08 決別と融合


日本に行ってくるね、と告げると、真っ先にメローネが反応した。俺も行きたい!君ならそう言うと思っていたよ。
「すまん。今回は観光、……もあるけど、ちょっとした用事があるからリゾットと行ってくるわ。今度は全員で行こうね、夢の国とか」
夢の国ではしゃぐ暗チ。天使の集団か。
残念そうな様子だったが、メローネはそれじゃあ仕方ないよなと食い下がることなく諦めてくれた。事情がない限り、私が彼らを置いていくはずがないと知っているのだ。実際、今までずっとそうだったしね。記憶の限りでは。この信頼、嬉しいと同時にむずがゆい。愛おしくって仕方なくなる。もうみんなやっぱりついてきて、と言いたいところだけど、今回ばっかりはそうもいかない。

パスポートは持っていた。ヤナギサワと初対面を果たしたあと、取っておくかと思い立ち手続きを済ませたのだ。証明写真の写りについては考えたくない。私の顔ってこんなんか。十人並みですな。自慢のおっぱいが写っていない今、どこまでも没個性な女である。
リゾットが引き出しからパスポートを取り出した時は危うく笑ってしまうところだった。持ってるのかよ。写真とか撮っていいのか。もう暗殺チームじゃないから規制が緩くなったのか。
当然、2人とも渡航記録はない。まっさらなパスポートにこれから判が押されるかと思うとわくわくする。ヤパーナ。間違えたジャッポーネだった。私イタリア人だからな。
滞在日数は3日だ。これなら月が変わらないうちに帰って来られる。
どうせなら一週間くらい滞在しても良かったのだが、それは全員で行く時まで取っておくことにした。きっとそれは楽しい旅行になるだろう。
そうそう。宿泊先を、旅館にするかホテルにするかで半日くらい悩んだのだけど、どっちがいいか訊いたら両方と答えられた。なるほどそういう手があったかー!初日はホテル、次の夜を旅館で過ごすことにした。ちなみに2人しかいないので、枕投げは次の旅行の楽しみにする。無差別スタンド枕投げ。枕が全滅するな。
また、お察しの通り、私は荷物を小さくまとめるのが苦手だ。
必要最低限の物だけでトンズラする時は異様な身軽さを発揮できるのだけど(だって何も持っていかない)、長距離の旅行は初めて(前世でも海外旅行には行ったことがない)なので勝手がよく判らない。よって、それはリゾット監修のもとに行われた。リゾットの仕分けスキル凄い。ねぐらを変える時とかに必要な技術なのかもしれない。コンパクトな衣類のたたみ方を教わった。リゾットお母さんありがとうと言ったら適当に返事された。

はー、日本。
一気に湧き上がるノスタルジア。ノスタルジアは異郷で故郷を想う気持ちのことだけど、この場合に使わせてくれ。ノスタルジアー!なんかアナスタシアに似た響きだな。アナスタシアはロシアのロマノフ王朝の王族だよ。

