Gelosia


空港まで迎えに行きたかったけど、「あんたとは街を観光しながら話したいから、ホテルの前で待っててよ」と言われたので待機中。
ホテルの前にボーっと突っ立っているのも怪しいので、目前のカフェのテラス席でラッテを飲みながら待っていると、ホテルの自動ドアから数段の階段を下りた若い男性が、車が来ていないことを確認して道を渡った。伝えられた特徴と一致しているので軽く手を上げると、彼も顔の高さに手を挙げて応える。席を立って、彼と向き合う。
「ヤナギサワだね?」
「そういう君はポルポ、non sei tu?」
真顔で見つめ合って、口元がぷるぷるしてきたので、同時にあはははと声を立ててお腹を抱えた。
「初めまして!会いたかったよダーリン!」
「俺もだよ、マイスイートハート!」
もちろんお互い冗談だとわかっている。私は広げられた腕の間に飛び込んで、首に腕を回して親愛を込めてきつく抱きしめた。
身体を離して、ヤナギサワに席を勧める。ヤナギサワは私の向かいに座って、オススメはあるかなと私のラッテを見た。メロンソーダうまいよと言うと、それ日本にあるし、と笑いが起きる。
脚を組んでテーブルに肘をつき、ウエイターに冷たいラッテを頼む。冷たいのうまいよ。
「そんでさ、ポルポとしてはどうなの?イタリアって住みやすい?」
「日本の方が気楽なんじゃないのかねえ。私はイタリアーノだから慣れてるけど、例えば日本って熱いものをすすれるじゃん?でもこっちは絶対ダメだからね」
「それは重要だな。俺、緑茶すするタイプだから」
ヤナギサワは大きく頷いた。
私の前世が日本人だという話はしていない。当たり前だ。けれどかなりの日本フリークだということは気づかれているので、こういう会話が成り立つというわけだ。
運ばれてきたラッテを飲んで、ヤナギサワはおいしいねこれと笑顔になった。最初から笑顔だったけど。
「これからお嬢さんはどこに案内してくれるのかな?」
「お嬢さんって。おねえさんと言いなさい、切なくなるから。まずは書店だね」
「やっふー!イタリアのぺらっぺらブックが読みたかったんだよ!」
「だと思った。北イタリアには行くの?」
「ンー、ヴェネチアには興味あるんだけどさ、俺、明日には帰らないといけないから」
爽やかな笑顔でなんということを言うんだこの男は。
「……えっと……一日だけのためにイタリアに来たの?」
「だってあんたに会いたかったから」
「そりゃ、どうも」
なんという男なんだ。
私は半目でヤナギサワを見て、手を伸ばしてこつんと額を小突いた。どんなブラック企業に務めているんだろうこの人。
「あ、誤解しないでくれよ。休みが少ないんじゃなくて、明後日から彼女と泊まりでデートなわけ」
「おかしいだろ。デートの二日前に飛んでくんなよ」
やっぱり意味が解らない。手紙によく書かれているあの彼女さんだろうか。ヤナギサワは彼女をべた褒めしていて、文面からラブラブオーラが伝わってくるようだったよ。
私がまとめて支払いをしたので、財布からお金を取り出したヤナギサワは苦笑した。こういう時は俺に奢らせてよ。気になるんだったらあとで私に菓子でも買ってくれ。あっ、そうそう外国のスーパーマーケットも気になってるんだよ俺。なんという安上がりな旅行者だろうか。
「悪いんだけどさ、手つないでくれない?」
「は?なに?手つないでないと死んじゃうの?」
「俺さあ、致命的な方向音痴なのよ。でも、街並みを眺めながら歩きたいタイプなの。だからはぐれないようにお願いしてーんだけど……」
