07 スマイルください


スリッパを床に落として後ろを向き、膝立ちになって背もたれに腕を乗っけて、ふむ、と考える。100円あったらアイムラヴィニット。ここイタリアであえてそれを選ぶこともなく過ごしてきたけど、思い出してしまったからには言わずにはおれない。
イルーゾォがトイレから出てきたので、私は口を開いた。
「Si prega di sorridere.」
「……は?」
「Si prega di sorridere.」
同じことをもう一度言うと、イルーゾォの眉根が怪訝そうに寄せられた。眉間にしわが寄っているし、こいつ異星人か?みたいな目で私を見ている。異文化コミュニケーションを楽しもうよ。
「今度はお前、ナニ企んでんだよ?」
「失礼ねえ。企んでないわよ。ただみんなの笑顔が見たいだけ」
「その笑顔が気持ち悪い」
それが26歳の男が26歳の女に言うセリフか?どんな罵倒だよ。相手によっては興奮しそうだな。
黙って見ていると、さすがに罪悪感を抱いたのか、イルーゾォは顔を逸らした。気を遣わなくてもいいのにね。だいたいいっつも私のことをそうやって扱ってくるじゃん。性根までワルになりきれない愛いやつ。
「ね、スマイルください」
「……わ、……笑えって言われて、見られてて、笑えるわけねえだろっ」
「やだ君かわいい」
照れてるのか。照れているんだな。26歳の男が、26歳の女にスマイルを求められて照れているんだな。素晴らしいじゃないかこの地球は。
「そ、それに、どんぐらい笑えば笑ったことになるんだよ」
「人それぞれの基準でいいんじゃない?私のコレもスマイルだし」
「そんな下心ありそうなスマイル誰もいらねえだろ!」
「そうかな?」
確かにニコニコというよりはニヤニヤだけど。
このままじゃあ絶対笑ってくれなさそうだ。くすぐるっていうのもスマートじゃない。ここは口先だけで笑顔をゲットしてこそ、ミッションコンプリートと言えるのではないだろうか。
「イルーゾォ、知ってると思うけど、私、みんなの笑顔が好きなんだよ。でもイルーゾォってば、最近カリカリしてツッコミ役ばっかりじゃない?そんなイルーゾォも大好きだけど、やっぱりあんたの笑顔が見たいなあって思ったの」
うっ、と顔をほのかに赤らめた彼は、また顔を逸らして、もごもごと唇を動かした。目だけで私を見る。
拗ねたように悔しそうな顔をしたイルーゾォは、う、うるせえそんなんじゃ誤魔化されてやらねえからな、と言いながらひねくれた表情を私に向けた。26歳の男つかまえてお前の発想が判んねえよ!プンスカ言われたので、私は笑い声を立てた。
「あははは、イルーゾォ、やっぱり可愛い。最大限の笑顔をありがとう」
「わ、笑ってねえし!!」
「愛が伝わってきたからもうそれ笑顔かと思ったわ」
「愛とか込めてねえし!!」
「そう?」
でもまあ、イルーゾォの笑顔って本当に珍しいですからね。うっすら笑ったところなんて、誰かに強烈な殺意を抱いた時しかお披露目されないからね。そう言う意味ではスマイルをいただかなくて本当に良かった。


戸を叩くと、たっぷり50秒は待った頃にホルマジオが現れた。なんだよォオメー、俺は今からシエスタだぜ。それってスペインの風習じゃなかったかな。いいんだよ昼寝にゃあ変わりねェだろ。
本当に眠そうだったので、私は玄関先で用事を済ませることにした。
「ホルマジオ、スマイルちょうだい」
「あ?スマイル?なんで笑わねェといけねェーんだよ?」
「私が見たいから」
「オメー……」
バカだろ?やっぱりバカだろ?罵られてしまった。
いいじゃん、ホルマジオの笑顔って明るくて頼もしいじゃん。みんなの笑顔を見て私は嬉しくなるけど、ホルマジオが笑ってたら、私まで楽しくなってくるんだよね。いっつも呆れられてばかりだから、たまには屈託のない笑みをプリーズ。
要求を伝えると、ホルマジオはざりざりと手のひらで頸の後ろを撫でた。くすぐってェこと言ってんじゃねェよ。
「お?お?今照れた?今照れたか?マジオ?え?今照れた?」
「あァー照れた照れた。オメー、そーいうトコが残念なんだよなア……普通は気づいても黙ってるモンだぜ」
「すまん、私素直だから」
「……だろーなァ。図太さと度胸と軽率さがなんか混じり合ってオメーが出来てんだろうなってよく思うわ」
「ん?うん、ありがとう」
褒められてはいないんだけどお礼を言っておいた。波風立てない人間関係をね、構築していきたいね、スマイルのためにもね。
私が心にもないお礼を言ったことが判ったのか、ホルマジオはハァーとため息をついた。大きい手が私の頭に載せられて、わしゃわしゃとかき回される。少し伸びていた前髪が目にかかった。指で退けると、しゃーねーな、とホルマジオが笑った。
笑った!
「ありがとう、ホルマジオ」
「オメーの突拍子もねェ行動はいつものこったしなァ。放置して怪我でもされちゃあこっちも冷や冷やすっから、早ェうちに済ましちまったほうがイイってワケだ」
私は子ども扱いをされているんだろうか。26歳だのにね。あんたも26歳なのにね。
昼寝の邪魔してごめんね。たぶんまったく悪びれていない顔だったのだろう。ホルマジオは笑いながら私の額を拳でついた。感謝の代わりに、その手を取って拳にキスをした。
「オメー、このことリーダーに言うなよ」
苦笑された。
このくらいでリゾットはやきもち焼くかなあ?想像してみた。
「うん、やめとくわ」
波風立てずに行っとこう。


「プッロシュートくーん」
椅子に座っていたプロシュートに後ろから抱き着いてみた。揺らがない。イケメンだからか?
「人恋しいならメローネんとこ行け」
「それは後で行く。今はプロシュートとペッシに用事があるのよ」
「えっ、俺にも?」
「うん」
プロシュートの向かいに座っていたペッシが目を丸くした。そうだよ、と肯定して、プロシュートから離れる。隣の椅子を引いて、こちらを向いたプロシュートに、ワクワクしながら注文した。
「スマイルください」
「あ?何を言ってくるかと思ったら、……また下らねえこと思いついたのか」
「そうなのよ。ねえ、ペッシも兄貴のスマイル見たいよね?」
「う、うん!兄貴はどんな表情でもカッコいいからね!」
ほら、可愛いペッシちゃんがこう言ってるよ。
期待してイケメンに視線を戻すと、彼はフッと口角を上げた。仕方がねぇやつらだなと言わんばかりのその表情。皮肉はまったく混じらない。
どこか、年下の私を、そして弟分のペッシの成長を見守るような、美しすぎる相貌に浮かべられるにはあまりにも優しい笑顔だった。
ぱああと顔を輝かせたペッシと一緒に喜び合い、兄貴カッコいいですー!とひとしきり感動してから、私は笑顔の下ではたり、と動きを止めた。
「私ってプロシュートにとってナニ……?」
「はあ?」
弟分のペッシに、父性あるいは母性を抱いてそういった笑みを向けるのなら判る。けど私って、ただ胸のデカい年下の女でしかないワケだ。それなのにあの笑顔を向けてもらえる、いや、向けていただけるということは、プロシュートの中で私ってどんなことになっているんだろう。手間のかかる元上司?マンモーニ?
あっでも最近はペッシのことをマンモーニって言ってないもんな。なんかよく判らんうちにペッシたんが覚悟を決めて生き始めたので(だいたい私のトラウマのせい)、プロシュートは彼の成長を促すというより、彼の望むまま、伸び始めた新芽を摘まれることのないようそっと見ている、そんな雰囲気だ。ペッシはそれに気づいているのかいないのか。無邪気に兄貴と慕うと同時に、私の前ではとてもしっかりした眼差しになる。
私が首を傾げていると、プロシュートはポケットから取り出した煙草の箱をトン、と叩いて一本取りだした。指に挟んで、まだ吸ってもいないのにフウ、と息を吐く。
「聞かなきゃあ判んねーのか?」
どんな言葉よりもその態度と声音が雄弁に語ってくれる。おー、なるほど、把握把握。
「愛ですね。ザ・グレイトフル・ラブだね。なんだかんだ言って君たち私のこと大好きだもんね?」
「あー、そーだな。テメーはそんな感じで大雑把に生きてりゃいいんじゃねえのか」
「今適当に対応した?え?おねえさんのことウザったくなった?」
「判ってんなら黙ってカッフェでも飲んでろ」
「え?間接キスする?イケメンすぎて照れるわー」
「アホかテメーは。人が火使ってる時に身ィ乗り出してくんじゃねえ」
叱られてしまった。プロシュートおかあさんありがとう。
大人しく椅子に戻って、今度はペッシに身体を向ける。ペッシが自分のカップを見た。俺、ラッテ淹れようか?いいのよペッシたん気を遣わなくて。ありがとうね。むしろペッシたんに淹れようか?
「あ、いや、いいよ、ポルポ。ポルポは熱湯とか、あんまり……触んない方が……」
「……あの……いったい君の中で私はどんなドジっ子になってるんですかね?私、26歳だよ?今まで自炊もしてきたよ?」
目を逸らされた。プロシュートが紫煙をくゆらせ、胸に手を当てて考えろと細く煙を吐きだした。
言われた通り、椅子の背もたれに身体を預けてすぱすぱ煙草を吸っているプロシュートの胸にぺたりと手を当てた。真剣な顔をつくる。
「やっぱり理由が思い当たらないわ」
「教えてやれペッシ」
「はい、兄貴」
まさかのボケ殺し。プロシュートはわざとだろうけどペッシは本当に何の疑問も抱いていないんだろうな。これでペッシまで意図的に私のボケをスルーしているのだとしたら暗チヤバい。元だけど暗チヤバい。
ペッシが指を折り始めた。
「数年前だけど、しゃがんだ時に胸にひっかけてミルクを温めていた鍋をひっくり返してかぶっちゃったのはあまり温まってなくて運が良かったよね。ポルポが冷凍庫を探っている時にホルマジオが後ろから冷蔵庫を開けて、それに気づいて会話してたはずなのに冷凍庫を閉めて立ち上がろうとして頭を冷蔵庫の扉にぶつけてたし。料理は上手なのに、たくさん面白い話をしながら包丁を使っているからたまに手元が狂ってるし、おなじようによそ見をしながらポットのお湯をくんで、カップから跳ねたお湯で軽く火傷してたし、やっちまったあああ!って言いながらお砂糖とお塩を間違えたこともあるし……」
「ち、ち、ちがうわよ!それはズルい言い方だよペッシ!今までのやつ全部数えてるでしょ?!それじゃあ公平じゃないよ、人間は進化するし学習する生き物なんだから!」
今はそんなことしないよ。昔は若かったから少し間違えることもあったけど、今はもう慣れたよ。
全力で主張すると、ペッシは困ったような顔をした。でも、見てると心配だから、俺に淹れさせてねポルポ。
あ、……はい、すみません……。
いつの間にかプロシュート譲りの男気をまといはじめていたペッシに、可愛がっていたペッシのはずなのに、きゅんとしてしまった。プロシュート一門強すぎ。