にしても、リゾットって日本でナニするんだろう。私を心配して(迷子防止?)ついてきてくれたけど、リゾットが興味あるものってナニ。刃物か?
と、思っていたらチェックインしたホテルの一室で荷物の中から観光雑誌を取り出していて二度見した。楽しむ気満々じゃねえか。
ここは東京なので、人は多いけれどそのぶん見るところも多いのかもしれない。私も美術館や史跡に何度か足を運んだことがある。前世で。ベッドに座って現在地を確認して路線図を見て雑誌を置いたので、たぶん目的の場所の住所を記憶してるんでしょうね。今さら驚いたりしないよ。リゾットだからね、の一言で終わる。
リゾットちゃんのベッドの上で胡坐をかいて私もそれを眺めた。まじか、東京の甘いもの食べなきゃ。うなぎも食べたい。寿司も食べたい。お蕎麦ラブ。ファミレスも行っておこう。
私、大食いで良かった。
リゾットちゃんはなにか食べたいものある?イタリア人に蕎麦うどんは無理だろうなと思いつつ食事のページを見ていると、てんぷら、と言われた。てんぷら。リゾットの口からてんぷら。てんぷらが食べたいリゾット。それなんて私得?
私は東京グルメにそれほど詳しくないため、ちょっと部屋から出てヤナギサワに電話で訊いておいた。さすが彼女さんのためにグルメ、観光、デートスポットを日々研究している男。港区周辺のグルメスポットなんて手のひらで転がせる情報でしたね、ありがとうございます。お前本当に神奈川に住んでんのか?東京じゃねえの?俺が予約しとくよと言われたので任せた。あとで住所教えてくれるってさ。至れり尽くせりだね。おっぱいのお礼だって言うから、揉ませて見るモンだな。リゾットに言うとややこしくなるのでその辺は黙っておいた。
部屋に戻り、申し訳ないけど、夕食の時間まで留守にさせて欲しいとリゾットに頼むと、今日をまるまる(と言ってももう夕方だ)使うのかと思っていたと驚かれた。まあ無表情だったんですけど。
「リゾットちゃんこそまるまる夜まで観光してていいのよ」
リゾットは、何の感情も読み取れないような声で答えた。クーデレってレベルじゃねえ。
「夕食後に街並みを把握しようと思っていただけだから問題ない」
「じゃあそれ私も一緒にやりたい」
「お前がいいなら」
やったー。
街並みの把握っていう響きが明らかに観光のニュアンスじゃなかったんだけどあえて訊かなかった。
ちなみに、私がまったく彼を心配していないのは、いつの間にか日本語ぺらぺらになっていたからだ。エーッあんた英語とフランス語とドイツ語喋れましたよね。さらに日本語ですか。リゾットが日本語。そういえばてんぷらって言ったその発音完全に日本語だったな。慄いていると、お前もそうだろうにと言われた。私はイタリア語と日本語しか喋れませんよ。

ホテルの前でリゾットと別れ、私は駅に向かった。待ち合わせはホテルの部屋。
タッチ一秒の時代じゃないので、切符を買って改札に入る。切符を買う私を心配そうに見ていたおじさんには、日本語読めるように練習してきたんですありがとうとお礼を伝えた。興が乗ったので片言っぽく言ってみた。笑顔でバイバイ。
ある駅に降り立つ。改札を出て、知っている、それでいて知らない道を眺めた。もう、町の記憶なんて薄れきっている。あんな所にガソリンスタンドがあるなんて知らなかった。憶えていなかった。
それでも道は判る。真っ直ぐに歩いて、左に曲がって、真っ直ぐに歩いて、長い信号を待って、また歩いて、公園の横を通る。そして右に曲がるのだ。

アパートはあった。13年間私が暮らしたアパート。時期でいうのなら去年、私はこのアパートに転居してきた。親との死別で、元の家には居られなくなった。借家的な意味で。
それで、親戚のおじいさんの好意で、彼が持っていたこのアパートに住まわせてもらったのだ。
中学校にはここから通った。高校にもここから通った。大学にもここから通った。バイトをして貯めたお金で、おじいさんに、そして彼が亡くなったあとは、アパートを引き継いだ彼の息子に溜まった家賃を支払い続けた。息子さんは気にしなくていいと言ったけれど、さすがに甘える気にはなれなかった。小心者的な意味で。
アパートの入り口を覗くと、そこには居住者のためのポストがある。銀色のそれを、私は見た。
私のいた部屋には、別の誰かが住んでいた。マジか。
「(空き部屋とかじゃないのかよ!!)」
普通ここは空き部屋だろ。それで私がしんみりする流れだろ。雰囲気を読めよ。空気を読まない私にブーメラン。
誰だよこのひと知らねえー。欠片も知らねえー。
私はアパートから離れた。憶えていない道を歩く。誰だよあのひと。別に誰でもいいけど、そこ入居しちゃうんだ。そういうのアリか。
まあ、当然といえば当然だ。××はこの世界にいない。ここじゃないどこかの世界の人間だ。ただ私がその記憶を持っているだけ。
かなりびっくりしたけどな。誰だよあのひと。
でも、どうあがいてもあがかなくても、私はイタリア人だ。
ポルポという名前のイタリア人。ポルポよりも馴染みのある名前は××だし、今でも私はそれを確信している。私は××だ。けれど同時に、私はポルポだ。私はポルポ。トラウマがどうのこうのとか"ポルポ"がどうのこうのとか、ゲシュタルト崩壊しそうだ。だけど、"ポルポ"の運命を乗り越えたことで私はポルポとして生きられるようになり、そして今××という存在がこの世界に何の影響も与えていないことを知って、私は××と同化した。やっと同化した。
ふむ。
いったい私はなににこだわっていたのだろう。私は驚いただけで、まったく動揺していなかった。涙でも出るかと想像していたが、かけらも悲しくないし懐かしくないし執着もない。自分の気持ちに決着をつけるという悲壮な覚悟を固めて日本行きを決断したはずなのに、だ。
なぜだろう。
思い浮かんだのはリゾットだった。なんでリゾット?疑問だ。