「あ、そうなんだ。恋人つなぎは恋人としかしたくないけど、そっちも同じだろうし、なんも問題なし」
「あはは、だよね!俺も彼女以外と指絡めたくねえから!」
スカッとした笑顔が気持ちいい。私もずけずけと物を言っているけど、ヤナギサワも大概だ。よく日本社会で生きていけるな。
社会に適合出来てるの?と遠慮なく訊ねると、俺はルポライターだから問題ないよ、と意味の分からない根拠を述べられた。ルポライターってコミュニケーション能力が必要なんじゃないのか。
「ここだよ」
つないでいない方の手で店を指さすと、ヤナギサワは目を輝かせて私を引っ張った。書店は逃げないよ。

ぱらぱらと新作のページをめくって試し読みしていると、とんとん、と肩を叩かれた。ヤナギサワは十冊ほどの本が入った紙袋を下げてほくほくしている。よかったね、楽しめて。
腕時計を見ると、書店に入ってから一時間が経っていた。安上がりな旅行者だなあ本当に。
「なあ、そのおっぱいマジモン?」
「ん?」
街を歩いて建物やお店の紹介をして、たまにお茶をしたりして二時間程度を過ごしていると、ふいにヤナギサワが私の胸を指さした。そうだね、本物だよ。
私が肯定すると、ヤナギサワは神妙な顔をした。ちょいちょい、と近くにあった路地を示されたので、そこに入る。
紙袋を地面に置いたヤナギサワ。じいいと私の顔を見て、へなりと眉を下げて、ぱん、と手を合わせてわずかに頭を下げた。
「すまん!揉ませてくれ!!」
「……は?」

ヤナギサワは語った。いつかの手紙で、彼女の胸はCカップでとても揉み心地がいい、と赤裸々に語ったことを。そしてそれに対し、私が自分はFカップだけどここまでデカいともはや貴重性がないから、エンジェルカップビューティフルカップキュートカップに戻りたいよと返事をしたことを。彼女にそれを話したら、ええーFカップのひとなんて周りに見たことないよ、どんな感触なのか知りたいよー!と、日本に私がいないことを真剣に悔しがっていたことを。
「俺は彼女にお願いされたんだ!あんたにぶつかるとかで、もしその感触を知ったら絶対に教えてねって!彼女のお願いの破壊力が判るか?普段は俺に遠慮してお願い事なんてしてこなくてしてきたとしても一緒にいてほしいとかそんなめっちゃくちゃ可愛いお願い事で萌えまくって愛しくって仕方ない反面頼られてないみたいでちょっと寂しい思いをしていたんだが、そんな彼女が空港で俺にすがってお願いと上目づかいで言ってきたんだ!これを叶えずにいられるか!?男として!!彼女の恋人として!!」
そんなに熱く語られましても。
その彼女さんがとてもかわいいことは判った。そして私は、まあ下着をつける程度の常識は身に着けたもののやっぱり何でもいいので、軽く頷く。
「私でいいならどうぞ。直には触んなよ」
「あんたの胸に直で触るより俺は彼女に触りたい!」
「のろけ乙」
壁にもたれて、手持無沙汰なので両手を上げておく。降参のポーズ。
私の乳を下からぽよぽよと持ち上げて、重いな、と感想を漏らしたヤナギサワに同意。重いんだよ。
ふにふにと触られて、横から揉まれて、手を離して、確かめるように空中で手をわきわきと動かす。
「よし、覚えた!」
「そりゃ何より」
「うへへ、これで彼女と会話できるぞー」
「……普段会話してくれないの?」
紙袋を提げたヤナギサワは、いやいや、と首を振った。
「いわゆるクーデレの人懐っこい版?これがもうかっわいいんだー」
「リアルにいるんだ、クーデレ。いいね」
彼女さんを想像して微笑む。ヤナギサワの彼女になるくらいだから、すごくいい人なんだろうな。おいそれどういう意味なのポルポちゃん?
