低血糖



電話で起こされた。ブチャラティだった。関係のない部署からたらいまわしで回ってきた書類に不備があってうちの仕事に支障が出た、という用件だった。
今日の依頼に穴が開く。致命的ではないが確実に影響を及ぼす穴。眠気も吹き飛ぶ衝撃だ。一瞬で脳内を情報が駆け巡る。1秒と経たずに理解し、反射的にベッドの足元から飛び降りてスリッパも履かずにリゾットの部屋から飛び出た。転びかけた。
ばっかやろうまともに仕事しやがれと見たこともない部署に愕然。まじすか。マジなんだ。跳ね起きた。いつもどおりにスカート履いてブラウスを着てジャケットを着て髪を整えて軽く化粧をする猶予なんてない。肩と耳で携帯電話を押さえながら、午後から移動して仕事に就くはずのギアッチョに連絡を入れる。
「今からこっちで手続きやり直すから、もう一度連絡するまで動くの待って!」
「大組織にバカがたむろしてるっつうのはいけすかねえよなああ仕事しろっつうんだよこっちを巻き込むなクソがッ!」
付き合ってる暇がないからごめんと言って切った。話している間に下着をつけて肌着はなしで羽織るタイプのワンピースを着る。

必要な書類をクリアファイルに挟んでトートバッグに入れて電卓を突っ込みペンケースを放り込みパッショーネのボス直通の許可証をポケットに突っ込む。面通しをする時間がない。
「ごめん出る!」
階段を下りながら部屋の前に出ていたリゾットに告げて、何も食べず飴も持たず玄関の鍵もかけずに飛び出した。走っている暇がない。タクシーつかまえて全力で走ってくれと本部からひとつ外れた通りを指定して、駆け足で来るよりも10分早く(推定)駆け込んだ。ポケットの許可証構えてブチャラティの部署に。ノックとほぼ同時に入室。
「おはよう仕事どれ!?」
「朝からすまない、これとこれなんだが、どちらにも数字と対象の構成員の情報に誤りがあった。完全にこちらの手落ちだ、本当に申し訳ない」
「ブチャラティは悪くないよ。ちょっと椅子借りる」
「ああ」
クリアファイルの資料と書類を広げてペンを執る。ざっと目を通して、よぎった。よし、そのバカ共泣かそう。

私ってこんなに文字を読むの早かったんだあアハハ。
読み進むと同時に対策を考え、綴りの長さの手間を省くためにイタリア語と日本語を交えてメモ。がりがりがりがり進めてブチャラティと、正しい情報を入手してくれたフーゴの協力を得て、昼前11時に終了した。
ペンを置くというより机に放ってギアッチョに電話。ギアッチョにも資料を読みあわせてもらって、誤情報を修正した。今度はギアッチョの文句を聞いた。私のぶんも罵ってくれ。あと、今そこにいる全員に、預けた依頼の資料もって集まるように頼んどいてくれ。
もの凄く疲れた。朝からこんなに働かせないでほしい。
「後日、公式に謝罪文を送らせて欲しい」
「ん。私の有能さをパッショーネに広めといてよ」
「本当にそうしたい。速さといい精度といい、素晴らしい仕事だったよポルポ」
「どーも。普段褒められないから嬉しいわ」
机に広げた私物と書類をまとめて、提出するぶんはブチャラティに提出して、これからうちの仲間んとこの書類に不備がないか検めるから帰るわ、と手を振ってまた廊下を走った。空腹を感じていなかったといえば嘘になるけど、急を要する仕事がつっかえているので、食事を摂るという選択肢はなかった。
タクシーに乗ってから飴がないことに気づいて、ちっくしょう失敗したあああと頭を抱えた。激しく脳みそを回転させたので、恐らくかなりエネルギーを消費しただろう。仕事が終わったらリゾットのごはんをたくさん食べたいなあ。おつり要らないから今度またよろしこ、と適当ぶちかましてお札を押し付けて道を走った。機密ってほどでもないけど、タクシーで乗り付けるわけにはいかない。
道を走って階段をがつがつ上ってノックと同時にドアを開けた。土足で入れてヨカッター。
「やろうども!書類よこしな!」
「合点承知、女王さん、俺らのから」
ソルジェラとメローネとギアッチョとホルマジオがいた。
ちなみに、ソルジェラ→ホルマジオ→メローネの順番で確認した。

