ヒール


ハイヒールは、額にキスされた女性が発明したものなんだってさ。
誰の言葉かは知らないけど、とてもロマンチックだと思う。こんな時じゃあなければね。
「誰よこんなトコに溝掘ったの……」
ヒールが嵌った。完全に、嵌った。
どれくらい嵌ったかっていうと、8pのピンヒールががっつり、3pくらい石畳に食い込んでいる。
石畳の、石タイルと石タイルの間、そこにちょうど隙間が空いていた。これがイカンかった。たまにジョルノたちと会食するからってちょーっとオシャレしたのが間違いだった。26歳にもなってピンヒールを履いたこともおかしかったかもしれない。そうだね、年齢を考えたらこうはならなかったね。
今が夜だというのもまた、よくない。
この通りは私の家に繋がっている。ここをちょっと曲がってもいっちょ曲がってちょいっと進むと我が家だ。3LDK2S、あれ?3Sだったかな?そんな我が家。ちなみにここをちょっと曲がってもいっちょ反対に曲がってちょいっと進んでしばらくするとあの子たちのアパートだ。今はどうでもいいね。
「くそう……」
ぎりぎりぎり、と思いっきり引っ張る。どこにどう嵌ってるんだか、やっぱり抜けそうにない。
「……しゃーないか」
靴を放置して帰るわけにはいかない。抜くこともできない。じゃあどうするか。折るでしょ!
ヒールはなかなか折れない。簡単に折れたら歩いていて危険だからだ。けど、何度かへし折った経験があると判ってくる。やっぱり無理な方向に力をかけちゃあいけないのね。
「おらおらおらー」
オラオララッシュならぬヒールバキ折りキック。ぐいぐいと靴を履いている方の足であらぬ方向に力を込めて女王様気分に浸っていると、ぱきり、とささやかな音を立てて折れた。酒が入っててよかった。素面だと、力を入れるのにちょっと躊躇しちゃうからね。酔っぱらっている私はだいたい無敵。イエーイポルポイエーイ。
片方だけハイヒールというのもおかしいので、両方とも靴を脱いだ。石畳の隙間にぽっきり折れた先のヒールを残して、グッバイトラブル。
片手に靴をひっかけて、ストッキングだけの足でひたひたと道を行く。夜にもなると地面がひんやり冷たい。この時間だし、この道だし、人通りなんてまったくない。
えらい目に遭った。今度から足元には気をつけよう。角を曲がろうとして、イテ、と声が出た。
「あーっ、ひっでえー……、破けてやんの……」
もったいない。私は前から何足かストッキングを破いているが、そのたびにお気に入りの色を買い直すのが面倒なのだ。あと、ストッキングを丸めてゴミ箱に突っ込むときのやるせなさ。これ、つらいよね。そこの傷以外はまだ使えるんだよ、って全身で訴えてくるパンスト。
小石を踏んでしまって痛かったのでゆっくり歩くことにした。角を曲がって、街灯の灯りが減っていくなか、薄暗い地面に目を凝らしながら進む。イテテ、さっき石を踏んだところがまだ痛いよ。私のドジっ子め。ドジっ子で済まされる年齢ではない。
「……ポルポ?」
「え」
聞き覚えのありすぎるリゾットの声がきこえて、顔を上げると、3mくらい前にリゾットが立っていた。
「あれ、リゾットちゃん、どしたの?買い物?もう閉まっちゃってるよ?」
立ち止まって訊ねると、さくさくとリゾットが近づいてきた。
「靴……あぁ、ヒールが折れたのか?」
片手にぶら下げていた靴を見られて、私はそうそう、と軽く頷いた。折れちゃったのよ、運悪く。
思惟的な運もあったもんだ。
リゾットは私の足元に目をやった。汚れて、ちょこっと破けたストッキング。石を踏んで痛かったほうの足はちょっと引いてつま先だけをつけている。
「ずっとそのままで?」
「それほど長い距離じゃないわよ。自販機の前らへん」
「……」
少し目が細められた。あんまりいい細め方じゃないね。
「その足」
引いてるほうを指さされた。
「上げてみろ」
上げろったって。
ひとりの時だったら腹側に上げて覗いてチェックできるんだけど、リゾットの前となるとそうもいかない。少し横を向いて、ひょいと足を持ち上げた。自分で振り返って、内心で舌を打った。石のやつめ、どうりで痛いはずだ。少し切れて血がにじんでいた。歩いてきたために、あまりきれいな傷口でもない。
「切っちゃったみたいね。痛いと思ったんだ」
「痛いと思ったら自分で確認したほうがいい」
「そっすね」
足を下ろして、バランスを取るためにとっていたリゾットの手を離す。同意すると、それに、と静かな声が続いた。
「携帯電話を使え」
「あー……」
便利なものがあったことを忘れていた。いや、本当に。すっぽり抜けていた。そも、以前にハイヒールのトラブルがあった時には携帯電話なんてなかったから、それに頼るなんて発想がなかった。
「ごめん。もしかして心配して様子見に来てくれたの?」
「ブチャラティから確認の電話があったからな」
「おっと……帰ったら連絡するって言ったからか」
意外なことに、そして私にとっては嬉しいことに、かの3月の任務で瞬間交わったリゾットとブチャラティの交流の糸はいまだに繋がっているのだ。お互いの携帯電話の番号を交換し、メールをやり取りする程度には。元リーダー同士気が合うんだろうか。
「ポルポ、鞄を」
「うん?……ちょ、……ちょっとまって」
促されるままに鞄をリゾットに渡してから気づいた。
「まさか抱っこして家まで連れてってくれようとしてるんじゃあないよね?」
「問題があるか?」
「迎えに来てもらったあげく抱っこなんてお願いできないって。もうちょっとで家なんだから歩くよ」
「お前が歩くよりも俺が歩いた方が早い」
「そりゃそうだけど」
へなりと情けない顔で見上げても、リゾットの意思は固いようだった。固いというより、その手段に何の問題があるのか、と訊ねてくる眼差しだ。問題はないんだが、ただ申し訳ないんだよ。酔っぱらってうっかりやっちゃったことだからさあ。
「……いいの?」
「歩かれるよりずっといい」
さようですか。
私は靴を持ち直した。
「じゃあお願いします」

