11 「さよなら」が言えない


行事を知らないやつだった。
名前は知っているのに、なんだかんだ理由があって、20と数年生きているくせに、どれもうまく経験したことのないやつだった。ベファーナを忘れるイタリア人がいるだろうか。ナターレをひとりで過ごす女はいるかもしれないが、その存在を忘れる人間がいるだろうか。ホルマジオは呆れた。
モテないんだから仕方ないだろ。男性との、ひととしての付き合い方がまったく女のそれではない彼女を揶揄するたびにあいつはそう言った。そりゃあこんな男らしい性格じゃモテねえだろうなと思ったが、数年付き合ううちに理解した。こいつはモテてるのかもしれねえが、そのアピールにまったく気づいていないのだ。なるほど、可哀そうなくらい鈍い。
「ホルマジオって私の姉みたいだね」
性別という概念を知らないのだろうか。ホルマジオは男だ。訂正すると、なんかそんな雰囲気なんだよ、と言われた。こんな手のかかる妹がいたら大変だ。だがどうせ妹がいるのなら兄がいい。同い年の兄妹はありふれているが、どっちにしてもホルマジオは男がよかった。筋肉つくし。
行事なんて憶えてられないよ。彼女はいつかのバレンタインデーにそう言った。ホルマジオたちと彼女が初めて迎えたバレンタインデーは、全員が彼女に一輪の花を贈ったが、彼女はそれが2月14日特有のならわしだとはまったく気づいていなかった。
「え、なになに今日はどうしたの?よくわかんないけど嬉しいよ、ありがとう。そういうつもりじゃなかったけど、お返しみたいになっちゃうわね。はいこれ、じゃじゃーん」
彼女は全員にハンカチを贈った。どうこれ、カッコよくない?確かにシンプルで、センスも質もよいものだった。少なくともホルマジオはそれを気に入ったし、気づいたらギアッチョもそれを頻繁に使っていた。あのギアッチョが。あいつスゲエな、とホルマジオは同い年の同僚と言い交わした。
他の日もそんな感じだったので、知らないふりをしているのかと思ったら、彼女はマジにその日のことを知らなかった。
「ベファーナって聞いたことあるわね、食品会社のなんかかな?」
全員が顔を見合わせて肩をすくめた。どこでどんな教育を受けたらこんな生き物が育つのだろうか。かなり悲惨な人生だったに違いない。
だからホルマジオは言った。
これからひとつずつ、全員でやっていけばいい。
彼女は笑った。そうだね、これからずっと私たちは一緒にいるんだもんね。
眠っているような表情で血だまりのなかに横たわる彼女に、その笑顔がダブって消えた。
深く息を吸う。吐く。まばたきをした。


夕陽に誓った親友だなんて、笑ってしまう戯言だ。ましてやそれが酔っぱらいの言葉ならばなおさらに。
イルーゾォは彼女のことを、手のかかるバカだと思っている。初めて会った時、苦労するだろうけど頑張ってねと言われてこいつはなんで俺を応援してるんだと首を傾げた瞬間、老後はよろしくねと言われて意味がわかんねえよと叫んだ時から、その印象は変わらない。
同い年の女とは思えないあけすけな言葉。上司とは思えない気安さ。何か企んでいるのだろうかと思ったが、すぐに思い直した。真剣な眼差しの裏には常に隠しきれない笑顔があり、隠し事はしても嘘がつけないやつなのだ。嘘をついても表情でバレバレ。こいつよく幹部やってられるな。彼女が豊満な胸で全員にパフパフを仕掛けてきた時に、感情のままそうツッコミを入れたら、彼女は怒るどころか快活に笑った。
「そうなのよ、金とおっぱいがありゃなんでもうまくいくってわけ。このポルポさんにかかればね」
すとんと納得してしまって悔しかった。なんだこいつ。この根拠のない自信。人生楽しそうだな。