ギアッチョの笑顔は思わぬところで手に入れられた。スマイルくださいと言う前に、ホルマジオとイルーゾォを見ながらゲラゲラ笑っていたのだ。ホルマジオがイルーゾォとギアッチョにやりすぎなちょっかいを出したらしく、我慢ならなくなったイルーゾォがホルマジオに全力で抵抗してマウントを取ったところを笑って煽っていたらしい。脳内メモリーに名前を付けて保存した。
ちなみに、せっかくなのでもう少し可愛く笑ってくれるかな、と今思うとトチ狂った期待を持ってギアッチョに例の言葉を言ったところ、全力で顔をしかめられた。
「ハァア?」
スマイルが欲しいんですけど、と重ねてお願いすると、オメーがドジこいたら笑ってやっから近寄ってくんなとツンツンされた。おねえさん君の笑顔のために頑張ってドジこくね。

ソルベとジェラートは3人の様子を笑いながら傍観していた。
めっちゃくちゃ笑っているし、あえてお願いすることもないだろうかと私が逡巡していたら、ちょいちょいと手招きをされたので近寄った。Si prega di sorridere、と声を合わせて言われた。や、やだこのホモイケメン。ホモじゃねえって。
「俺たちもポルポのトゥリパーノみてえなソリッゾが見てえんだぜ?」
「そうそう、おにいさんたちに最高の笑顔を贈ってくれよ」
チューリップのような笑顔クッソワロタ。クッソワロてしまったのであはははははなんだそれあははははは、と絶笑しかできず、自分の発言に笑い出したソルベとジェラートと合わせて3人で腹抱えて転げまわることになった。もうスマイルってレベルじゃない。


メローネがソファに座って雑誌をめくっているようだったので、私は後ろから手でその両目を覆ってみた。
「だーれだ」
「ええー?誰だろうなあー、全然わかんないぜ」
こいつも私並みに適当なこと言うからなあ。
判ってないはずはないのに間延びした口調であははと肩をすくめて、私の手に自分の手を重ねてくる。ああ体温高いよねメローネっていつも。
ぱさ、とメローネの睫毛が手のひらをかすめたような気がした。気のせいじゃなかったとしたらあんた睫毛長いな。やっぱりイケメンだからなの?
されるがままに手を預けていると、ふいにべろりと舐められた。ゾワゾワゾワッと指先から背中までが震えた。
「うん、ポルポだな。味で判った」
「味じゃなくても判るでしょうに」
まったくこの子は。
首を逸らして、上から覗き込んでいた私と目を合わせたメローネは、で、どしたのポルポ?と私の手を握ったまま訊いた。私は答えた。
「メローネのスマイルが欲しいの」
「へえー、俺のスマイル?どっちがいい?」
どっちってナニ?
「可愛いのとカッコいいの」
「……」
何この子自信家。
自分の魅力を知り尽くしているとしか思えない。たぶん知り尽くしている。このメンバー9人いるけど、一番えげつなく女性と付き合ってきたのはこの子だと思うわ。それも昔は年上の女性をひっかけてたんじゃないかな。私、ひとつしか違わないけどきゅんとしたもん。もうすでにこの時点できゅんとしたもん。
私がメローネに萌えたということを表情から読み取ったのか、メローネはにんまりと口元を緩ませた。動こうとしたので、私は背筋を伸ばす。メローネが、いつも私がするようにソファの上で膝立ちになった。エーッなんかこの子私より視点高そう。やっぱり背の差か。
さらり、と横の髪が頬を滑って金糸のうつくしさを私に伝える。うん、この子、やっぱりまともな格好をしているよりこっちのほうが似合うな。それは彼にとって幸せなのか?いいの?それでいいの?いいんだろうなあ。
メローネは指で私の横の髪を梳き、耳に触れて、それからそれをつつむように輪郭に手を添えた。唇が、細い筆がするりと走ったような綺麗な弧をうっすらと描く。
「なあ、ポルポ……」
あっこいつ勝手にカッコいいほうを選んだな。私はどっちでもいいけど。どっちでもいいんだけど、思惑通りメロメロメローネにされてしまうのは年上としてのプライドがちょっと傷つく。この子たちの前では年齢とかもう関係がないというのは置いておいて。
「ポルポに俺の笑顔を見せるのもいいけど、それよりも俺はポルポの笑顔、が、……」
蠱惑的に細められていた目が、ゆっくり丸くなっていくのが判った。そもそも言葉が途中で切れている。
メローネの長い方の髪を指ですくって耳の近くで押さえ、そうしやすくなったほっぺにキッス。最近、これを安売りしてるからそろそろ効かなくなってくる頃かなあ、と思いながら、以前やったどれよりも長く、メローネの頭に片手を添えつつ唇を押し付けておいた。おねえさん、これくらいなら全然照れないのよ。ほっぺだしね。口の端までオッケー。口はさすがに照れるしリゾット以外とは無理ですね。二重の意味で無理ですね。私の気持ちの問題はもちろんですけど、どんな経緯だったとしてそのことがバレたら私か相手が夜道を歩けなくなるのではないかという懸念がね。
などとつらつら考えながら、ちう、と音を立てて離れた。どれくらいかな?10秒くらいかな?私の体内時計は狂いまくっているからよくわからん。メローネちゃんの正確なボディクロックで教えておくれ。イタリア語ではオロロジョビオロージコ。
「大丈夫?息してる?」
「し、……してる。してる」
してそうになかったけど。
ひらひらと目の前で手を振ると、メローネがゆっくり瞬きをして、うん、と応える。大丈夫じゃなさそうな件。
1秒くらいの親愛のキスでもあんなに喜んでくれるから、もしかしたら10秒くらいやると動けなくなってしまうのかもしれないね。
……んなわけない。今のはさすがに適当すぎた。