クーデレかあ。普段はクールなのに、ふたりっきりになるとデレデレ。
デレデレとはいかないけど、リゾットもクーデレの仲間なのかしら。クールというより無表情だけど。あと、ドッピオ戦ではかなりテンション上がってたけど。
「今日はサンキューな。短い時間だったけどあんたと話せてよかったよ」
「うん、私も。またイタリアに来る?」
「そうだな。次は彼女も一緒に来るよ。あんたも恋人さんと日本に来いよ」
「あははは、そうだね。んじゃあ今度」
出会ってから5時間、胸を揉まれてから3時間が経って、最後の甘いものを食べたあと、私たちはひらひらと手を振って街中で別れる。ヤナギサワはこれから、彼女のためのお土産を探しに行くらしい。方向音痴なのに問題ないのかと訊ねたら、この世にはタクシーってもんがあるんだよとからりと言われた。そうかい。

パンを買って家路につく。はー、と息をついて鍵を開けて、スリッパに履き替えてぱたぱたと廊下を進む。まだリゾットは帰ってきてないらしい。帰ってきていたら私のために鍵を開けておいてくれるもんねえ。
テーブルにパンの入った紙袋を置く。手洗いうがいを済ませてから焼きたてのパンをひとつ取り出して、冷蔵庫の牛乳をコップに注いで、準備完了。
「いっただっきまーす」
なにしろ燃費の悪いこの身体。おっぱいが罪なのかポルポが罪なのか、しっかり朝昼を食べてお茶を飲んで甘いものを食べても、三時のおやつを何かしら口にして糖分を回さないと夕ご飯まで持たない。これから仕事をする身としては、きちんとエネルギーを補給しておかないと。
さくさくと食べ進んで、もう一個食べたいけどこれは明日の朝のぶん。ぐっとこらえてGO to冷蔵庫。
部屋に戻って、パソコンを開く。
かたかたかた。キーボードを叩いたり、ドイツ語でメール送ってくんなよとパソコンに文句を言って本棚から辞書を取って翻訳して、翻訳した結果この依頼がくだらない内容すぎて請けるに値しないと判明してふざっけんなああと辞書を投げそうになったり忙しい。

ようやく一息入れられる、と思った時にはもう夕食の時間が近くなっていた。おっとご飯をつくらなきゃ。
「あれ?リゾットちゃんおかえり」
まったく気配を感じ(られ)なかったので気づかなかった。階段を下りながら声をかけると、リゾットは読んでいた本から顔を上げた。この時、こっちの気配には気づいていたはずなのに声をかけるまで反応を見せなかった、というところに疑問を抱くことはなかった。だって私にとってはそれが普通だからさあ。気配なんて音が立たなきゃ気づけないからさあ。
「ご飯何にする?」
「……」
いつも以上に喋らねえな。
勝手に決めていいんだろうか、とリゾットと目を合わせていると、わずかに眉根が寄せられた。
「ど、どうしたの?」
霊でも見えたのかと後ろを振り返ってもなにもいなかったので(もし霊だとしたら私には見えないんだけど)、立ち上がったリゾットに近づく。ぎゅううとその眉間にしわが寄って、真顔より怖いんですけどなんか怒ってるんですかと言う前に肩を掴んで押されたのでバランスを崩してしりもちをついた。
ちなみにスリッパに履き替える習慣をつけていただいたし日ごろの掃除もまあそれなりに行っているので床にべったり座っても手をついても問題ないんですよ奥さん。でもそれとこれとは別の問題なのでは。
ちょっと開いた膝を閉じるのも忘れて目を白黒させていたら、よっこいしょ(まあ黙ってたんですけど)とその間にリゾットが入ってきた。私がしりもちをついた時点で身をかがめていたので近い。距離が。近い。あとなぜだか、怒っているようだ。
「なにがどうなってるのか判んないんだけど……」
「判らないか?」
「判んないですね……」
私が躊躇いがちに肯定すると、リゾットが首の後ろのホックを指で外してチョーカーを落とした。うん?
事情が読めなくて首を傾げる。出掛けた時のまま髪の毛を後ろでまとめていたので、チョーカーを外された今、私の首を守るものは何もなかった。首を傾げなくても事態は変わらなかったと思うけれど。
「ひ、うああ!?」
噛まれた。首筋を噛まれた。それも、甘噛みって知ってる?と訊ねたくなるほどきつく噛まれた。痛い。じわじわ痛い。
逃げようと後ずさろうにも首を確保されているので怖くて動けない。ビビッてのけぞって、肘で身体を支える。このまま食いちぎられるんじゃねえの?