知ってはいたが、彼女の人生が楽しいばかりのものでないと理解したのはいつだったか。酔っぱらって弱気になった姿を見た時だろうか、それとも毒を含まされて、イルーゾォの目の前で喀血した時だろうか。それとももっと遅い、彼女が左腕を一時の犠牲にした時だろうか。いつも彼女は何事も笑い話にしてしまうから、高いヒールを鳴らして歩く姿が凛としているから、つい忘れてしまうのだ。彼女がイルーゾォたちのなかで誰より弱く、命の危険にさらされているということを。そしてイルーゾォが彼女を大切な仲間―――あるいはもはや意識することもない、自然な親友だと思っていることを。
夕陽に誓ったというならば、その夕陽とは彼女の瞳なのだろう。
その光を見ている時には気づかない。彼女がまぶたを下ろし、瞳が見えなくなってようやく思い出す。夕暮れの瞳は彼女のもので、イルーゾォはその輝きが好きなのだと。夕陽を見るたびに心にふわりと名づけようのないあたたかみが広がるのは、それが彼女に似ているからなのだと。
夕陽はどこへいったのか。
イルーゾォの視線の先に彼女はいない。イルーゾォは、隠しきれていない、部屋の壁にひと筋走った切れ目を見ている。その先に逃げたであろう、もう姿を消した敵を見つめている。その瞳は誰より昏い。夕陽のやわらかい東雲色を反射して光る瞳は、その光源を失って夜を迎えるのだ。
それでも見ずにはいられなかった。止まっていた呼吸を取り戻して、深く息を吸った。奇しくもそれは同僚と重なった。まばたきのために目を閉じる。


ギアッチョの手が気持ちいいから、ずっとこうしていてほしい。
数年前に、風邪で倒れた彼女が言った。
ギアッチョは人肌の体温があまり好きではない。触っていると温度が移るし、そのぬるさが手のひらから伝わってくるのが嫌だった。熱を出して汗ばむ人間にずっと触れているなんて、きっと途中でできなくなると思った。
片手で雑誌をめくりながら、ギアッチョは彼女を見た。おかしい。いつ嫌になるかと最初は気になっていたのに、穏やかな寝息を聞いているうちにどうでもよくなってしまった。こうしてふと思い出さなければ、彼女に触れていることを疑問にも思わなかっただろう。
自分より1つ年上なのに、まったく年上らしくない女だ。上司なのに上司らしくない。ギアッチョの知る上司とはまったく違った。正反対と言っても良い。力で押さえつけてくることも、理不尽に命令を下すことも、こちらの人格を無視することもない。
おかしくねえかオメー、と、新しい上司の奇怪な行動があまりにも気になったので訊ねてみたら、彼女は真顔でギアッチョの頭を撫でてきた。ひとに頭を撫でられた記憶なんて、もうおぼろで思い出せない。胸に湧き上がった感覚が何なのか理解できなくて、それを不愉快さだと判断したギアッチョは彼女の手を振り払った。パン!女の手を払ったギアッチョ自身が驚いてしまうほど鋭い音がして、しまった、となぜかぎくりとした。
ギアッチョが人知れず動揺していることには気づかず、彼女は自分の手が叩かれたことにも頓着せずにけろりと言った。
「それはあんたの前の上司の頭がおかしかっただけで、私はおかしくないのよ」
なるほど確かに前の上司はおつむが優秀ではなかったが、それにしてもオメーはおかしい。ギアッチョはさすがに言うのをやめた。また彼女のとんでもない理屈が飛び出してくるだろうなと思ったし、もう一度ギアッチョを撫でてきた手を叩き落してまで続ける会話じゃないなと思ったからだ。
ギアッチョの平温は、他人に比べると低いほうだ。だから全体的にひんやりとしている。スタンドの効果かしらねと彼女は言ったが、興味はなかった。ギアッチョの手は冷えている。それが重要だった。
ギアッチョは一度、屈みこんで、彼女の首に触れた。切られていない方の首筋だ。
冷たく感じた。
彼女の体温はいつもギアッチョよりも高かった。女だからか、彼女だからかは判らない。ギアッチョが特別に体温が低いのかもしれない。
そのギアッチョが"つめたい"と感じてしまうほど、彼女は明確に死んでいた。手を離した。
それは葬送だろうか?