きゅうう、と泣きそうに眉根が寄せられたので、おねえさんは焦りまくった。泣く?泣いちゃうの?なんで?ダメだったっていうよりはなにか心の柔らかいところを刺激してしまった?
ひとを慰める方法なんてハグか撫でるかおっぱい押し付けるかしか知らないので、私はその全部を実行することにした。
メローネを抱きしめて背中をさする。できればおっぱいが押し付けられているといいですね。
「メローネちゃんは純情だからなあ。今のはおねえさんが悪かったわ。ごめんごめん」
おずおずと私の背に手が回されたので、どうぞ、という意味を込めてぽんぽんとメローネの背中をたたく。ぎゅうと力が込められて、私は母親にでもなった気分だった。なにこの子ひな鳥?私親鳥?ぴいぴい鳴くからご飯持ってこなくちゃな。
「ポルポ、ずりいよ……今俺カッコよくしようと思ったのにさあ……」
「いっつもカッコいいからいいじゃん。たまには可愛くいこうよ」
「可愛いって言ってくるのポルポじゃん!たまにはカッコいいとこ見せないと、俺のこと猫かなんかと間違えるだろ!?実際間違えてるだろ?!」
「メローネはネコじゃなくてタチでしょ?」
「ポルポにならネコでもいいよ!」
私×メローネってなにそれ。攻守ならぬ攻受が逆だろ。メローネに乗っかってどうすればいいんだよ私は。突っ込むモンがねえぞ。
メローネはぐずるようにうううと唸った。
「俺はポルポに可愛がられるの、すげえ嬉しいけど、でもそれだけじゃなくってあんたに頼られたいんだよ」
「……頼ってるけど……」
風邪薬買ってきてもらったり帰り際におやつ買ってきてもらったり膝で寝させてもらったりハグしたり遊んだり。
「そんなん頼るうちに入らねえの!もっとポルポの心の支えになったりしたいの!」
「もうとっくに心の支えになってくれてるじゃないの」
身体を離して、メローネと目を合わせると、メローネはちょっとすねた顔をしていた。なにそれおねえさんのこと誘ってるの?ホイホイついていっていいかな?可愛がってあげるよお。
じゃ、なくて。
「メローネは、最初っから私を助けてくれてるんだよ。メローネはそんなこと意識もしていなかっただろうけど、どんな時でも変わらずに笑顔で迎えてくれたり、きちんと冗談に応えてくれたり、一緒に笑ってくれたり、可愛がらせてくれる。それがなくったって、私はメローネがいるだけで嬉しくなるの。メローネがそばにいてくれてるんだって思うとめんどくさいことも頑張れるよ。なんでかって、メローネが私を支えてくれてるからだよ。メローネが私のことを嫌いになったり、飽きたりしても、それは変わらないと思う。私はメローネのことが大好きだからね」
だから、あえてカッコよくしなくっても問題ないですよ。
「……」
メローネはもうすねた顔をしていなかったけど、むう、とちょっと唇をとがらせていた。アヒル口?それアヒル口狙ってる?奪ってほしいの?誰かー!プロシュート呼んできてー!
唇を奪わせるならプロシュートだろ。
「ポルポ、やっぱりずるい」
「うん?」
「ずるい。……いっつも楽しそうに笑ったり飯食ったり寝たり面白いことしたり、くるくる忙しいのに、ポルポは絶対に俺たちのことを忘れないから、ずるい」
私は笑うか食べるか寝るかしかないのかな。仕事したりとか買い物したりとか入れてほしいな。
しかし、どういう意味だろうか?
「なんで忘れるの?君たちは私の家族とおんなじでしょ?」
私の人生と彼らの人生はボーナスとしてまるごと交換したので、お互いがお互いを補い合っているわけだ。仲間、とか元上司と元部下、とかいろいろな表現を使ってきたけれど、ひと言で表すなら、私はこの言葉を使いたい。
「ほらな、またそういうこと言うじゃん。ずるい。ポルポは俺たちに餌をあげすぎだよ」
餌って。いよいよひな鳥かよ。
「ポルポ、あのさ、……」
25歳とは思えない戸惑った表情。それが、心を決めたように真剣なものに変わる。うん?と首を傾げると、メローネが口を開いた。
「さっき言ったこと、他の誰かに言ったことあるかい?」
「ないよ。メローネに初めて奪われちった」
「えっマジで!?ハジメテ!?やったあ!」
あざとい言い方でからかうと、一瞬ぱっと顔が輝いた。なんでもいいんだね君。初めてと枕詞がつけばなんでもいいんだね?初めてのボンカレーとかでもいいのかな。
私が関係ないことを考えたと気づいたのか、メローネはうううとまた唸った。ちゃんと聞いてるから落ち着いて話せ。変態成分はしまって話せ。
「初めてだったならさ、もう他のやつに言っちゃダメだぜ」
「それはいいけど、どっからどこまでがダメなの?全部?」
「うーん、……俺だけの言葉以外ならオッケー」
「……」
難しい。付き合い始めの彼女か?
よく判らなかったけど、大切なものをしまっておきたい感じなのかな、と察しをつけて、ひとりひとり抱いている気持ちは違うからかぶったりしないよ、と言っておいた。そうだと思った、とメローネは笑った。
これでスマイルゲットってことでいいよね?なんか私が小細工したせいでびっくりな方向に話が進んじゃってどうしようかとポルポドキドキだったよ。