捨てる予定の靴は玄関に放置。
ソファに座らされて水を渡された。ありがとう。飲む。
その間にリゾットは自分の部屋から救急箱を取ってきていて、消毒薬とティッシュをレイディー。
「……」
「……」
しみるじゃんそれ。しみるのは嫌なんだよ。痛いのが嫌いだから。
という想いをこめてじっと見つめていると、リゾットはそれを下ろした。
「ストッキングが邪魔だから脱いでくれ」
「……痛いの嫌なんで、お風呂入ってからでもいいですかね」
「足だし、テープを貼っておいたほうが水に染みないと思う」
「……」
そう言われると。
タイミングよくリゾットがコップを受け取ってくれたので、私は空いた両手をゆっくりスカートの中に入れて、するするとストッキングを下ろす。そこで気づいた。
「(なんでリゾットの前で脱いでんだ私?)」
やっぱり酔ってるのか。頭まわってないのか。もともとこんなパープリンでしたっけね?
ここで止めても意味がないので下ろしきる。足を抜いて、もう使えないので床に落とした。
「ん。あんまり痛くないやつで」
「そうしよう」
そろりと足を差し出すと、生真面目そうに頷いたくせに、がっしりと足を掴まれた。ビビッて跳ねた。濡れた冷たいしみるやつがじゅわっとくっつけられて反射的に足を引く。掴まれているので逃げきれず、反対側の脚の膝を抱えた。
「い、いたい、いたいよリゾット……いたくないやつでって言ったじゃん!」
「痛くない消毒方法を思いついたら教えてくれ」
「……そうする……」
ついでに傷まわりの汚れも拭き取られて、そのたびにビビりすぎてひくひく足を引っ張った。痛くないけど冷たいのは驚くから、冷たいものは足にくっつく前になんか前触れを出してほしい。
ぺたりとテープを貼られる。はあ、ありがとう。お礼を言おうとして、ひやああっと今度こそ目を丸くした。こいついまくすぐった!!
「足の裏は反則でしょ!人間だれだってそこくすぐられたら降参するよ!」
「すまん、そこにあったものだからつい」
「……」
リゾットももしかして酔ってるのだろうか。真顔でオトボケたことを言うものだから、足を下ろして、まじまじと顔を見つめてしまった。特に赤みも見られないし、目もしっかりしてる。素面で人の足の裏をくすぐってきたのか。
ちょっとした仕返しのつもりだったのかも。
可能性に思い至って、私は小さく何度か頷いた。夜中に心配をかけてしまったことへの仕返しだったとしたら、それはとてもささやかだ。甘んじて受けてしかるべきだ。
けれど痛いのもくすぐったいのも苦手なので、お礼の代わりをすることにした。
ソファから身を乗り出して、ラグに膝をついていたリゾットに接近する。その肩に手をおいて、んー、と額に唇を寄せた。酔っぱらいの児戯みたいなもんだ。
「心配かけてごめんね。ありがとう」
すっと離れてソファに腰を戻して、その際に足をラグについてしまってひええまだ痛い、なんてこともあったのだけど、足に気を取られながらソファにもたれたところで頭を撫でられて忘れてしまった。
「靴は残念だったな」
「あ、……うん、そうだね。結構ヒールが高いから、数年前から背が高いひとと会う時によく使ってたんだけど……そろそろ変え時だったのかも」
まさか埒が明かないのでへし折りましたとも言えない。労わってくれているリゾットにちょっと後ろめたかったので、私は軽い冗談を口にして場を流すことにした。
「ハイヒールは額にキスされた女性が発明したものだ、って言うしさ、次のを買う時はリゾットちゃんを基準に買おっかな」
「……」
「……あれ?ダメ?」
その無言がこわい。この冗談はダメ?俗説だろって言う感じ?そんなこと言われたことないけど。私の話だいたい伝聞だしくだらないしたまに低俗だけどそんなこと言われたことないよ。
頭に手がのっかったままなので動かしづらく、そのままの姿勢でリゾットを見上げていると、もう一度撫でられたあとその背がかがめられた。おっとキスですか。
軽く唇が合わさって、とくにお互い目を閉じなかったのでぱっちり。リゾットは少し離れて目を細めた。お、今度はなかなかいい細め方。
「どの高さでも問題ないから、好きなものを選ぶといい」
「……」
あ、そのお返事でしたか。
「そりゃ、……どうも」
ロマンチックジョークを飛ばしたら、上回るイケメンパワーで圧倒された。

後日購入した靴は、黒白ぱっきり分かれたデザインにワンポイント赤色が入ってるやつになりました。フーゴと街を歩いている時に見つけて、これ完全リゾットちゃんじゃんって言いながら合わせてみたら私のサイズがあったのでお買い求め。
フーゴには、次はブチャラティのデザインを見つけましょうって言われたけど、ジッパーデザインの女性靴は前衛的すぎると思うよ。