16 死んでいく思い出


ポルポが、来ない。
メローネはカレンダーを、時計を眺めては、日に日に募る疑問をポケットに詰めて街を歩いていた。来ないなら、自分からいくしかない。
以前しつこく訊ねたら、ポルポは自分の仕事場を教えてくれた。授業参観やってる気分になるから特別な時以外は来ないでねと苦笑されたので、メローネはまだそこに行ったことがない。耐えきれないほどさみしくなったこともないし、明後日までに来なかったら行ってみよう、と考えると、必ず次かその次の日には彼女が顔を見せたからだ。
少なくとも二週間に一度は、ポルポは暗殺チームのアジトを訪れていた。時には電話で呼び出すだけだったが、メローネたちは食事を共にして、楽しいひと時を過ごしたのだ。それが、今月に入ってもう一週間が経つというのに、ポルポは現れないし、任務もぱたりと途絶えた。金はいままで有り余りすぎるほど貰っているから、仕事がなくなったことへの危機感はない。けれど、タイミングが悪いのか、電話にも出ないポルポに会えないことはつまらなかった。

階段をのぼって、ドアをノックする。おかしなことに、返事もない。今は平日だし、お昼の時間も過ぎている。ポルポなら必ずあの雌猫をよこして、ドアを開けるはずだった。
メローネはノブを捻ってみて、首をかしげた。鍵が開いている。ということは、誰かがいるのだ。もしかしたら雌猫は不在で、ポルポは転寝なんかをしているのかもしれない、そう考えて、ドアを開けた。
「……ポルポ?」
部屋の真ん中に立っていたのは、ビアンカだけだった。机の上はきれいに片付いていて、カーテンも、窓も開いていない。椅子には誰かが座った形跡もなかった。外は明るいのに、暗い部屋だった。
「……おい、雌猫、ポルポはどこだよ?」
ビアンカは、ポルポのものだろう机に向かって立ったまま、メローネに顔もむけなかった。メローネが入ってきたことに、気づいているのかも怪しかった。
「おい!」
強く肩をつかんで自分の方を向ける。メローネは言葉を失った。ビアンカは焦点を失った死んだ目で、無表情で、小さく何かを呟いている。ただそれだけで、それ以外の何もしようとしない。この場所に来たのも、ただ毎日の行動をなぞっただけなのだろう。何もすることがなく、することができず、ただ立っているのだ。ポルポが仕事場を後にするその時間まで。そしてこの女も家に帰り、生きるためだけにカロリーを摂取して、また繰り返す。
いつからそうなのかメローネには判らなかったが、愕然としたのは一瞬だった。ビアンカが何を呟いているのか、耳を澄ませて、がつんと頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
「ビアンカは決して自分も他人も傷つけない。それはポルポが次に命令するまでの間のこと。ビアンカは決して動揺しない。なぜなら、それはポルポを信じているから。事情の説明はできない。なぜならそれはポルポがすることだから。ビアンカは決して自分も――」
ポルポを至上としているビアンカがこれほど、強力な暗示を受けた廃人のようになる何かが、あったのだ。
「なんだよ、……それ……?」
命令を与えたのはポルポだと確信できた。ビアンカはポルポ以外の命令を、おそらくこれほど強く心に刻まない。
「ポルポ……?」
たったひとり、暗闇の中に放り出されたような思いだった。あの笑顔はどこだ。メローネの口づけを笑って拒んだ手のひらはどこだ。やさしく抱きしめてくれる腕はどこだ。メローネの髪を梳いた指はどこだ。ポルポはどこだ。
ポルポは、どこ。