荘厳な儀式を執り行うように、ギアッチョたちの呼吸は重なっていた。その瞬間にまばたきをした。


唇だけはゆるしてくれなかったけれど、彼女の規制はひどくゆるかった。
座っている彼女の後ろから胸を揉んでも、おっぱい重いからそのまま持ち上げといて、と平然と持ち込んだ書類を眺めていたり、頬や額や手にならどれだけキスをしたって、面倒くさがることはあっても嫌がることはなかった。
一般的な成人女性に問いかけると確実に逃げるか悲鳴を上げるか警察を呼ばれるような質問をいくつか投げかけても、むしろメローネが感心してしまうほど的確に、あるいはメローネ以上にえげつない言葉で回答をよこした。メローネを気味悪がることも嫌悪することも近づかなくなることもなく、メローネめんどくせー変態すぎるーあははーとけらけら笑っていた。それに、一番最初のそれは本当に偶然だったのだが、彼女から飛び出したあけすけな好意にきょとん、と1秒停止して首を傾げたメローネを見て目を輝かせて、メローネ本当に可愛い!と自分から抱き着いて来すらした。
彼女の琴線がどこにあるのか。それを読み取るのに時間はかかったが、こういう言動をとれば喜ぶだろうなメローネが微笑んでみると、彼女は計算通りに目を輝かせた。ちょろくて可愛いな、とメローネが考えかけた瞬間、その考えは覆された。
「この可愛さを演出するために一生懸命がんばったメローネを想像するとめちゃくちゃかわいい!」
わあバレてた。
彼女を喜ばせ、あわよくば自発的にハグをしてもらおうとたくらんだメローネの心情など、彼女は完全にお見通しだった。それでもよしよし頑張ったねーと頭を撫でてくれたので結果オーライといえばオーライなのだが、複雑な気持ちだ。
それから1年、2年、3年、4年、それよりももっと時間が経って、もう、メローネは彼女がいないと精神が落ちつけられなくなった。なんて甘美な中毒性だろうか。彼女を喜ばせたいと思ったその時からそうだったのかもしれないけれど、気づいたのは。
メローネは彼女を想って興奮することもあったし、彼女の色々な表情が見たかった。彼女の役に立ちたかったし、彼女の敵は、彼女が放っておくならそれでいいけれど、その存在を忘れることはなかった。彼女に危害が及んだ時は言うに及ばず。
メローネの中には数えきれないくらい、彼女に対する感情が渦巻いていたけれど、それを内包するのはたったひとつの純粋な気持ちだった。メローネは彼女が好きなのだ。恋情でもなく、親愛に似て非なり、母を乞うそれでもない。メローネは気づいていないけれど、それはとてもきれいな気持ちだった。
彼女が入院した時、メローネは目の前が真っ暗になるかと思った。実際に真っ暗になった。あのまま彼女が死んでしまっていたら、もう二度とメローネは"泣く"ことができなくなっていただろう。彼女の死を悼んで泣くことすらできない。ぽつんとひとり暗闇の中にほうりだされてしまう。その闇の中には、いつもメローネを照らしてくれていた夕陽がない。周りにいる仲間はメローネと同じ黒色だ。だからメローネは道を見失って歩けなくなるのだ。
彼女は何度か死にかけた。そしてそのたびに蘇った。
「死にたくないのよ」
彼女は言った。死んで欲しくないよ。メローネも思った。
あんたが誰かに殺されたら、俺たちの誰もまともじゃあいられなくなるだろうから。
メローネは少し前にそう言った。彼女は自分の想像に慄いていたが、それが冗談なんかじゃないことは、彼女を含め、その場にいた全員が理解していた。その場にいなかった全員も、理解をしていようとしていまいと、それは事実だった。初めて顔を合わせた時は、彼女がこんなに深い存在になるとは思っていなかった。けれど今は、とても自然で。
俺をおいていかないで。
泣いてしまうかと思った。けれど涙は詰まったようにこみあげなくて、ひきつれた呼吸を整えるように深く息を吸い込んだ。おいていかないで。まばたきをする。


ふしぎなことに、今まで何度もその機会があったというのに、ペッシは彼女が死ぬところを想像できていなかった。