アパートに住まうのは8人だが、ソルベとジェラートが同棲していることもあり、アパートには数部屋の空きがある。そのうちの一部屋は壁がぶちぬかれ、別宅に住む2人が加わってもなお余裕のあるリビングルームとなっていた。
そのリビングルームにはソファがある。ふかふかの、3人くらいは楽々腰かけられるものだ。詰めれば4人も夢ではない。もっとも、L字をしているので詰めるに詰められない場合もあるのだけど。
誰もいないその部屋の窓を開け、カーテンを揺らす涼しい風を感じながらソファに横たわったのは、おやつを食べた後だっただろうか。
せっかくの大きなソファに座っているだけというのももったいなく、靴を脱いで(家ではスリッパを使ってもらっているけど、彼らの居城でそんな私ルールを押し付けるのはおかしい)足を上げた。
ごろごろしながら漫画を読んで、やっぱりこりゃ日本に飛ぶしかねえよなあと脳内カレンダーをめくって、なんか眠くなったので腹の上に漫画を開いたまま伏せて目を閉じた。片膝を立てて寝ると、一本まっすぐに寝ているよりも寝やすい気がする。本当は横を向いて身体を丸めて眠りたいけど、本気の眠りに入ってしまいそうなので断念。今は昼寝今は昼寝。
うとうとしていたつもりが、夢まで見ていた。
うなぎも好きだけど、あなごの握りもおいしい。寿司SUSHIスシ。イクラもいいね。サーモンもとろとろ。あっこのお寿司屋さんカウンターの下つめたい……。むらさき……がり……さむい……脚がひえた。
「う……んん……」
すし。私のスシ。シースー。座銀でシースー。
寝返りを打とうとしてなぜかできなかったので、反対側にころりと転がって、がくんと身体が傾いた。はっと目が開いて、ローテーブルとラグが見えて反射的に身を引いた。
「うおあッ!」
咄嗟に起きたので何が何だか。猫じゃないことだけは確かだった。落ちなくてよかった。
ソファの上で身を起こす。カーテンの向こうは暗かった。あっ夜。私何時間寝てたんだろう。よく眠れたな。あ、漫画は落ちてるよ、折れてないといいなあ。
床から本を拾い上げて、折れがないのを確認。よかったー、さすがに読書用保存用布教用といくつか買っているわけじゃないからな。
今何時かな、まさかこんなに寝るとは思っていなかったから、何にも連絡してないわ。イカンイカン。時計を見ようとして、視界の端に何かがちらり。二度見して今度こそ転げ落ちるかと思った。
「リ、リゾ、リゾット!?」
昼寝が過ぎたと思ったら自宅にいるはずのリゾットがソファの後ろに立っていた。全然気づかなかったのだが、これはあれでしょうかね。暗殺者のスキル、みたいなやつをやはり有効活用してるんでしょうかね。気配を消すってどういうことなの?特別な呼吸法があるの?波紋?
「おはよう」
そんな普通に挨拶されても。
「お、……おはよう。ごめん、昼寝してて寝過ごしちゃった。連絡なかったから様子見に来てくれたの?」
「……」
その目ナニ?それもあるけど他にはナニ?
「連絡はあった。ギアッチョが、お前がここで寝ていて声をかけても起きない、と」
やだギアッチョ優しい。眠っていると優しいよね。イタリア人だからかな?
ふしぎなことをなんでもイタリアのせいにするの、自分でもどうかと思ってる。
ギアッチョにお礼を言わないとな、とへらっと笑って靴を履く。身体が強張っている気がしたので小さく伸びをする。狭いところとか、床で眠ると背中とか脚がぱきぱきするのは全国共通。でもせんべい布団だと特にそんな気はしない。布を挟んでいると大丈夫なんだろうか。ラグは薄すぎてダメなのかな。
窓を閉めて、カーテンを引いてかつかつと洗面所に向かう。
顔を洗って戻ると、リゾットが私の漫画をぺらぺらとめくっていた。めくると言っても、ぱらぱらぱらと小口を指で押さえるだけでページを進めていたので、最初から最後までに2秒とかかっていない。さすが速読の使い手。
「日本語だけど、興味ある?」
「なくはない」
リゾットちゃんは色んなことに興味を持つもんね。それはすぐに冷めるか覚醒するかで完璧に二極化しているのが玉に瑕。真ん中がない。
漫画は某霊界探偵のそれ。右手の人差し指に力を集めて霊丸妄想をするのは誰もが通る道だし、蔵馬くんに好意を抱いて妖狐蔵馬で完全に持ってかれるよね。
「続き、家にあるから読みたかったら部屋から勝手に持ってっていいよ」
「所々に判らない表現があるんだが、質問したら教えてもらえるか?」
「そりゃもちろん。でも私、イタリア語苦手だけどいいかな」
「気にしない」
あっここでもボケを殺された。28歳組はみんな私のボケを殺してくるよね。泣いてないよ。
リゾットの隣に座って、気になっていたことを訊いてみた。リゾットを見つけた時から、どのように口火を切っていいものか、かなり悩んだけど、このまま流れに任せるわけにもいかないだろう。これがリゾットなりの最大のボケ方だったのならそれを突っ込まずしてジャッポネーゼを名乗れるだろうか?名実ともに名乗れないのだが、気分的な問題だ。
気分的に、ゲンドウポーズをとる。何週間ぶりかな、ネエロ。
「今日はそのコートの気分だったの?」
「ああ……これか。そういえば最近着ていないなと思って着てみた」
「着てると落ち着く?」
「着なれているからな」
私にとってのミニスカートみたいなものか。私は自分のスカートの裾をぴらりとめくって見た。うん、26歳ギリギリ。
さすがにカラータイツは履いてみて微妙だったので、今日はストッキングにしている。
20ン年前までは、ストッキングって肌色だし、いい感じにムダ毛を隠して素足っぽさを演出してくれるものだと思っていたんだが、実際に履いてみるときちんと処理してないと逆に目立つってことが判ってすごく失望した憶えがある。便利なアイテムなんかじゃない。日常生活がにじみ出る魔のアイテムだ。
「ん?」
ストッキングのほつれたところを見つけてがっかりしていたら視線を感じた。リゾットがこちらを見ていた。私じゃなくてスカートか?
「これくらいの丈でこれくらいのひらひらなら許されると思う?」
「……」
「誰の許しが欲しいのか今考えた?考えた?」
「よく判ったな」
私いま、リーディングリゾットの練習してるからな。めっちゃ喋るかめっちゃ喋らないかのどっちかのリゾットちゃんが何を考えているかを正確に読み取りたいから頑張ってんだよ。
「間違ってたら教えてね」
「……」
「待って。協力してくれるのはうれしいけど、私が練習中だからって喋らなくなるのはやめて。段階を踏もう」
魚を釣ったと思ったらこれはアジだったかなサバだったかな、みたいな目だった。私は人間です。
「リゾットちゃんってどんな服装の女性が好きなの?これ、まだ一度も訊いたことなかったような」
「今までに女――、女性の服装について気にすることなんてなかったから、明確な答えは返せない」
「さすが入れ食い」
そんなことってあるか?制服ならともかく、色とりどりに着飾った女性に色々アピールを受けてきたリゾットが、女性の服装に注視したことがない、とは。じゃあどこ見てたんだろう。顔かな。身体かな。
どこも見ずに、ただの欲求の処理として考えていそうだな。俺は棒でお前は穴、みたいなとこ、ありそう。メローネにもありそう。女は皆ベジタブルにしか見えない症候群。
「ポルポは?どういうものが好みなんだ?」
「私か」
逆に問いかけられると、答えづらい質問だったことが判る。理由はなんだろう。私の男性経験が皆無だったからか、リゾットと同じように目の付け所がそこではなかったのか、はたまた身近に目立ちすぎる格好の集団がいたからか。どれも可能性がある。
有象無象で考えるからピンと来ないのかも。
私はリゾットのどんな格好が見たいのかな。ガクランか?スーツか?タキシードか?白無垢?アロハシャツ?ビキニ?もこもこのセーター?裸エプロン?白無垢ともこもこのセーターは脳内再生余裕でした。三々九度。
「私も気にしたことないなあ……おっさんかおじいちゃんか少年まみれだったし。でもリゾットで考えると、なんでもいいかな。リゾットが選んでる格好が好き」
あえてオプションをつけるなら眼鏡。でもそれは言わない。あと、おっさんはおっさんでもディアボロの格好は、ない。
「俺も同じだ」
さらっと言われると照れますね。ありがとう。さすがにそれは適当なことを言っているんじゃないと思いたい。言っていたとしてもいいけどさ。
「にしても、やっぱりその格好似合うわよねえ。サイズの変化はないの?」
「なかった」
「筋トレとかしてるの?」
「まったくしていないというわけではない」
ビビッと気になる。筋トレしているリゾット。見たいよね。見たいよ。
待てよ、しかしうちには特別なトレーニングの機器はない。
「どっかに行ってるの?リゾットの部屋、特になんもないように見えるんだけど」
「そうだな。部屋には何もない」
「ふうん……。みんなそうなのかな?」
さあ、とリゾットは曖昧に答えた。教えてくれそうにない。トレーニングの方法も機密だったりするのかもね。暗殺者の朝は早い。
プロシュートは部屋にありそうだけど。ソルジェラもありそうだけど。ていうかあのふたりはお互いに器械体操とかしていそうだ。背中合わせになってお互いの背筋を伸ばす運動とか大好きなんじゃないかな。
「私もちょっとは身体鍛えたほうがいいかもしれん」
シャツの袖をまくってみる。白くてよわっちい。手を握って力を入れてみると、多少はかたくなったか。
リゾットの手が私の腕を軽く掴んだ。
「筋肉ないっしょ。君たちに比べたらほとんどのひとがそうかもしれんけど」
「特には必要ないんじゃないか?」
「筋トレとかしたことないしね。……あ、あるか。痩せたくて腹筋とか腕立て伏せとか」
「6年前からまったく変わっていないように見えるが」
「それより前だよ。私もほら、花も恥じらう少女だったころがあるから」
「……」
「あるのよ」
「疑ってない」
花も恥じらうという表現については今後改めていく必要があると理解してます。
腕が離された。代わりに私がリゾットの腕をもみもみ。いいですね、筋肉って。筋肉のあるイケメンはたいていモテますよ。イケメンなだけでもかなり釣れるのに、さらに筋肉。それも実用的な筋肉。スポーツ選手でもないのに実用的な筋肉がついているっていう。
「あ」
リゾットの手を握ったり握り返されたりと無言でいるうちに、あることを思い出した。私がここにいた本来の目的を。
顔を上げる。リゾットは無言だったけど、なんだろうか、と私の言葉を待ってくれている。
さて、どう切り出したものか。ここは直球が一番か。よし。私はリゾットの手を握り直した。
「スマイルください。テイクアウトで」
「……」
「"こいつ急に何を言い出すんだろう"」
「近い」
よし。
私はこの企画の趣旨を説明した。ほぼひとりひとりにスマイルプリーズと言って回ったこと。だいたいが笑顔を見せてくれたこと。この元ネタが某ファストフードが日本にチェーン展開された際、話題づくりと客寄せのために付け加えられた0円メニューであること。全部ぶちまけた。リゾットは理由も判らずに行動したりしないタイプ、に見えるからね。
「と、いうわけです」
「事情は判った」
スマイルどうでしょう。
と、解説しておいて何だけれど、私はまったく期待していない。リゾットぞ。彼、リゾットぞ?
ぐうう。
お腹が鳴って、私はようやく自分が空腹だったことを思い出した。寝過ごしたりリゾットが居たり漫画の話をしたり服装がどうとか筋肉がどうとか、ぺらぺら会話をしていて気が紛れていたが、そりゃあ空腹なはずだ。おやつを食べてから今まで何も食べていないんだもの。当たり前のことを言っているようで私には死活問題。
「ご飯食べたいです」
「起きてすぐに言うと予想していたんだが、ずいぶん持ったようだな」
「イエーイリゾットちゃんの予想外したったイエーイ」
「……」
「"こいつめんどくせえ"」
「残念、外れだ」
今のは外れてくれて嬉しかった。
「どこで何を食べたいか、希望はあるか?」
「リゾットちゃんの腕の中でリゾットちゃんを食べたい」
「……」
「"また戯言が始まったか"」
「かなり外れている」
残念。