不思議に思いながら街を歩き、アッそうそうここに蕎麦屋あったっけ、と思い出して暖簾をくぐった。イエーイ蕎麦イエーイ。てんぷらは夜に食べるので、程遠いなめこをチョイス。これがおいしいんだよね。天かすも我慢した自分を褒める。代わりに七味をかけておいた。ずるずる。おいしい。蕎麦うまいよー!!
お皿を返す時に、あんた外人さんなのにめっちゃ蕎麦すすっててびっくりしたよと言われたので、お蕎麦をすすらずなんとする!と適当ぶちかましておいた。笑ってた。

電車に乗って、この近辺では都会とされる賑やかな町に行く。こういう駅にはファミレスとファストフードがいっぱいあるんだよ。電車から降りる。うん、まったく憶えてない!憶えてないけど記憶なんかなくても歩いていたらファミレスいっぱい見つけた。一通り入って食べた。安っぽい味から意外とおいしいメニューまでさまざま。気合入れたし、なんかアパートを見てあっさり気持ちが切り替わった瞬間からお腹がぐーぐー鳴っていたのでこの程度じゃこのポルポ様を止められない。日本から進出したファストフード店に入っておいしいやつを食べた。あと、コンビニでお菓子を買い込んだ。夜に食べようっと。大きめのハンドバッグに突っ込んだ。

ホテルのある駅に戻ると、まだ夕食には時間があった。
フロントにホテルの鍵を預けておく、とリゾットが言っていたので部屋に戻った。ジュースを冷蔵庫に入れた。
ベッドに横になる。天井を眺める。
「リゾットか……」
なんとなく、気持ちの全貌が見えてきた。いつからだったのか、私には判らない。
「そうか、リゾットは私の……」
理解して、目を閉じた。
本当に、私はいつからリゾットのことが好きだったんだろう。今から思うと心当たりあるよ。あの時まで気づかなかったとかアホすぎる。鈍いってレベルじゃねえぞ。あー、リゾットがベッドで隣にいないと違和感あるなー。うっこの思考恥ずかしい。
って、ダメダメダメ!!!慌てて起き上がる。
イカン。寝てはイカン。ホテルはオートロックだからリゾットが戻ってきても部屋に入れないということになってしまう。チャイムごときでは私は起きない。部屋の前に佇むリゾット。あるいはピッキングして入ってくる。パッショーネの暗殺教育をナメたらイカンぞ。あとリゾットの学習能力。ホテルの鍵程度指先ひとつでダウンさ。

時間までナニをして過ごそうかな、と部屋を見回した瞬間、チコーン、とチャイムが鳴った。あまりのタイミングの良さにひゃあッと変な声で叫んだ。ぱたぱたと扉に向かいながら時計を見ると、時間の50分前だ。私が着てからおよそ10分。私も大概だけどあんたも早えよ。
「早かったね、リゾット」
「……」
「"お前に言われたくない"」
「正解だ」
いくつか小さな紙袋を持ったリゾットが、それを丸いテーブルの上に置いた。その背中を見る。ふむ。この安心感、落ち着き、心の温かさ。やっぱりそうなのだ。
「リゾット」
呼ぶと、彼は振り返る。私の顔に笑顔が浮かんだ。ぱたぱたと歩いて、その身体に抱き着く。抱き返されて、確信する。
国じゃなく、場所じゃなく、私の帰る場所はリゾットなのだ。