どいてくれという意味を込めて床を叩くと、噛んだまま押された。腹筋が悲しいほどにないので、そのまま耐えきれずに寝っ転がってしまう。なんで倒されなきゃならないんだろうか。頭を持ち上げたまま自由になった手で、私に覆いかぶさっているリゾットを押しのけようとするも悲しいかな、私の腕は中華鍋より重い物はあんまり持てない。それは言い過ぎた。
「い、痛い、痛いよリゾット、痛いってば、やめてよ、なんで噛むの?」
「……本当に判ってないのか?」
ようやく離れた。濡れた唇を舐めて、まだ険しい表情で私に問いかける。
「なにが?リゾットを怒らせること?今日は出掛けるよって先に……」
それがダメだったのか?いやいや、私が誰かと出掛けることなんてありふれてる。もっとも、お友達が皆無と言っていいほどいないので、一緒に出る相手はリゾットかホルマジオかイルーゾォかソルジェラらへんに限ってくるんだけど。ギアッチョは一緒に出掛けてくれない。私と並んで歩きたくないとか思春期の弟みたいなことを言ってきてかわいかったので撫でまわしたら距離を取られた。
「誰と会っていた?」
「誰って、友人……?」
ヤナギサワは同志だけど、当たり障りなく表現するなら友人だ。あけっぴろげに親友というにはお互い歳をとりすぎて、マブダチなんて笑ってしまう。やっぱり友人というのがしっくりくる。
「友人?」
「うん。日本から来た、……ほら、あの、たまに荷物を送ってくれる彼よ」
「……」
リゾットが身体を起こした。まさかの浮気疑惑だったのだろうか?よくあるアレ?痴情のもつれに発展する?
怪訝そうに見ていると、すとんすとん、と立てていた私の膝が伸ばされた。ふくらはぎが床に落ちて冷たい。
よっこいしょ(まあ黙ってたんですけど)と私の脚をまたいだリゾット。
「あれ?今ので終わりなのでは……」
「……」
「ない、ですね……はい……」
完全に押し倒された形で、私は何が起こるのやら、とにかく怖かったので両手を持ち上げてリゾットの胸に添えておいた。頼むからまた首を噛んだりしてくれるな。まだじんじんして痛いんだ。コリコリと弾力のある頸動脈に刃物が混入する出来事はごめんだ。
「ソルベとジェラートが偶然目撃したらしい。興味がわいたので後をつけてみたと言っていた」
はい?
意味が解らなすぎて笑える。笑わなかったけど。
どうしてソルベとジェラートが私たちを目撃して、そのまま追いかけてくるんだろうか。もしかして彼らも私に浮気疑惑を抱いたのかしら。日ごろの様子でそれは絶対にないって思ってくれないもんかねえ。
つらつらと10時から15時までの、ヤナギサワとの記憶をたどる。待ち合わせて、書店に向かった。
リゾットの右手が、リゾットの胸に当てられていた私の左手をとった。手首から手のひらまでを強く掴まれて、ぱち、と泡が弾けるように思い出した。そういえば、ずっと手をつないでいたっけ。
ひく、と口の端がわずかにひきつった。まさか、それが。
わずかに開かれたリゾットの唇が私の指に触れて、嫌な予感に手を引こうとしたけど無駄だった。
「ひ、ひぎゃあッ」
また噛まれた。
リゾットの目はまっすぐ私を見ていて、それが余計に怖い。待て待て落ち着け、落ち着いてくださいリゾット。
「リゾ、あッ、い……いっつううぅ……」
言う前に一瞬きつく歯を立てられ、うっと目元をしかめた。反射的に腕を引いて、やっぱり引けなかった。
指を吸われて、歯がひらく。リゾットの口から抜かれた指は、まだその唇に軽く触れている。おいおいちょっとこれ皮膚破けてんじゃねえの?イテエです。
「手をつないでいた?」
赤い瞳は揺らがず、その目が不機嫌そうに細められ、すぐに戻る。しかめられていた眉が、波が引くようにほどけていく。けれど眼差しは鋭い。じっと私を見ている。
「つ、つないでたけど、あれはッ、ま、また噛むし……」
がりっと第一関節を噛まれた。話を聞け。
「あれは、彼がひどい方向音痴で、知らない街ではぐれたら困るって言ったからつないだだけよ」
だから手を噛まんでくれ。
「……」
「そんな目で見られても……」
どうしろって言うんだ。
「それだけか?」
「そうだよ?あとは書店行ったり、切符を記念に取っておきたいって言ったから駅に行ったり、お腹すいたからお勧めのリストランテでプランツォを食べて、お茶して、あとなんだっけ、あ、そうそう、アクセサリーを見たりしたかな」