何が食べたいかな、とお腹に訊いてみる。絶対音感を持っていたらお腹の鳴る音と似た音の食べ物が選べるのにね。絶対音感というと某眼鏡の少年だけど、ギアッチョも持ってそうだよね。共通点が眼鏡というのは狙ったわけじゃあない。
「リゾットはどう?家帰りたい?どっかで食べて行きたい?」
「どちらでも」
「だよねえ。うーん……」
おいしいものが食べたい、けれど、具体的に何だろう。
リゾットの目を見ながらじーっと考えて、ケチャップを連想した。ケチャップ。ケチャップと言えばオムライス。
「オムライスなどはいかがでしょう?」
「ああ……、個人的には食べたいんだが、卵がない」
「なんと」
「期限も近づいていたし、明日買いに行くつもりですべて使い切ってしまった。すまん」
「珍しいね。お昼ご飯に食べたの?5連目玉焼き?」
私ならひとつずつ目玉焼きつくってラピュタパンにして食べる。おっとよだれが。
リゾットと繋いでいる手の指でリゾットの手のひらをさりさり撫でつつ首を傾げる。
「プリンをつくった」
「ぷ、……ぷりん!!!」
魅惑の響きである。なにが魅惑かって、リゾットの口から飛び出たプリンという単語が。
「も、もう一回言って」
「プリンをつくった」
「ぷ、プリンのところゆっくり」
「プ、リ、ン」
「ふあああおおおおありがとう……」
私感激。萌えってこれか。この湧き上がる感情が萌えなんですね兄貴。プロシュート兄いの言ったことが言葉ではなく魂で理解できた。もともと理解できていたけどさらなる深みに到達した。ちょっと目がうるんだ。
にまにまと緩みそうになる口元を手で隠す。繋いだ方の手はそのまま。
「プ、プリンね、大きいやつつくったの?」
「これくらいだ」
「おお……!」
手で示された四角は、ラザニアなどをつくる時に使う深皿と同じくらいだった。
「まだある?」
「まだあるどころか、お前に食べさせようと思ってつくったものだから、そのまま冷蔵庫に入っている」
なにこの良妻。ほんとうに私はこんなすばらしい人の同居人でいいの?あまりの感動に言葉が詰まった。
まじですか。視線で問いかけて、もちろん、と視線で返ってきた(気がした)ので、リゾット愛してる!と言いながら立ち上がって抱き着く。これが抱き着かずに居られる?
「リゾット愛しているー!プリンー!もういいよ!オムライスとかいいよ!夕ご飯私プリンでいいよ!リゾットの夕ご飯はリゾットが食べたいものをなんでもつくるよ!」
「それは嬉しいが、お前の栄養が偏るぞ」
「もう愛があれば何でもいいのでは?」
「……」
「あっちょっとまって今リゾットちゃんの目見てなかった」
抱き着いていたから見えなかった。ちょっと離れてまじまじと見つめる。
愛じゃ腹はふくれないと言いたいのかな。判るよ、君の言いたいことはよく判る。でもプリンを食べれば糖分は摂れるので満腹中枢は刺激されるよ?それで早寝したら次の日の朝まで起きないんだから持つよ?
という屁理屈をのせて目を合わせていたら、ふいにリゾットが言った。
「埒が明かないからグラタンにしよう」
「リゾットちゃんのホワイトソース好きだからリゾットちゃんはホワイトソース係りでお願いします。あとは私もできそうな気がする」
グラタン、こっちでつくったことないなあ。レシピ見なくてつくれるかしら。リゾットはレシピを暗記してるのかな。自炊のスキルはどこで養われたものなのだろうか。レシピ本を見ながらキッチンに立っているリゾットはどんな可愛さ。メーター振り切る。
グラタンか。
そうと決まれば家に帰るしかない。
「ごめんね、わざわざこっち来てもらっちゃって。今度は気をつけるわ。目覚ましとかかける」
「気にしなくていい。ちょうどソルベとジェラートに用事もあったし」
「"し"?」
「……」
「……」
「ちょっとした疑問なんだが、夢の中で何を食べていた?」
「!?」
寿司だよ。こんにゃろう寝顔を。私も今度見よう。どんな夢見たかを当てよう。

灯りを消してポシェットを肩にかけてリゾットに続く。鍵が閉められて、その鍵はリゾットのコートの中に。9つ、じゃなかった私を入れて10つの合い鍵があるなんて不用心な部屋だよねえまったく。
リゾットが先に歩く。さすがの無音。私はふむ、と階段の上で、一段下にいるリゾットの背中を見た。
「リゾットー、おんぶしてー」
この速さなら言える。冗談だった。
小さく振り返ったリゾットは、どうぞ、と言わずに頷いた。えっ。
「あの、……私重いよ」
「慣れているし、言ってきたのはお前だ」
「そ、そうか。おう、じゃあ、えっと……どうやったらいいの?私おんぶされたことないからちょっと判らない」
戸惑っていると、静かな声で指示された。あ、はい、手をね。肩にね。はい。あ、カバンね、ええと、あ、後ろに回します。え、体重かけていいの、もういいの、あ、そう、えっと、はい。こうですか。
あまりにビクビクしながら行動していたからか、リゾットの背中にもたれかかるように体重をかけたとたんによいしょ(まあ無言なんですけど)と背中に乗っけ直されて脚を抱えられた。かん、かん、と今度は階段を下りる足音がする。
「視点が高い……」
「その靴はそのままで落ちないか?」
「あ、平気です」
なんだろうこの安心感。ちょっと上下に揺れるのが逆に楽しい。お礼におっぱい押し付けておこう。
「リゾット、今、考え事してる?」
「何グラタンにしようかを考えていた」
「それは重要だ……」
じゃあやめておこう。
口をつぐんでリゾットの頭巾すはすはと楽しんでいると、考え終わった、とお知らせしてもらえた。すごい!そんな細かいサポートまでしてくれるんですか!
促されたので、私はくだらない思いつきを形にすることにした。
「なんとなくリゾットちゃんに言ってもらいたい言葉いきます」
「復唱しろと?」
「うん。情感こめてね」
情感の込められたセリフを喋るリゾットちゃんなんてなかなか見られないから期待はしていない。なんかめっちゃやきもち焼くかめっちゃご飯がおいしかったかめっちゃ面白いことがあったかめっちゃ呆れてるかしないと声音が動かない。でも「もしかして……」って言い始めたら結構興味持ってるしるしだから声が元気になってる。やっぱり紙面で「もしかすると俺はボスの真実についてかなり近いところまで辿りついているのかもしれない」ってワクワクしていただけある。それでも尋問をせず、近寄らず、殺すことだけを目的としていたその姿勢は暗殺者として素晴らしいと思うよ。土壇場でスタンドを解除してしまうといううっかりすら魅力。ありゃあ場と相手が悪かったわ。