ペンを投げる。終わったあああ。
ギアッチョのそれ以外は全く問題がなかった。安心。
「ごめんね、こんな昼間っから慌ただしくて……ギアッチョも朝にごめん」
「これはポルポの責任じゃないぜ。何か飲むかい?」
「うー……とりあえず水ください……」
メローネに頼むと、しゃーねーな俺がいれてやるよとキッチンに近かったホルマジオがコップを出した。私は机に突っ伏して脱力。
お水がテーブルに置かれて、私はそれをぐいーっと一息に飲んだ。朝から何も飲んでないじゃん私。がんばりすぎだろ。死なない無理しない飯抜かないがモットーなのに2つも破ってんじゃん。
「あー、……終わったし、家帰るわ」
「もっとゆっくりしてけよ女王さん。おにいさんたちが労わってやるからさ」
「そーそー。昼食つくってやるよ。ナニがいい?」
「まじか……助かるわ……ソファ借りんね」
朝から何も食べてないのよ、もうくらくら。冗談めかして苦笑して、がたりと椅子から立ち上がった。くらり、目の前が黒く点滅する。
「あ、れ」
頭が揺らぐ。視界がぶれて平衡感覚がくるう。耳鳴りがひどい。目の前が真っ暗になって、倒れたことにも気づかなかった。