ポルポは死なない。そんな思いが常にあって、どんな危機が訪れても、ポルポならだいじょうぶだ、とその気持ちを確認するだけで心を落ち着けることができた。
それが、なぜだろう。なぜ彼女はペッシの目の前で、血に塗れて倒れているのだろう。なぜ黒衣の彼に上体を支えられて、なぜ脚からも血を流して、なぜ息をしていないのだろう。
彼女の首の傷はペッシからはうまく見えなかったけれど、黒衣と、その素肌(そういえば彼女は俺たちの格好に疑問を抱いてよくからかっていたっけ)にかすれてべったりとした血が判った。床に広がる血だまりはまだ赤く、白い壁に散った血飛沫は、花を描いた抽象画のようだった。
ペッシは何度か死体を見たことがあったけれど、そのどれもが、"死んで"いた。独特の空気があるのだ。死んだ人間から放たれる、色のない空気。ひえていく死体は周りの温度までも吸い取るようで、中心にあるそれはとても硬質だ。部屋に入っただけで、ペッシには感じられた。この部屋にいる何人が生きていて、何人が死んでいるのかを。そしてペッシは感じてしまった。彼女が死んでいることを。
ペッシは、兄貴と慕う彼にすがることを忘れた。彼ならなんとかしてくれると知っていた。けれどペッシは、彼女の死を前にして初めて、ひとりで立ったように思えた。それは、繋がれていた手がするりと離され、どうしたらいいのか途方に暮れる佇み方だったから、正しい意味で立っているとは言えなかったが、兄貴に助けを求めることを忘れたという意味ではひとりで立ったのだろう。
「ペッシの淹れてくれるラッテが好き」
ペッシが彼女のカップに濃いアイボリーのそれをつくると、彼女は微笑んでお礼を言った。そしてひと口飲んで、いつも感想を言ってくれた。ささやかな交流はペッシの楽しみになって、豆を変えて様子を見たり、ラッテのミルクをソイにして遊んでみたりした。彼女は食に貪欲なためか、味に鋭かった。これはいいね、とか、もっと甘い方が好き、とか(彼女は糖分を摂らないとすぐに空腹を起こしてしまうのだ)、バールに行くより落ち着くわ、とか、なごやかなお茶の時間を楽しんでいた。お代わりを淹れてあげるのも楽しかった。
彼女はペッシが近くにいると、かわいいねえと言って頭を撫でた。彼女より2つ年下だから、弟のように思われていたのかもしれない。けれど彼女はメローネにも、リーダーにもそんな形容詞を使って目をきらきらさせていたから、もしかしたら彼女の口癖だったのだろう。可愛いねえ。ペッシは兄貴のようにカッコよくなりたかったけれど、その兄貴もたまに「可愛い」と言われていたから、可愛くてカッコいいというのもアリなのだなと思い直した。
死体はラッテを飲むだろうか。否、飲まない。死人が口にするのは河を渡るための銅貨だけだ。
ペッシは笑ってしまいそうになった。銅貨なんて噛んだって腹の足しにもならないわよ。彼女ならきっと、金気くさい硬貨を示してそう言うだろう。
瞬間、こみ上げた笑いの衝動は、すぐに泣きそうな声に替わってしまった。ポルポ。
じわりと涙が目に浮かんで、ポルポの笑顔が思い出された。ペッシたんがにこにこしてると癒されるわ。ペッシは泣きたい気持ちを押し殺した。ポルポはペッシの笑顔が好きなのだ。
深く息を吸って、浮かんだ涙を打ち消すようにぎゅっと目を閉じた。


無性に苛々して、内ポケットから煙草の箱を取り出した。一本取りだそうとして、視界に弾痕のある女の脚が映り込んで、感情のままに箱を握りつぶした。手から滑り落として、靴底で踏みにじった。ぐちゃぐちゃになった箱から葉屑がこぼれたが、プロシュートはもうそれを見ていなかった。スーツのポケットに手を突っ込む気分にも、片脚に体重を預ける気分にもなれなかった。ただ、1秒前の激情が嘘のように冷静な目で彼女を見つめていた。
力のない足だ。ひっかけたのか、ストッキングの爪先が小さく破けている。靴は履いていなかった。
細いヒールのその靴は、プロシュートがここまで運転してきた車の中に揃えられている。これを手に入れられたのは、笑ってしまうような彼女のドジのためだった。