おしゃもじ。
「おしゃもじ」
すばらしい。もしょもしょほしゅほしゅ言ってるのがすごくいい。
スパカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス。
「スパカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス」
「すごいね一発で言えるの!」
「まったく脈絡のない単語なんだがこれはなんだ?」
「人生がうまくいく呪文」
無感動な相槌いただきました。
それからいくつか思いつくきれいな言葉とかきゅんとする発音を聞いて、もうそろそろ家かーとべったりリゾットの背中にくっつきながら慣れた道を慣れない高さから眺めた。あ。ひとつ、日本語のいたずらがあったっけ。
「ねっちゅーしょー」
「熱中症」
「もっとゆっくり」
「ねっちゅーしょー」
もうこの時点で私かなり感動している。リゾットの口から日本語で熱中症なんて出ないぜ。それが間延びした口調でねっちゅーしょー、だぜ。私ポルポで良かった。久しぶりに感謝した。前に感謝した時のことは忘れた。
「もっとゆっくり言って」
「ねっ、ちゅー、しよー」
「はい、ちゅー」
ということでべたーっと身体を寄せて耳にキスしておいた。よくあるよくある。もう夏の風物詩ともいえるこれ。関係ないけど、リゾットって熱中症になったことあるのかな。
「なるほど」
納得したように頷くリゾット。
「何がなるほど?」
「日本語特有の面白さを感じた。イタリア語だとこれはできないな」
そうなんだよ。あれ?もしかして熱中症の意味も、ねっちゅうしよう、の意味も理解してた?リゾットちゃんどこで勉強しているんだろう。
「ね、日本語いいでしょ。あ、……そうそう、私、近いうちに一度日本に行ってくるね」
扉の前で降ろされるかと思いきや、姿勢を変えたリゾットがちゃきちゃき鍵を開けてくれたのでそのままだった。どのタイミングで降りたらいいの?
がちゃりと扉が閉まる。スリッパに履き替える、日本でいう三和土で靴を脱ぐリゾットちゃん。私も脱ぎたい。
「ありがとう、もう降ろしてくれて平気だよ」
「折角だ」
何がせっかくなのか。
すとん、すとん、と靴を私の足から抜いたリゾットはそれをちょっと放るように並べた。うん、たまに雑になるよね君。
いつもきちんきちんと順序立てて動いているように見えるから、例えばコートをばさりと椅子の背もたれにかけたり、座りながら片手でネクタイをゆるめてみたり(五指に入る色気ポイント)、たまに口調が―――あれなんて表現すればいいんだ―――ぽろっと変わったり、そういうの。
「ディ・モールト好き……」
はー。どこまでもあざとくない男。あざとくなくてこれ。暗チのリゾットは化け物か!?萌え創造のスパンが短すぎて私は瀕死だよ。でも矛盾するようだけど、もっとおねえさんのことを攻めて来てほしい。どんと受け止めて心を震わせてどんどん強くなるから。強くなってリゾットを包み込むから。
おっとリビングのカーテンは開けっ放しか。鏡みたいになるよね。そういえばかまいたちの夜にそういうエピソードがあったなあ。
ソファに座らされそうになったので、えー、としがみついてみた。まだリゾットちゃんとくっついていたいでーす。
「グラタン」
「うっ……座ります……」
夕食を盾にされたら抵抗できないビクンビクン。グラタン楽しみです。私はなにを手伝ったらいいのかな。
ストッキングを履いているので廊下を歩くのも問題なし。スリッパを取りに行ってくれたリゾットちゃんを追いかける。
ふたりで廊下を戻る時には、ふたつのぱたぱたという足音が鳴った。

リゾットと結婚してえな。
何度目か、もう数えきれない。凄い時だと、朝に結婚したくなって昼に結婚したくなっておやつの時間に結婚したくなって夜に結婚したくなってもう結婚するしかねえんじゃねえかなと真剣に考えることになった。お風呂に入って冷静になって、私が結婚したくてもリゾットがしたくないかもしれないわ、とようやく気づいた。危ない危ない、指輪もないのに申し込んでしまうところだった。
「ほんっとうにおいしいよ、リゾットちゃん……。私……もう……もうリゾットちゃんなしでは生きられないよ……」
八割本気の二割冗談。
フォークでマカロニを突いてきちんとフーフー冷まして唇で確かめてぱくり。口に入れかけたものを出すのはイタリア的にアウトだよ。日本でもよろしくないのと同じだよ。
「口に合ってよかった」
「リゾットちゃんがつくってくれたもので、口に合わなかったものがない」
「そうか」
うん。
結婚するしかなくないか。一瞬腰が据わった。でも口には出さなかった。この状態もまあ結婚してるようなもんだろ。四六時中一緒にいて煩がられてないならこっちのもんだろ。煩かったら言ってねって何回も言ったからね。それこそそれが煩いだろうなって思ったけど、嫌だと思ったことはきちんと伝えている、と言われて停止した。言われた憶えがないのは私がそれをすっかり忘れているからなのか一度も言われたことがないからなのか。前者っぽくて冷や汗かいておろおろしてたら笑われた。一度も言っていなかったらしい。安心してしまう私ダメ女。
熱さは苦手だけど、熱いうちに食べたほうがおいしい。
頑張ってパン粉のヴェールをくずしてじんわりバターの染みたそれと一緒にホワイトソースをすくってはくり。おいしさと同時に胸の奥からあふれ出る感情、プライスレス。
「ほんとに……ほんとに……おいしい……」
「そんなに感激されると、嬉しいのと同時に今までのお前の食生活が気になってくる」
「ちゃんとおいしいもの食べてたんだけどねえ。やっぱりリゾットちゃんの愛がスパイスになってるのかもね」
絶対リゾットの腕がいいんだとおもう。ソルジェラは規格外にうまい。シェフかよ。
あー、プロシュートのは知らないけどペッシが言ってた。兄貴のつくるフォッカチオはすごいんだよ!って言ってたな。
えええフォッカチオ!?フォッカチオつくるの!?プロシュートが?!あのジャケット脱いでシャツの前ちょっと閉めて袖を大きくまくってエプロンつけて!?もの凄く興奮した。
咀嚼していたマカロニを飲みこんでようやく、プロシュートのことを考えながらリゾットを見ていたことに気づいた。すぐぼうっとしちゃうのは26年の人生でまったく成長してないし、その前のことも考えるともう魂に刻み込まれた散文的思考だとしか。
目が合っていたので、水を飲む前に読み取ってみた。
「"猫舌だと大変そうだな"」
「大幅に違う」
「残念……」
ものすごくフーフーしたあとだったから同情されたかと思ったのに。
半分くらいグラタンを崩してから、パンに手を付ける。むしって食べる。野菜も摂らないとバランスが悪いからと、私がつくったシーザーサラダがちょっとミスマッチだけどスマヌ。ただシーザーサラダが食べたかっただけです。むしって食べる。
パンの量もリゾットと私でかなり、否、ちょっぴり違う。私のほうが3つほど多い。リゾットは成人男性なのにね。泣きたくなる時もあるよ。
「このパンおいしいよね。私、ここのパン屋さんのおばさんとたまに話すんだけど、トースターで軽く焼き直すとやっぱりかなり香ばしさが違うんだって。特に具の入ってないパンはそうで、具の入ってるやつは冷蔵庫に入れない限りは、再加熱しないで食べた方が自然でおいしいんだよって教えてくれたの。だから同じパンをふたつ買って食べ比べてみたんだけど、言われてみればその通り、具の入ってるやつは常温でノートースターのほうがおいしかった。冷やしたやつを温め直しても、どっか中途半端になっちゃうんだろうね。元はでっかいオーブンだからさ。そんで、おばさんの言うとおりでしたよって報告したらあはは試したのかいあんたよく食べる人だよねえって、パン耳ラスクをオマケしてもらっちゃってさ。おとといからポリポリ食べてるんだけど、おいしくって食べ終わるのがもったいないんだー」
「ポルポ」
ペラペラ喋っていたら静かに名前を呼ばれた。はい。
「冷める」
「すみません」
喋り出すと止まらないのが私の悪い癖だ。せっかくつくってくれた料理を前に失礼なことをしてしまったな、と黙って食べ進めることにした。湯気が薄れて、少し吹くだけで食べられるようになっていた。鶏肉が入っているところもポイントが高い。塩味がきっちりついたマカロニもコショウの効いた鶏肉もサイコー。
黙ってパンをむしってバターをのせてグラタンを食べてサラダを消化してパンを食べてパンを食べた。最後のパンをひとつ残してグラスに手を伸ばす。この間酔っぱらって大変だったから、今日はガス入りのお水。
口をつけて、ふう、そういえば毒で死にかけたこともあったなと水を飲んだ。
「ん?」
「……」
「んー……、"静かで寂しいなあ"?」
「そうだな。正解だ」
「まじか」
リゾデレ。
にへら、と口元が緩んだ。へらへら笑ってしまう。寂しいですかそうですか。寂しがってるリゾット、もっと見ておけばよかった。食べ物に夢中で気づいていなかった。迂闊。
「ポルポ、さっき言っていたことをもう少し詳しく聞かせてもらえるか」
「ん?えーっと、リゾットと結婚したい話?」
「その話は一度も出ていないが、後で聞こう」
「あれ?聞いてくれるの?やっさしーい。で、私さっきなんて言った?」
「近いうちに日本に行ってくる、と」
いつの話だ。ごはんの前のことはごはんの途中に忘れてしまうんだ。すみません。
「言ったような気がする。おんぶしてもらってた時だよね?リゾットの背中が気持ちよくって何喋ってたかあんま憶えてないんだあはは」
誤魔化しておいた。
リゾットはそれについては何も言わなかった。どうでもよかったんだろう。
「具体的にいつ、誰と、日本のどこに行くんだ?」
かちゃりとカトラリーが置かれた。
「今月末に数日のつもり。ひとりで、日本の……東京、かな。観光、みたいな」
「……」
「えっと……、"パスポート持ってたのか"」
「違う」
違うのは判ってるよ。なんかちょっと不機嫌になったから茶化しただけだよ。
リゾットはそんな私の意図などお見通しのようだった。ふう、とため息をついて、食事を中断させるのも何だから、片づけた後にしよう、と言った。この雰囲気、今ここで払拭したかったよ。
もそもそとパンを食べて、やっぱりおいしいなこのクルミパン、と思ったのでひと口ちぎって差し出した。ちょっと機嫌良くなれーという下心もあった。
リゾットはそれを受け取って食べて、クルミだな、とひと言。わあぜんぜん効果がない。