アクセサリーを選んで彼女へのプレゼントにするんだーなんて浮かれてたからはいはいご馳走様っつって私も良さそうなものを探したんだっけ。
視線をリゾットに戻すと、ぱ、と手を離された。理解してくれたか、とホッと息をつく。結局浮気疑惑だったんですか、と問いかけようとして、びくっと肩が跳ねた。家着のブラウスの上から、リゾットの右手が私の胸を揉んだのだ。
独伊翻訳がまったくの無駄に終わったと判明した時にむしゃくしゃして下着を取って、パッド付きのキャミソールに着替えたので、たぶん揉みやすい。いや、冷静に揉み心地の心配をしている場合ではない。自分で言うのもなんだけど私のおっぱいって結構やわらかくて気持ちいいんだよ、あぁいやいやいや今関係ない関係ない。
機嫌の戻らないリゾットは、不機嫌そうにやわやわと私のパイオツを揉んでいる。だんだんむずむずしてくるのでやめていただきたい。ここリビングです。
「ちょ、ちょおおっと待っていただきたいんで、す、がね。いったい何に怒って、…………あ」
乳。
ぎゅ、と瞬間掴まれて、はっと思いだした。私の顔が引きつって、リゾットの手が止まる。
「い、いやいやいや、あれはヤナギサワが」
彼女のために乳の感触の土産をくれと言ったから、乳なんてどうでもいいし揉ませた、と続けようとして、言葉に詰まった。
私に、「もっと自分の胸を大切にしろ」「胸を公共の物だと思い込んでるお前の歪んだ認識が可哀そうだ」と切々と説いてくる筆頭はイルーゾォ(こいつも大概歪んでる)、次点がホルマジオ(乳を揉んでくるくせに放置していたら怒る。意味が解らん)だが、リゾットも静かに言い聞かせてくる。それは数年前からもそうだったけど、最近は特に顕著だ。恋人同士(自分で言っててまだむずっむずするよ)になったからだろうか。理由は何であれ、だから彼らの前では気をつけていた。
「(結局どうでもいいって思ってることがバレるとめんどくさい……!)」
だって本当にどうでもいいんだもの。そりゃ、見られると恥ずかしいなくらいの羞恥は覚える。けれど、どちらかというと谷間より下着を見られる方に抵抗があるのだから、私の認識が、自分が"ポルポ"だと気づいた時から変わっていないことがうかがえる。
あわあわと言い訳を考えていると、じわじわとリゾットの指に力が入っていく。
「……」
「い、いえ、……その……あれはですね、……」
「自分から触れさせたのか?"友人"に?」
「え、いや、彼女のために揉ませてくれって言われたから、どうぞ、って言っただけで、ヤナギサワ自身が揉みたかったわけじゃあ」
友人、という響きにかなり含みがあった件について。
「その男の恋人のため、というのはどういう意味だ?」
「ヤナギサワの彼女さんが私の胸の話を聞いて、感触がすごく気になったみたいで……でもイタリアには来られないから、彼氏のヤナギサワに、もし偶然接触出来たらその感触を聞かせて、ってお願いしたらしいのよ。で、ヤナギサワの彼女さんは遠慮がちな人らしくて、お願い事なんて普段めったにしないんですって。だから絶対に叶えてやりたかったん、だ、って、……あの……痛い……」
改めて言葉にすると不思議すぎる展開だな。たぶん私とヤナギサワとその彼女全員どっかおかしい。
「ソルベとジェラートはその時点でアパートに戻ったようだが、その後は?」
胸から手が離れて、ひたり、と耳の下、首筋に指が当てられた。
「えーっと……お茶飲んで、街並みの写真を撮って、カンノーロを食べて別れた」
ソルベとジェラート、なんでリゾットに告げ口しちゃうんだよ。面白がってんのか。こっちは首噛まれて手噛まれて乳イテエよ。
「他に忘れていることはないな?」
「ない、と思うけど。他には覚えがないし……」
「お前は最初から何の覚えもなかっただろう」
わあ正論。
私は寝っ転がったまま、リゾットは私に覆いかぶさったまま。もうこれで話は終わりかな、と今度こそ息をついて、ところで、と首を傾げる。
「これってリゾットが私の浮気を疑ったってこと?」
「いや、何も疑っていない。俺がお前をそう思うように、お前が俺に泣くほど愛を抱いているということは知っている」
「あ、そうですか……ありがとうございます?」
リゾットが愛にむせび泣くところ見たい、と茶々を入れることはできなかった。そういう空気じゃない。
「……ただ」