アジトから、女の買い物あるからひとりでいくーとあけすけすぎる言葉を残して買い物に出かけたのに、テーブルの上に財布を忘れて行ったのだ。あまりにも自然に財布がそこにあったため、十数分の間、誰も疑問に思わなかった。本から顔を上げたプロシュートがそれを見つけて、おいあいつ財布忘れてんぞ、とそう言ったので判明したのだ。じゃあ俺が追っかけるよ、と当然のようにメローネが手を挙げた。競い合うことでもないし、その場にいたリゾットもメローネの言葉を流したため、彼がバイクを動かすことになった。
そして十数分後、メローネが戻ってきた。階段を駆け上がってドアをぶち破る勢いで入ってきたその手には、一足のハイヒールがあった。
ついさっき死んだ両脚にある銃痕は、へたくそにつけられていた。わざとそうしたのでなければ、基礎も教わっていない独学の素人の仕業だ。片脚の血は固まっている。もう片方はまだ赤い色をしていた。時間差で撃たれたようだ。苦痛をもたらしたかったのか、尋問をしたかったのか。それにしたって稚拙だ。尋問のじの字も知っていない。プロシュートは冷ややかに判断した。
この女が死にかけたことは何度もある。そのたびにしぶとく生き残ってきたので、ひどく運がいいのか、生命力が強いのか、なんにしたって彼女は"そういうもの"なのだろうと思っていた。ひとはいつか必ず死ぬと、己のスタンドの性質からも理解しているはずなのに。
彼女はよく、プロシュートに勝負を持ち掛けた。勝てる、と確信しているわけではなかった。どちらかというと勝てないことを知りながら土俵に上がっていた。プロシュートは、ナニが楽しいんだか、と呆れながら、それでも真剣に相手をしてやった。彼女のことが嫌いではなかったし(もっと正しい言葉で言うのなら、好感を持っていたし)、闘志に輝く瞳も、その発想も、そして負ける姿も、見ていて面白かったからだ。
上司として慕っていたわけでは、まったくなかった。その手腕と度胸と能力は認めていたが、"上司"という形容では齟齬がある。仲間、とも少し違う。
気づいたら彼女は、プロシュートの少し前を歩くようになっていた。プロシュートの斜め前をすたすたと歩いて、たまに振り返って、プロシュートご飯食べ行こうよ、と一歩戻ってプロシュートの隣にやってくる。そんな存在だった。
いつだったか。
いつだったか、酒をどれだけ飲めるかという勝負を持ち掛けられたことがある。彼女はぐだぐだに酔っぱらって負けを悔しがっていた。けれど、彼女は夕暮れの瞳をアルコールに滲ませながら、プロシュートの前に立ってみせた。手を出して。片手を差し出してやると、彼女はそれを両手で取って指先にキスをした。
「再戦するための誓いのつもり」
彼女は微笑んだ。
プロシュートは女性からの口づけに慣れていたが、なぜかそれは口づけではないような気がした。もっと魂に触れてくる、なにか別のもののようだった。
それから幾たびも夕暮れを迎え、プロシュートはかなりの時間を過ごした。まだ再戦は、していない。
「……」
もっと早くに気づいていたら、もっと早くにこの部屋に辿りついていたら、結末は訪れなかったのだろうか。ふいにそんな思いが浮かんだ。
後悔は、プロシュートから遠い感情だった。そうならないように、冷静に、真剣に物事を見極めてきた。
今回も、そうだ。プロシュートは、その時にできる最良の選択をしたと思っているし、これ以上の働きはできなかっただろう。それは理解していた。自分の力量と結果は、誰よりも自分が知っている。
けれど、だから割り切れるなんて、誰が言えるだろうか。
煙草を吸おうと思って、それを踏みにじったことを思い出した。彼女の身体に力はなく、顔も、ブラウスも、スカートも、脚も、ストッキングも血で汚れていたけれど、その尊厳が踏みにじられることはなくて良かったと、頭のどこかでそう思った。
肺を煙で満たす代わりに、深く息を吸った。は、とあざけるように吐きだした。誰に対しての感情だろうか。判別をつけることを止めて、無意識のうちにまばたきをする。