食べ終わって片づけをして、かちゃかちゃやっている間にアッと気づいたので訊ねた。
「今月末の話なのに言ってなかったっていうのに怒ってる?」
「怒ってはいない」
「やっぱりそこなのか……」
弁解させてもらえるなら、今月末まではまだ時間があるからきっちりと日程が決まってからお知らせしたかったんですよ。仕事の都合もつけないといけないし、チケットも準備しないといけないし。構想だけの予定を伝えても二度手間になって面倒かな、と思ったので。
ソファではなくテーブルに、向かい合って座りながら私はそのようなことを口にした。
私の手元には水。リゾットの手元にはふたり分のプリンとスプーン。完全なるおあずけ状態である。
「理解はできた。特に何も聞かされていなかった理由も把握した」
「よかったです。忘れていたとか、無断で行こうとか、そういうのじゃなくてさ、なんていうか……これって完全に私事だから、ちょっと言い出しづらかったってのもあるんだけど……」
「向こうで誰かと落ち合うのか?……例の、友人とか?」
逃げてヤナギサワ。
「ううん、最初から最後までひとり。……ちょっぴり見ておきたいトコがあるだけだから、それ見て、お土産買ったらすぐ戻るよ」
「そうか」
うん。
日本なんて、本当に、26年ぶりだ。ノスタルジックな気分になるだろうか。今の私は静かに緊張している。きっと目的を遂げるまで変わらないんだろう。はー。一応享年を越えたってことで記念パピコみたいな、ね。
伏せていた目を開けて、リゾットを見る。もういつも通りみたいだ。
「欲しいか?」
私とプリンの間を、リゾットの視線が往復した。
表情に出ていたのだろうか。別のシリアスなことを考えていたから神妙な顔になっていると思ったのに。完全にどうでもいいけどシリアスって。尻とAssって。お下品。
「すごく……欲しいです……」
ごくり。
リゾットの手がプリンの皿にかかった。もう、そのまま私のところに皿を滑らせることができる、そんな体勢だ。構える私。私を見るリゾット。
「ポルポ」
「はい、リゾット」
「食べ物がかかると真剣だな」
「リゾットと話している時はだいたい真剣だよ」
「……」
「"またこいつ適当なこと言ったな"」
「不正解だ」
なかなか当たらんな。まだまだリゾットマスターへの道のりは長い。
リゾットはその姿勢のまま私に問うた。俺が同行してもいいか?
「…………」
「"パードゥン?"」
「な、なんで判ったの!?リゾットすごい!」
硬直していたら言い当てられてしまった。洞察力の問題かな。私の思考パターンが読みやすいってことかな。
なんの話だったっけ。あ、そうだ。
「リゾットが、一緒に?」
「そうだ。どうしてもひとりで行きたい、というのでなければ、……良かったら、なんだが」
今までになく言いづらそうだ。それもそうだよね、私もリゾットがひとりで旅行に行くって言ったら、どこいくのかなとか誰と行くのかなとか何日くらいいなくなっちゃうのかなとか気になるもんな。ひとりは寂しいなって思うもんなあ。リゾットも私と同じように考えたのだろうか。
「あの、……私はそれは、……とても、……とても嬉しい。来てくれたらいいなって思ったこともあるし、……リゾットがいたら、……」
すごく心強い。何があっても揺らがずにいられるような気がするから。揺らいだとしても支えてくれると判っているから。
「でもそれって、やっぱり私の都合だし、海を越えて極東までついてこい!って襟首引っつかんで行くわけにも……」
「今年に入ってからやけに大人しいな」
「上司じゃねえからね。笠に着るもんもないし、あるのは金とおっぱいだけだからね。そのおっぱいもリゾットに封じられている今、私にあるものってナニ?金じゃん。金と家族じゃん。まあそれあったら生きていけるけどさ。一家の頼れるおねえさんがおら日本行くぞっつっておとうと引っ張って行ったらおかしくない?」
「家族の形には色々あるからそれについては否定しないが、お前は姉ではないし俺は弟ではない」
「おかあさんとおとうさんにしておく?個人的にはリゾットがおかあさんだと思うよ」
「本題はそこじゃない」
「はい」
ちなみにおとうさんはプロシュートだと思うよ。帰ったぞっつって一番に走ってお迎えした末っ子のペッシを抱き上げてこのマンモーニが〜って高い高いしてくしゃっと笑ってそうだよ。なにそれ幸せ。
「ポルポ」
「はい、リゾット」
大丈夫、ちゃんと意識はここにあるよ。
「確かにお前はもう俺たちの上司ではなく、この関係に上下は存在しない。それはなぜか、なぜかかなりお前に強く根付いているようだ」
そんな不思議そうにしなくても。上司として好き勝手やって来た自覚があるからさあ。個人として私と付き合うのってかなり面倒だと思うし、でももう今さら変えられないから、今度はできるだけ相手の意思を尊重したいなって思ってるだけだよ。嫌われたくないし。
根っこにあるのはそれか。今自分でハッとしたわ。
「"おとうと"たちを引っ張っていくことに抵抗があるのも判る。それは杞憂だと断言できるが。まあ、基本的にお前は受動の人間だからな」
受動の人間とか初めて言われたわ。がつがつ行くタイプかと思っていたんだけどなあ。
「お前の行動原理はとても単純だ。"死にたくない"から死なない地位を手に入れる。"好きだ"と思ったから相手を大切に思う。"大切だ"と思っているから相手のすべてを受け入れる。基本的に、自分か、大切な者の安全が脅かされない限り、食事をして眠っているただの動物にしか見えない」
「言われてみれば、そうかも……しれない……?」
「今までお前からこちらに働きかけてきたのは2回だけだ。ひとつは俺たちに人生を捧げ、俺たちの人生を引き受けると言った時。要求のまま給金を上げようとしていたお前がこちらに歩み寄り、それによって俺たちは重なった」
「(もっといっぱい働きかけていると思うんだけど……)」
「もうひとつは、組織を抜けると言った時だ。本当はそこに至るまでに心に刻んでほしかったんだが、お前はそこでようやく、自分の働きかけに俺たちが否やなく応える、と知った」
「いや、否やなくっていうか……ありゃかなり無理やりだったよ私」
「誰かが異議を唱えたか?」
「……」
いや、だれも言わなかったけど。安心したと同時に直後の殺気に引いたけど。
「話を戻そう。お前は基本的に受動の人間だと言ったが、その姿勢は悪いものではない。お前にはそれだけの度量があり、力があり、逃走経路も人脈も尋常からは遠く離れている。のんびりと眠っていられるのはそれだけの裏付けがあるからだ。まあ、それは今はどうでもいいんだが」
リゾットがめっちゃ喋っていて私はもうプリンに目をやる余裕もないよ。どうでもいい話に気を取られて元々何を話していたんだったか。日本にリゾットが同行してくれるって話だよね。なんで私の生き方が考察されているんだろう。
「なぜか、なぜかお前はいまだにうまく理解できていないようで俺としては不思議であると同時に楽しみを覚える」
「楽しみ!?」
「今回は、旅行に同行できないかと訊ねた俺の働きかけと、本当は俺に来てほしかったというお前の希望が合致した。最初からすんなり行っていればこんなプリンを人質に取るようなことはしなくて済んだんだが、こじれてしまったからには仕方がない」
「プリンより、リゾットがお酒もなくこんなに喋っているということが気になる……」
「そうか?まあ普段よりは多少言葉が多いかもしれんな」
多少で済む問題かこれは。
「さっきお互いの希望が合致したのは偶然だ。俺が素直にお前を見送っていたら、お前は俺に来てほしかったという寂寥を感じながら日本に発つことになった。その場合損をするのは誰だ?」
「あの、私、ですね」
「そうだな。"おとうと"を引っ張っていくことには抵抗があるようだが、もう一度言うと俺はおとうとではない。お前が自分の立場を"おねえさん"と置くのなら、俺は"おにいさん"でも"おとうさん"でも"おかあさん"でもなく"おねえさんの恋人"だ。まあそれが将来どの立場に変化するかは、お前が食事中に言いかけたことと併せて後で考えよう」
「あ、はい……そうですね?」
食事中に何を言ったかなんて今のやりとりの中で吹っ飛んでしまった。でもそれを言うとまたうきうきしながら話し出されてしまうので沈黙。沈黙は金。
「ところで、お前はあまり後悔をしたことがないと言っていたが、やはりこれからも心残りは作りたくないだろう?」
「そ、そうっすね、できれば思った通りにすんなり生きていきたい、ですね」
「なら、そういうふうに動く練習をしてくれ」
「お、……おう。えーと」
心残りをつくりたくない私。心残りをつくらないように動く練習をしろというリゾット。
この話、日本旅行において、リゾットからの打診がなかった場合、リゾットについてきてほしかったなという想いを抱えて過ごすのは私だ。それは私の心残り、と数えてもおかしくないものだ。それをなくすためには、リゾットの動きを"待つ"(という発想すらなかったけど)のではなく、私がリゾットに「一緒に来てほしい」と頼んでみればいい。答えが正否のどちらであっても、想いに決着がつくということは悪いことではない。
そして、私が誰かに「こうしてほしい」というお願いを―――その人の人生に関わらないものは頻繁にしているけど―――しがたく思っているのは、それが私の言う"おとうと"たちに迷惑がかかると考えているからだと、リゾットは言うのだろう。なるほど、先にはたと気づいたように、私は大切な人に嫌われたくないと強く思っている。嫌われたとしても彼らのことを愛している気持ちに一片の揺るぎもないことは確信しているけど、やっぱり嫌われたくないものは嫌われたくない。だから決定的な願望を口にできない。(過去に2度、始まりと終わりにその決意を固めたけれど)
「リゾットの言いたいことは判る。私がこれからどうすべきなのかも判る。うーん、……判るし、私がこうやって躊躇しているということがリゾットにとても失礼だってことも理解できているんだけど、……どれくらいまで許容されるのか、まださぐってる途中だから、やっぱりちょっとこわいですね」
おんぶはオッケーでも旅行はアウトとかあるだろ。
「やっぱりまだよく理解できていないんだな……」
「な、なんでそんな可哀そ、……いや、なんだ……判んねえ……いったいその目が何を表しているのか……わかんねえ……!」
「興味だ」
何への興味なの。私がどうしてリゾットのいうナニかを理解できていないのかということに対して?それともいつになったら理解するのかということに対して?
ちょっと腰が引けていると、リゾットは私にスプーンを渡した。
「いつまでも探っていてくれ。ただ、それだと一生お前の旅行についていけなさそうだから、とりあえず覚えておけ、ポルポ。お前自身が求められ、許容する範囲の願い事は十割叶う」
「言い切られると調子に乗ってしまうよ」
「調子に乗って良いと知らないのはお前だけだ」
怖い。わがままが通り過ぎる。怖い。理解はできるけどなぜ言い切れる。みんなの懐が深すぎるよ。私、体重だけじゃなくて感情も重いぞ。こんなポルポで大丈夫か。
「大丈夫だ、問題ない」
ダメなフラグがこんなにも頼もしく聞こえたことはない。