表情が薄いながら、真剣な顔で私を見下ろしていたリゾットが、不意に眉根を寄せた。瞳の奥の感情を堪えるように、目元が険しくなる。
あいつらならまだ許容できるが、と、その手が動いて私の首に添えられる。親指が、消えないひと筋の真っ直ぐな痕をなぞった。
「それが女だろうと男だろうと、ポルポ、お前が誰かと接触しているのを見知るのは面白くない」
ぐり、と親指が傷痕に立てられた。少し伸びていた爪が食い込んでいる。痛くはないけど押されるとちょっと苦しい。いつものことだけど。
「(というか、……女も?)」
ぱちりと瞬きをする。
えっと、あいつらっていうのはみんなのことだよね。彼ら以外との接触が面白くないって、私、どこでどう生活していいんだかわかんねえぞ。どんな嫉妬の仕方だよ。イタリアンジョークにしては指に力が入ってるし、少し回復したとはいえ機嫌が悪そうだ。リゾット自身の性格なの?俗説で言われる、シチリアのイタリアーノは嫉妬深いとかそういうものなの?訳がわからないよ。
「ええーと……気をつけます?」
「無理は言わないが、そうしてくれ」
いや、かなり無理を言っているような気がするけど。そしてまだ親指がぐりぐりと傷痕を押してくるんですけど。かすかに痛いんですけど。
床に寝っ転がったまま、正面を向くのに邪魔だったので、髪留めを取る。さっきは取れる雰囲気じゃなかった。
ゆるい癖毛でふわふわしているくせに結んだ跡はつかない(たぶん取り寄せてるシャンプーがいいんだろうな)髪がぱらりと床に散らばる。ふはー、緊張した。

私の行動も悪かったと、今になって思う。手をつなぐくだりは流れとしておかしくないものの、胸はさすがに自重すべきだった。リゾットの感覚ではドンアウト。あとから思えば私的にもギリギリアウト。ホルマジオなら頭をひっぱたいてくる。イルーゾォは頭を抱える。ごめん。
「ごめんね、リゾット。私が悪かったわ」
ぐり、と一押しして、指が止まった。
その手に触れて、すりすりと撫でる。
リゾットのぷんすかポイント、難しい。ぷんすかとリゾットって合わねえな。何て言うんだ?怒り?でも怒りほど激しくないしな。内心はめちゃくちゃ怒っていたりするんだろうか。
「ちょっとした興味なんだけど、私がどれくらいやったらリゾットはどれくらい怒るの?」
「……」
抽象的すぎたか?
リゾットは少し考えて、それから傷痕にまた親指を突き立ててぐりぐりし始めた。
「警戒がない点には思うところがあるが、お前に対して怒りはしない。が、知らない残り香は打ち消すし、接触があったところは確認するし、お前にあまりにも自覚が欠けていると自覚を促す。間違いなくお前から誘い、受け入れることはないから、最悪の事態が起こった場合は、まあ、想像通りだ。他にも言うか?」
「いや、いいです。ありがとう」
へえさっきのって怒ってなかったんだあー……。
ツッコみたいことがなくはない。これは愛をありがとうと言うべきなのか?打ち消すってどうやって?確認ってなに?自覚を促すってどうやるの?最悪の事態ってそれ私が強か―――いや、いいや。
賢明な私は言及をやめた。ついでに考えるのもやめた。
「噛み跡ついてる……」
「そうだな」
そうだな、じゃねえよ。痛かったんだよ。いや、私が悪かったから甘んじて受けるべきなのか?いやいやいや、痛かったんだよ。事前に説明してよ。そしたら理解するって。身体に教え込むみたいなのいらないよ。
「私もリゾット噛むぞ」
「構わない」
首から手が離れた。冗談だよ噛むわけないじゃん、と笑い飛ばそうとして、かすかに開いた唇に、むに、と指が当たった。
指の力を抜いたリゾットが、私の口に、自然に曲げられた人差し指を押し付けている。
「(いや、あの、……じょうだん……)」
第二関節の背中でぐにぐにと私の唇を割り開き、無感動な目が、ほら、と促しているように見えた。たぶん気のせいじゃない。
「あ」
あの、と言おうとして、開いた口にそのまま突っ込まれた。自分のならまだしも人の指を食う趣味はない。
「んん!」
力いっぱい押して動かなかったらショックなので(非力的な意味で)、リゾットの腕をぱしぱし叩く。離れてくれ。離れなかった。
中に物が入ったまま口を開けているので、徐々に唾が分泌される。やめてーアミラーゼやめてー。
「うぅ、っく」
苦しく飲んで危機を脱する。何が悲しくて!よだれ垂らさねばならんのだ!