誰かの声が聞こえた。遠くだ。
唇が重いわ。おいおい覚醒夢か?でも夢じゃないなこりゃあ。
うー、だるい。
目を開けると、天井が見えた。見覚えありありありーべでるち。
デコがあたたかい。タオル?いや、たまに動いてるし、なんかこれ知ってる。
あと、なんか腕重いしぽたぽた言ってる。視界の端に、点滴のアレが見えた。点滴って。
「私点滴初めてだわ……ナニ?ナニが起こって点滴されてんの……?」
「ポルポ!!」
ガタガタガタッと音がしてメローネがすっ飛んできた。今椅子倒した?
「リーダー邪魔。ポルポ、大丈夫?見えてる、よな。これ何本?」
「どれだよ……指立てろよメローネ……あと度胸あるね君……」
リゾットに邪魔って言えるのすごいよ。ていうかリゾットいるの?
「見えてるね。ここがどこかわかるかい?」
「アパートの集合するとこ」
「そうそうそう、ベネ」
メローネの手がぺたりと私の頬に当てられた。
「ちょっと冷えてるか。さっきよりはましだけど……」
かつかつと足音。メローネの顔がそちらを見て、ホレ、と言ったホルマジオから何かを受け取った。あ、それ横になってても飲めるやつじゃん。すげえ。
「なんでホルマジオそれ持ってんの?」
「リーダーが持ってきたんだよ。俺が持ってるワケねェだろ?風邪もここ10年引いてねェのによォ」
「私だってないよ……!」
「オメーは前にぶっ倒れただろ」
しまった、そうだった。2人ともありがとう。メローネもありがとう。ソルジェラありがとう、ご飯くれ。
横を向いたらリゾットがいた。さっきは視界に入らなかったけど、ひとの視界を把握して綺麗に避けていたのかな?
リゾットはメローネから水飲み器を受け取って(というより抜き取って)私の唇に当てた。咥えてこくこく飲んでいたらなんか元気出てきた。これお水甘いです。ポカリみたい。
「これおいしい。これをおいしいと感じるってことは私、具合が悪いのでは?」
テーブルのほうで爆発するような笑い声が立った。確認するまでもないね、ソルベとジェラートだね。
「悪ィんだよ、バカ」
呆れたようなホルマジオの声。マジか。でもだんだん意識がはっきりしてきたし、回復してきている。
私はなんで気絶していたんだっけ。前に、前世で覚えのある感覚だった。忙しかったのと、エネルギーを消費したのと、ご飯を食べていない――糖分が足りなかったこと。ああなるほど。
「低血糖か。点滴入ってるってことは……これブドウ糖?」
「うん。朝からなんにも食べずに仕事してたって言ってたし、軽く検査したけど間違いなく低血糖」
「検査って、……ここで?」
メローネが得意げに笑った。俺、そういうの得意なんだ。
だよね、この子たちが私を病院に担ぎ込むことなんてないよね。検査の準備があったことにも驚かないよ。
まほうのじゅもん:メローネ
「そんで、なんでリゾットが私のデコに手を乗っけてるの?」
寝ころんだままリゾットを見ると、すっと目を細められた。えっこわい。
「ギアッチョから、お前が倒れたと連絡を受けた」
「あ……そうっすか……すみません。ギアッチョありがとー」
ガツンとコップをテーブルに強く置いたのか、叩きつけたのか、激しい音がした。
「オメーの為じゃねえ!黙ってたらぜってええええ面倒くせえ事態になっから仕方なくだ」
「激しく同意」
「ぶひゃははははは!!笑かすなよふあっはははは!!」
「やめてくれポルポ!!もー俺ら腹筋割れる!」
「オメーらもう割れてんだろうがよォー」
なあなあで流れかけたけど、ギアッチョからの連絡があった、っていうのは私のデコに手を乗っけている理由じゃないよね。
私はもう一度リゾットを見た。もう目は細められておらず、点滴針が入れられている私の腕を見ている。
私の腕はソファに伸ばすには幅が足りないので、タオルを上に重ねて高さを調節されたスツールに載せられている。ふわふわしていると思ったよ。柔軟剤使っただろ?使ってないッスよ。
リゾットの手はとても気持ちいいし落ち着くのだけど、その手のひらがいつもより暖かく感じるられるのはなんで?変温動物かと思ってたけど恒温動物だったの?訊ねると、ソルベかジェラートのどっちかが椅子から転げ落ちたような音がした。変温動物だと思ってたんだふぐっはははあげっほげほげほ。君たちそんなに笑いの沸点が低くてよく社会生活ができるね。
「俺の手があたたかいのではなく、お前が冷えているんだ」
「なるほど」
さっきメローネもちょっと冷えてるって言ってたもんね。
そのメローネは、私の腕に刺さっている点滴針と、動かない左腕をじろじろと見ている。何か珍しいの?ううん、俺さ、ポルポの腕に針を刺す時、なんかめちゃくちゃ興奮したんだよな……。元気そうで何より。ポルポが元気になってハグしてくれたらもっと元気になるぜ。そうかい。あるいは慣れない手つきで俺の採血してくれたらもっとベネ。
「オメー相変わらず気持ち悪ィな」
ホルマジオナイス。
はふ、と息をつくと、ぐうう、とお腹が鳴った。
「おなかすいた……」
人前でお腹が鳴いたという恥ずかしさなんてない。すいてるものはすいている。
ひいひい言っていたソルベとジェラートは、ようやく呼吸を落ち着かせたようだった。
「俺らが胃に優しいモンつくってやるよ」
「そんで様子見て、イケそうだったらパスタとパニーニとフォッカチオとスクランブルエッグとポテトサラダな」
「やったー!元気!もう元気です!」
軽く起き上がろうとしてくらりとした。おっと。
食事のために無視しようと目をつむってやりすごそうとしたら、額に当てられていたリゾットの手が頭をソファに押し戻した。
「点滴が終わるまでここから動くな」
「え、えええ……つくってるところを見てもっと元気になりた、んむ」
水飲み器の飲み口を唇に押し付けられた。
「動くな、と言っているんだ」
いま、そのセリフを言っちゃいますか。
私の眉はへなりと下がり、さぞ情けない表情を浮かべていたのだろう。メローネがあははと笑って、ホルマジオがオメーの笑いが判んねェと匙を投げた。
ちゅうちゅうとポカリもどきを吸い上げていると、メローネがローテーブルからボトルを取り上げた。お代わりを入れてくれるのかな、とメローネに目を向けると、キャップを開けて、私に向かって小首を傾げた。
「口移しで飲ませていい?」
「ワンクッション置くことを覚えてくれたの?ありがとう、メローネ。でもそういうことは恋人にやりなね」
「俺が恋人をつくるように見えるかい?俺はポルポにやりたいんだよ。だって、ポルポはいましんどいだろ?俺はポルポを元気にする手伝いがしたい、それだけなんだ」
にこりと純粋に微笑まれた。
「くうッ……可愛い……!おねえさんなんでもしてあげるよ!でも口はダメだ。おっぱいまでなら全然オッケー」
「弱ってるポルポの胸を揉みしだくなんてそんなことできないよ」
揉みしだけなんて言ってねえよ。毎回思うけどあざとい。
でもたまに素の照れと言葉を見せるから目が離せないんだなあこれが。あと、額にあるリゾットの手の指が一本、とんとんと動いた。メタリカはやめてね。
「オメーも勇気あるっつーか学ばねェっつーか……どこでどんなこと教わってきたのか知りてェよ」
「大学で日本文学と心理学と一般倫理を少々」
「じゃあオメーの周りの人間がオカシかったんだな」
ギアッチョ、そりゃひどいよ。
親しいひとなんてホモの先生しかいなかったし。友人少なかったし。狭く浅く。
やっぱ前世の影響かねえ。
記憶を手繰っていると、メローネが水飲み器にポカリもどきを注ぎ足してくれた。また飲まされる。胃に液体のぬるい温度が広がる。それはするりと胃を通り抜け、糖分を吸収する器官に辿りつくのだ。具体的に言うと小腸。元気出るね。
ゆるゆると染みこみめぐっていく糖分に、体温が上がっていく。頭もはっきりして、まばたきが重くなくなった。
「治った」
「マジでか?オメー、飯食いたさにテキトー言うことあっからなァ」
「そんなことしないよ!ほんとだって!ほら、点滴ももうちょっとで終わるしさ」
そしたら動いてソルジェラのごはんが食べられる。
「あっ……もしかして、私の看病でみんなお昼ご飯食べはぐれちゃった?」
「俺たちは全員食べてるぜ。様子見てたから軽くだけどさ」
「ごめん……、それだけじゃ足りないよね。どうしよう?ソルベとジェラートがつくってくれてるやつ、分けてもいいのかな?あ、起きて私、つくろうか?」
「……」
「あははは」
「アホか」
「ややこしくなるからオメーは喋んな」
怒られてしまった。今のはさすがに無茶だったか。私も低血糖でぶっ倒れたひとにご飯をつくらせたりしないわ。
じゅうじゅうと油の跳ねる音が食欲をそそるキッチンから、ジェラートが笑んだ声で言った。
「気にすんなよポルポ!ちゃんとそいつらのぶんもつくってっからさ!」
「おにいさんの仕事はカンペキなんだぜ女王さん。グリッシーニでもかじらせとけば平気だろ?」
「平気じゃない!平気じゃないよソルベ!」
「ソルベジョークだぜ」
「ぎゃははは、まあそれでも俺らは構わねえけど!」
そりゃあんたらは構わないでしょうよ。