飛び出すようにポルポの仕事場を出て、階段を駆け下りて、ただ走った。携帯電話の存在など思い出しもしなかった。
息を乱さない走り方を知っているはずなのに、アジトのドアを、震えて仕方のない手で鍵を開けたメローネの息は大きく乱れていた。何かを視ている、というよりも、目に入った風景を見ているだけに過ぎなかった。廊下を走る。バランスを崩して壁にぶつかって、それでも止まれなかった。ポルポが。
「リーダーッ!!」
リゾットと会話をしていたホルマジオを突き飛ばして、メローネはリゾットの胸ぐらをつかみあげた。メローネ、どうした。
ちがう、俺の名前を呼ぶのはあんたじゃない。本当に呼んでほしいのはあんたにじゃない。
メローネの手は震えていた。
「ポルポは、いま、どこにいるの」
空っぽの部屋。ぬけがらの女。連絡のつかない彼女。
誰かの手から落ちたグラスが、床に当たって粉々に砕けた。



0.5

あの女を殺してしまおうか。
ふと考えて、馬鹿な考えだったと振り払う。イルーゾォは、思いのほか自分が動揺していることに苦笑した。
ポルポの入院している病院を教えられたイルーゾォは、鏡の中を通り抜けてそこに立つ。
女は静かに眠っていた。上下する胸が、曇る酸素マスクが、針がささり管が伸びる右手の脈が、彼女の生をイルーゾォに伝える。
「……お前、戦闘向きじゃねえもんな」
イルーゾォにはわかる。周りに鏡がない状態で強力なスタンド使いに襲われたら、イルーゾォはマンインザミラーで防御を取ってすぐさま逃げるだろう。自分に向いていないことはしない。ポルポも、きっとそのはずだった。
誰とも知らない男を庇って傷つくなんて、とてもポルポらしくて、けれど苛立たしい。自分たちだけを見ていてほしかったのに、ポルポは手の届く範囲なら、色々なものを抱え込んでしまうから。
その男に怒りを覚えないわけではなかった。だが、イルーゾォは事情を知らない。目撃者は組織の処理班に記憶を操作され、コードA5を発令したという組織の男も、もちろん情報を秘匿されていて会うことはできない。庇われたという男もそうだ。記憶を消されて生活に戻ったか、組織に入ったか。
どちらにしても、暗殺チームとしても個人的にも、接触することはできない。
唯一、情報を知りえる女――ビアンカも、あの様子だ。
誰の目もないポルポの仕事場で、痛みを与えて拷問をしてみたが、女はぴくりとも動かなかったし、こちらを見ることもなかった。唇から、3つの指令をえんえんと渦巻かせるだけだった。証拠をきれいに隠滅して、チームの全員が女を放置した。
待つしかないのだ。
いつ目覚めるともしれない、目覚めるかもわからないポルポを、イルーゾォたちは待つしかないのだ。



0.5

窓から入り込んだ秋風がポルポの前髪を揺らす。リゾットの薄いコートも揺れた。色こそ似ていたが、コートも、中に着ている服も、いつものものとは違っている。
ポルポが見たら、二度振り返ったあと腹を抱えて笑い出すか、しみじみと眺めて、それから。
それから、なんと言うだろうか。ポルポの言動は予想ができないことが多くて、リゾットには分からなかった。
「ポルポ」
呼びかければ、いつも彼女は振り返った。どんなに呟くように呼んでも、誰かと会話をしている途中でも、振り返って、どうしたのリゾットちゃん、そう言ってきょとんと眼を瞬かせた。
ポルポは目覚めない。包帯の巻かれた患部に手を当てても、わずかに力を込めて握っても、ポルポは睫のひと筋すら動かさない。静かに呼吸を繰り返して、眠っているだけだった。
ベッドの横に置かれたパイプ椅子とチェストの間に、大きめの紙袋が置いてあった。中身を取り出してみると、それは袖がべったりと血で汚れ、黒く固まったシャツと、切り取られたその袖と、やはり血で汚れた細身のパンツだった。もう使い物にならないだろう。リゾットはそれを元に戻した。

最後に会ったポルポはどんな格好をして、どんなことを言っていただろう。思い出そうとしても、ポルポがそこにあることは自然で、あけすけな言動をとることも自然だったために、うまく思い出せない。記憶の中にあるポルポがいったいいつのポルポだったか。共に過ごした数年は、強烈な印象を残した。
シーツの上に投げ出された白い手を、そっと握る。握り返されることはなくて、リゾットは目を細めた。