プリンをけずりながら食べて、おいしいです、とぽつりと呟いたら、好きなだけお代わりするといい、と言われた。
リゾットも、彼らも、どれだけ私に甘いんだろうか?もうこうなった以上、片肘を張っているのはむしろ失礼だ。前からそうだったのだろうけど、いまいち、勇気が出ないというか、自信がないというか。
この自信のなさはどこからくるんだろう、と考えた時、スプーンが止まった。
「……」
そうか。
"ポルポ"として死ぬはずのところで死なず、運命に打ち勝って"私"としての人生にようやく漕ぎ出した今。あれから6か月と少しが経って、ようやく理解する。私は"ポルポ"じゃないから不安なのだ。
いつだったか、同じようにリゾットの側で考えた気がする。
私が歩んできた道は"ポルポ"としての道だ。それならば、"私"は一体どこにいる?心のどこをたゆたっているのが私なの?
それはアイデンティティの喪失か、あるいは剥離しかけた人格が統合されようとしているのか、私にはどちらも経験したことがないから判らない。
スプーンを動かす。プリンをすくう。手が止まる。
私は"私"を見つけなくてはいけない。
私とはいったいなんだ?それは、日本で25年を生き、その最後をもちで終え、イタリアで26年を生き、その先を目指す女のことだ。今の私に足りないものは、私が私であるという自覚、そのものなのだろう。だから他人からの評価に怯えて、嫌われたくないと線をひくのだ。逃げているのは私だ。
スプーンを口に運ぶ。プリンを食べる。スプーンを引き抜く。手を下ろす。
私は、決着をつけなくてはいけない。もはや私が"私"――日本で暮らしていた"私"ではなく、イタリアで生きる、ちょっぴり前世の記憶を持ったポルポという女であることを知らなくてはいけない。
そう、私はそのために日本へ行くことを決意したのだ。
プリンを食べる。顔を上げる。リゾットが居た。
「……おいしい」
「そうか」
「うん」
プリンを見る。私のためにつくられたプリン。どうしようもなく、嬉しい。
リゾットを見る。私のことを好きだといってくれるひと。どうしようもなく、好きだ。
心がゆるんだ。
「私、今月末に日本に行くんだけどさ」
「あぁ」
「仕事の都合つけるから、一緒に来てもらってもいいかな」
テーブルの向こうで、リゾットの赤い瞳が細まった。唇が緩やかな弧をえがく。
「あぁ、もちろん」
リゾットが微笑んだ。
私も微笑んだ。
涙は奇跡的に出なかった。


0.5

「(はっ……もしかして私は、最終的にスマイルオブリゾットのテイクアウトに成功したのでは?)」
「ポルポ」
「あ、はい」
「さっきの頼み方は6点だ」
「……」
「"えっ採点とかあるの"」
「まさにそれ。(リゾットの口から"えっ、〜とかあるの"という言葉を聞くとは……)」
「内訳を言おう。改めて旅行の話を口にしたところはとてもよいと思う。4点だ。一緒に来てほしいという主旨を言えたところもベネ。6点だ」
「(10点じゃん)」
「以下は減点事項だ。仕事の都合をつけるから、という前置き。つかなくても俺はついていくし、そもそも都合をつける自信があるからお前は旅行を計画したんだろう。それは要らない。3点引く」
「多い!!」
「次に、一緒に来てもらってもいいかな、という言葉だが、非常にお前らしくて俺は好ましく思う。が、少し遠慮が過ぎる。お前と俺の距離――俺はかなり近いと思っているし実際にそうだが――なら、一緒に来て、あるいは一緒に来てほしいな、で充分だ。1点引く。よって6点」
「(俺はかなり近いと思っているし実際にそう、ってこの人素面で言ってんのがすごいわ。確かにめちゃくちゃ近えって私も思うけど)」
「プリンはどうだ?」
「あ、……すごくおいしいよ」
「そんな感じで良い」
「あ、……そう?」
「あぁ。……もう一切れ食べるか?」
「食べる。……はっ、反射で答えてしまった……。(つうか、もしかして、"一緒に来て"あるいは"一緒に来てほしいな"っていう言葉選びはリゾットの趣味……なのかな……?そういうふうに言ったほうがいいの?取引先に言うみたいにではなく、年下の彼女がお願い事をする時みたいに言ったほうがいいの……?)」
「今度はプリンタルトにしてみよう」
「や、やったー!!リゾットのタルト食べてみたい!!」
「そう言われるとやる気が出るな」
「(その声まったくやる気出てないけど。相変わらずの無感動さですけど。さっきまでのペラペラまわってた口はどこ行ったのよ)」
「"声音は変わっていないし急に口数が少なくなった"」
「!?」
「お前は判りやすすぎる」
「リゾットは判りづれえよ!!難易度いくつよ!私を3だとしたらリゾットは10だから!」
「お前は1で俺は5だ」
「絶対違う!!もっとある!!」
「どちらが?」
「どっちも!!!!!!」