歩道には通行人がいます!ならぬ、口を閉じたいけど指があります!と心の中のウィルソン・フィリップス上院議員が叫んだ。
構わん、行け。DIOが言った。
口の端からつ、と唾液が落ちる。うわあああこいつうらむぞ!ちょっと目がうるんだ。かああと目元か頬かが熱くなる。恥ずかしさに耐えて、眉間にしわをつくってリゾットを睨む。離れないし離させられないならもうやるこたあひとつだ。
「んうー」
がり、なんて音は立たない。いつも私が自分の指を噛むよりずっと弱く、本当に歯で触れるだけだ。
「それだけでいいのか?俺はもう少し強く噛んだが」
痛かったから知ってるよ!でももういいよ!程度とかどうでもいいよ!
勘弁してくださいと、床についている方の腕―――さっきからずっとつきっ放しだけど疲れないんだろうか―――をぺしぺし叩く。
なあんだ残念、とでも言うように(まあ無表情なんですけど)ゆっくりと自分の指を引きぬいたリゾット。うわあめっちゃ濡れてますすみません。申し訳ないのと恥ずかしいのとでやってられない。肩を少し引き袖に余裕を持たせて袖口を掴み、片手で掴んだリゾットの指を拭く。つらい。
ついでに口からこぼれた唾液もぬぐった。きつい。精神的に。
「人の指噛めない……」
「前にかじってきただろうに」
「は……、あ、あれはいや、寝ぼけてたからね?素面じゃ無理だよ。ああ恥ずかしかった……びしょびしょにしてごめん……」
見てられない。
私は両手で顔を覆って、横を向いた。片手が外されて、また傷痕に親指が触れた。どんだけ気になるんだよ。
ていうかなんでまだ床に寝っ転がってんだよ私は。
顔を戻してリゾットを見るも、またさすっているだけで退いてくれる気配がない。リゾットちゃん床は冷えるんだよ、私。君も手冷たいんじゃない?え?もうあったまってきたのかな?そうだね私も背中はあんまりひんやりしてないよ。
「リゾットちゃんってなんで首さすったり、ぐりぐり爪先押し付けて来るの?」
のんびりと手を伸ばして、私が触られているのと同じところを指でなぞる。ぴく、と親指が動いて、私の首に向いていたリゾットの視線が私に向けられた。
「これはあのフーゴという少年につけられたものだろう」
「私がうっかりしていたんだって前に言わなかったっけ?」
「俺がつけたものじゃないという点ではどちらでも変わらない。誰とも知れない少年を家に呼び込んだポルポに言いたいことは多くあるが、首を切ってしまった成行きはとてもお前らしいし、好ましいと思う。だが同時に、俺以外の誰かにつけられた傷の痕が残っていることに苛立ちも覚える。だから気になって触っている。爪で押すのは、そのまま新しい傷で上書きできればいいと思うからだ。今のところは爪跡で我慢しているから安心しろ。……俺の血から刃物をつくって上から切ってもいいんだが、ポルポは痛いことが嫌いだからな」
「……」
ひっさびさに長く喋ったと思ったらなんてこった。そんな理由があったのかよ。理解不……いや可能……?理解は可能だけど意味が解らない。イタリア人みんなこうなの?それともリゾットが特別独占欲が強いの?私もリゾットにそういう想いを抱くようになるの?
