口座に納金してくれた。よって今の私の懐は熱すぎるくらいだ。まあ、今までも寒かったかと言えば全然そんなことはないんだけど、真夏に全身を防寒装備で固めた私のポケットにホッカイロが突っ込まれたようなイメージだ。あったかいなんてレベルじゃない。
全神経をささげて任務を遂行してくれた九人に感謝の意をこめて、依頼料の分配とは別に食事やお酒をふるまった。公平に配当したつもりだけれど、それでもお金はなくならない。どれほどのものだったのかというと、具体的には、家計簿の桁欄に収まらないくらいの金額である。そんなものがポンポン飛び交うイタリアの裏社会。
予定していない入金があったので、これをどうにかみんなの慰労に使えないかと考えてみた私。
途中で脱落したギアッチョやイルーゾォや、大人の遠慮を見せたホルマジオを客間に雑魚寝させた私は、一人でベッドに横になりながら色々と考えを巡らせた。
一人で、というのは、リゾットは残ったプロシュートやソルベやジェラートやメローネやリビングで寝落ちしたペッシに付き合ってリビングルームで静かにお酒をたしなんでいたからである。なんだかんだ言わなくても、どこまでも仲間想いなリーダーである。ただ単にプロシュートが物凄い勢いでリゾットに絡んでいたと言えなくもない。プロリゾ、いやいや何も言うまい。呆れながらも相槌を打ったり、酒の代わりに水を勧めて突っぱねられたりしていたところは、さすが同年齢の長い付き合いだ。阿吽の呼吸。夫婦なんじゃないか?
そんな彼らの賑やかな様子を感じながら、私は考えもまとまらないうちに眠りに落ちてしまった。自覚はなかったけれど、疲れていたのかもしれない。

目が覚めた時、私はリゾットの腕の中にいた。重いなと思ったら、両腕でしっかり抱き寄せられ、私は知らぬ間に人間抱き枕へ変身させられていたらしい。
静かな、薄い寝息だけのある部屋から外に耳を澄ますと、数人が起きて活動している気配が読み取れた。この部屋の近くでは音が潜められているような気がしたのは、私の錯覚だろうか。もしかすると、みんなリゾットに気を遣ったのかもしれない。なんだかんだ言わなくても、どこまでもリーダー想いの仲間たちである。ただ単に昨夜の罪悪感にさいなまれただけの可能性もあるけど。凄かったもんね、浴びるように飲んでたもんね。ごめんよそんな面倒な仕事をさせてしまって。
時間はよくわからなかったが、一つだけ確かなことがあった。私は空腹だった。つまり朝は過ぎている。
食事はリゾットの目覚めを待つとしても、せめてお水くらいは飲みたい。動きに敏い彼の腕からこっそり抜け出そうとしたが、やはり私ではミッションコンプリートは成らなかった。リゾットはもぞりと身じろぎをして目を覚ます。
「……」
眠たげに伏せられた目に乾杯。
赤い瞳に宿る鋭さはしまわれ、眠りから浮かび上がった人独特のとろりとした色がある。リゾットも人間なんだよなと再確認できる、とてもベネな一瞬だ。
「おはよう、リゾットちゃん」
「……ああ、おはよう」
ところで私は起き上がりたいんだけど良いかな。
そういう意味を込めてシーツに手をつくと、リゾットはそれを制止する代わりに、私の上から布団をかぶせ直した。廊下の向こうから空腹を訴えるメローネの声がしたのは気のせいじゃないし、私に聞こえているということはリゾットにも聞こえているはずなんだけど、無視を決め込むつもりか。君がそうするのは君の自由だからそれでいいんだけど、私もお腹が空いてるんで、ちょっと解放していただきたいんですがね。
「……すぐに終わる」
ナニが?二度寝が?
はあ、と息を吐いて目を閉じたリゾットの言葉の意味が、いわゆる「あと5分寝かせて」のアレだったと気づいたのは、彼が着替えているシーンをじっくり眺めまわしているその時だった。あまりの威力に興奮しすぎてそのままベッドに突っ伏した。インディグネイションレベルの電撃が身体に走った気がする。

私たちが席に着いたのは、朝食の時間から三時間ほどが過ぎてからだった。もうお昼に近い。
がやがやと、普段は感じることのできない騒がしいほどの楽しげな九人分の(まあ数人は黙ってご飯を食べているんですけど)声をBGMにフォークとナイフを動かし、パンをむしって食べる。そんな時、ふと思いつく。
「ねえ、日本旅行に行かない?」
悩むより生むべし。口に出して提案してみると、九人は私に視線を移して、それからそれぞれの言葉で同時に言った。
「行こう」
ニュアンスとしては、そんな感じだ。


そして今、私たちはスーツケースを引いて空港に立っている。