他の男の名前


元々、リゾットの目覚める時間は早い。それはパッショーネという裏の世界に身を置くうちに染みついたことだった。
夢の中にいるポルポを残して着替え、部屋を出てリビングのカーテンを開ける。リゾットの朝の始まりだ。
リゾットが己に課した仕事はここからいくつか続いたが、彼はそのことを苦とは決して感じない。
熾烈な世界で生きて来たからこそ、渇望した存在が腕の中にあり、同じ空間で生活をする『今』が大切で、そのすべてが鮮やかに思える。
それから、身体能力を調節するために必要なある程度の運動を行う。本格的なものは、リゾットとポルポの家から十数分歩いたところに構えられた仲間のアジトで行うので、ここではほんの軽いものだけを。
身なりを整えた後、クチーナに立つ。
ポルポの食事を朝からたっぷりと多く作り、自分はパンとエスプレッソを用意して終える。イタリア人の朝はたいていの場合、それほど多い量ではない。

ここからが、リゾットの楽しみな時間だった。
テーブルに皿を並べてから部屋に戻り、カーテンの閉じた暗い部屋で深く眠るポルポの顔をじっと見つめる。シーツの上で、リゾットの眠っていた方向を向いて身体を丸める彼女の手は、そこにあった体温をさがしたように、リゾットの枕元に投げ出されている。そういう些細なことがリゾットの心を潤した。求められているのが自分だと知ることで、八人から重いと評される彼の独占欲は満たされるのだ。
「ポルポ、朝だ」
軽く肩を揺すると、ポルポは、うん、と小さく呻いて、夢うつつのふやけた声で名前を呼んだ。ここで彼女がリゾットの名を呼び、リゾットがそれに応えてやるのが常だった。
「…………きっどさま……」
「……」
キッド様、と来たか。該当する名前の青年の姿が一瞬で浮かぶ。
ポルポは時々、眠る前に読んだ漫画の夢を見る。そういう時に揺り起こすと、稀にその作品のキャラクターの名前を呟くことがあった。今日はモノクルをつけた白い怪盗の夢を見ていたらしい。
彼女がリゾット達のことを何より大切に考えていることを知っている彼は、夢でまで俺を見ていろ、などとは言わない。
言わないが、しかしさすがにリゾットも、寝起きに違う男の名前を呼ばれれば、その男が物語のキャラクターだと解っていても気分は良くない。ポルポに全く自覚がないことも要因の一つだ。
リゾットはもう一度ポルポの肩を揺さぶった。力を込めると、ポルポの目がゆっくりと開く。
「うん?……リゾットちゃん、朝?」
「そうだな、朝だ。おはよう」
「おはようございますー……」
肩に当てていた手で頬をくすぐると、ポルポはあははとからりとした笑い声をあげた。彼女はくすぐりのような、微弱な刺激に弱い。
案の定、ポルポは身をよじって起き上がろうとする。その身体を押さえてシーツの上に戻すと、夕焼けの瞳がぱちりと一つ瞬きをした。
「ん?ナニ?なんか機嫌悪い?」
「悪くはない。……誰の夢を見ていた?」
「エッ?」
きょとんとしていた表情が、ひくり、と引きつる。
「(お前はとことん嘘がつけない性格だな)」
以前に似たようなことがあった折、訊ねた時はいつもと変わらない声音で「あー、うん、お恥ずかしながら」と前置きをしたうえで、リゾットも彼女から借りたことのある漫画の登場人物の名前を挙げたものだが、今日はどうやら事情が違うらしい。
無言で見下ろしていると、ポルポは気まずそうに視線を逸らした。自分の目が雄弁で、リゾットは特に敏くそれを読み取ると知っているためだ。
「リゾットちゃんも出てきたから問題ないよね?ただの夢だしね?」
「問題はない。ただ興味があるだけだ」
「(どうしよう、怪盗たるキッド様と、某黒の組織に属するリゾットちゃんが殺伐としたカップルになっている夢を見たなんて言えない……、普通の夢を見る頻度の方が多いのに、なんで今日ばっかりやっちゃうかな私は……!黒歴史!黒歴史撲滅!)」
ポルポの口が堅く引き結ばれた。言うつもりはなさそうだ。目を逸らしたポルポからは気まずさしか伝わってこない。
当然、ポルポが何を考えているのかも、彼女の本棚のとあるスペースにどんな本が詰まっているのかも、リゾットは知らない。だから彼は彼女が見た夢を察することはできなかった。
「言うつもりはないんだな?」
「うむ」
無駄にハッキリとした返答だ。
まあ、言うつもりのないことを無理に聞き出す必要もない。躊躇するポルポに多少興が乘っただけなので、リゾットは彼女の上から退いてやった。

安堵のため息を吐いたポルポは、ともすればあのまま朝食の時間から遠ざかっていたことなどにはまったく思い至らない。もちろんあの程度でリゾットがそうするはずもなかったが、本当に聞き出そうと思ったなら手段はいくらでもあるのだ。リゾットと彼女に限っては、特に。
「でもすごく楽しい夢だったんだよ、リゾットちゃん。リゾットちゃんにはちょっと申し訳なかったけどね」
リゾットは目を眇めた。申し訳なさを覚える夢とは何だ?
ポルポの隠された真意が本棚のとあるスペースに関連することだとは知らないリゾットの興味がそそられる。何かを疑うのでも、嫉妬するのでもなく、これは0か100かで振り幅の大きく分かれるリゾットの好奇心による感情だった。ポルポの心情の由来は、どんなものであっても知りたいと想う。

「え、……え、あの、え?ごはん、ごはんは?」

危機感の薄いポルポでも、リゾットの瞳に込められた意図は理解できたようだった。
迂闊な女に懇切丁寧に説明してやる手間を省いて、リゾットの指が彼女の細い首についた傷をなぞる。瞳の真紅と朱が交わって、一方が他方の深い光におののきを見せた。
朝食の時間が、ポルポから大きく遠ざかった。







(リゾット視点のポルポとのひと時のリクエストに代えさせていただきます)