元気が出て来たので、ホルマジオに訊ねられて朝食も糖分の摂取もできなかった理由を説明したり、ああだから書類見てたのかと納得されたりしていたら点滴が終わったので、メローネが針を抜いてくれた。
私の肘の内側にある点のような痕を見て、メローネの目がマスクの奥で弧を描いた。
「針とは言え、この痕は俺がつくったんだよなあ。やっぱり興奮するからさ、またしんどくなったら俺のとこに来てくれよポルポ」
オッケー、と頷く。
「今度は経口摂取ができるうちに頼むわ」
「ポルポが頼みごとをしてくるっていうのもイイけど、俺の部屋にあった薬をあんたが飲む、っていうのもディ・モールトイイ」
「誰かイルーゾォ呼んでー」
ツッコミが足りねえ。

テーブルについて、並べられた湯気の立つ素晴らしい料理の数々に圧倒される。ソルベとジェラートの料理スキルは、世に出たらきっと引っ張りだこだろう。
2人がいてくれてよかった大好き、と感激を伝えると、女王さんのためならいつだってつくるぜ、と頼もしいお言葉をいただいた。
さて、胃に優しいスープから口にする。胃に染みるあたたかさにほっとする。これよ。私が求めていたカロリーはこれよ。
ぺろりと皿を空にして、ジュースを飲みながら10数分を会話しながら待つ。特に腹痛が起こることもなかったので、リゾットとメローネの許可が出た。
にしても、メローネって一体どんな技術を持ってるんでしょうね。リゾットが医療の知識を持っているのはなんとなくリゾットだからなと頷けるけど、メローネのそれはどこで手に入れたものなんだろう。点滴の準備があることといい、以前にもいくつかそういうことをしてくれた気がする。
まあ、いいか。
私はフォークを手に取った。パスタを食べよう、と取り皿に手をかけて、ん?と瞠目した。
向かいのジェラートが、フォークに巻き取ったスパゲッティを私に差し出していた。
「えっと……」
「ポルポ、さっき身体が冷えてただろ?うっかり指がもつれっちまうといけねえからさ。ほら、ソルベのスパゲッティはおいしいぜ?」
「……えっと……食べていいの?」
「食べて欲しいからやってるんだって」
周りを見回しても、誰も否定しない。なにこの状況。リゾットたすけて。戸惑った視線をリゾットに向けても、雰囲気でしか判断できない表情で小さく頷かれた。食えと?
ジェラートに、ほら、と促されたので、身を乗り出して、あーんと口を開けた。丁寧に食べさせられる。
「とてもおいしいです」
「だろ?」
なぜか、つくったソルベよりジェラートが喜んでいる。
おいしいスパゲッティを飲みこむと、ほら、とソルベの腕が伸びてきた。その先にはグラタンのマカロニとチキン。えっと。
「つくってから時間置いたから冷めてるぜ」
そう言う問題じゃないんだけど。
また誰もヘルプに応えてくれなかったので、食べさせてもらって、もぐもぐと咀嚼する。いったい何が起こってるんです?
意味の分からない状況に困惑しているうちに、ホルマジオにポテトサラダを食べさせられ、メローネにスクランブルエッグを食べさせられ、リゾットの持つパニーニをかじらされ、なんとギアッチョからも彼がちぎったフォッカチオを意外と丁寧なやり方で押し込まれた。
なにこれ。
訳のわからない、戯れにも似た食事風景は私が我に返ってもうゆるしてと懇願するまで続いた。リゾットは最後まで食べさせてきた。
「うまそうに食べるから、ポルポに物を食べさせるの楽しいんだよなあ」
「どっちかっつうと、食べさせたいっつーより、食べさせなきゃいけねえって感じだよな」
ソルジェラ談。