自分の血からできた刃物で人を切りたいってどんな欲求だよ。諦めてくれててありがとう。
私はリゾットの肌に指を滑らせ、ふたつボタンが外されているシャツの中の鎖骨をさすさす。いいですねこの骨。手フェチがいるんだから骨フェチもいるんだろうな。どういう人なんだろう。好きな人を骨格標本にしたい感じかな。
そういえば西洋では、喉仏のことをアダムのリンゴって表現するのよね。私、なんてロマンチックなんだろうと感激した覚えがある。今も感激する。喉仏の話なんて普段しないから、ふと本を読んだ時とか、辞書を引いた時とかに偶然見つけてふおおおって何度も読みなおす程度だけど。
「うぐ、苦しいリゾット」
ぐ、と首を親指で強く押された。今のにはどういう意味があるの。訊かないけど。怖いこと言われたらビビるから訊かないけど。
片手を、首にあるリゾットちゃんの右手の甲に接させて抗議を示し、私は伸ばしてるほうの手の指を鎖骨からつつつーっと動かしてトゥ喉仏。いいですねこのでっぱり。メローネはあんまり目立たないんだよね。上を向くと目立つのかもしれないけど、上を向いているメローネなんて見たことない。どんな状況?天井の電球でも変えるのかな?
くるり、人差し指で周囲をなぞる。私の痕の上で動いていた指が止まっていることには気づいていたが、満足したのかなとしか考えていなかった。
こくん、と、喉仏が動いた。お?お?なんか飲んだ?お腹すいてよだれ出た?
「お腹へった?遅れたけどご飯つくるよ?私、中華たべたいからチャーハンつくるけどリゾットちゃん何が食べたい?」
「……そうだな、俺もそれが食べたい。エビチリは俺がつくろう」
リゾットの口からえびちり発言。えびちり。かわいい。そのうちおしゃもじって言わせたい。いいよねこの響き。おしゃもじ。
あとなにがいいかな、と、メニューではなくリゾットに言わせたい単語を考えていたら、すっと近づいてきたリゾットに触れるだけのキスをされた。ありがとうございます、我々の業界じゃなくてもご褒美です。ちゅ、と音だけ残して離れようとしたので、ついでに私のことも起こしてくれと頼む気持ちでその首に腕を回したらもう一度キスされた。違うで。それ違うで。私も悪かったか。でもありがとうね。
なけなし、いや、あるある、なくはない、そんな腹筋を駆使して起き上がる。一足先に立ち上がったリゾットに手を貸してもらって立ち上がり、軽くお尻をはたいてキッチンに向かう。あー、チャーハン。何入れようかな。私はたくあんを細かくして入れるのが好きなんだけど、たくあん、ないからな。レタスチャーハンかなあ。

のんびりとエプロンをつけていた私が鈍かったのか、リゾットちゃんのゲージが常にギリギリなのか、はたまたまだソルジェラからの目撃情報にむかむかしていたのか。
ご飯を食べてシャワーを浴びて本を読んでさあ寝るか、と布団に入った瞬間、ぺらんと上掛けがめくられた。「まだ判っていないようだから言うが、襟元だからと言ってひとのシャツの中に手を入れたり、指でふつうは触らない鎖骨や喉を触るとこうなることが多い」すみません、ご飯を食べてすっかり忘れていました。「えっと、……すみませんでした」さすがの私でもこの流れは判る。喉仏はアウトでしたか。あんたの基準がわかりません。

後から聞いたところ、鎖骨喉仏首を触ったのもそうだけど、その前にリゾットの指を口に突っ込まれた時なかなか噛めずに口を半開きにしてふぐううとか唸りながら溜まった唾液を飲みこみきれなくて垂らしちゃったこととか、それを恥ずかしがって赤い顔して睨みながら指かじったこととか、シャワーを浴びる前にブラウスのボタンを全部外してから、しまったあパンツ持って来るの忘れた!と思って、どうせリゾットも部屋でなんかしてるだろうなと思ってキャミソール+ショーツ+前開きブラウスでぱたぱた階段を上っているところを想像通り部屋でなんかしてから出てきたリゾットに目撃されたこともイカンかったそうで(まあ私もあれはちょっと恥ずかしかった)、さらにソファでだらだらしていて本を読みながらリゾットの脚を枕にして、本を持ちながら軽く上げていた腕が疲れた時にだらーっと力を抜いてリゾットの方に身体と顔を向けて腰から脚の付け根のとこにうおあああとか言いながらぐりぐりデコを押し付けてたのもよくなかったそうです。あれはいつものスキンシップじゃねえかと反論したかったが、それ以前にちょいちょいなんかがあったからダメだったんですね。はい、学びました。ていうか指のくだりとかリゾットの琴線はどこなんだ。
でも普段の行動だから直せないですうああああ。