14 しばしさよなら


また変なもの見つけちゃったなあ。ボロボロの男を見下ろして私は考えた。やはり変人と呼ばれているから、変なものに多く巡り会うの?類は友を呼ぶ?
酒を飲んで盛りあがったチンピラと喧嘩でもしたのだろうか。しゃがんで脈を取ろうとしたら、強く手を払われた。
「触んな」
「……あ、そっすか。警察呼ぶ?」
「いい。……放っとけ」
放っておけと言われたので、頷いた。
「じゃあ、ちゃんと手当しなね。無茶しちゃダメだよ。チャオ」
立ち上がって道を急ぐ。フーゴが怒ってないといいけど。家の電話に連絡を入れずに帰宅の時間が遅れると、時間の経過によってどんどんブチ切れていくんだもんな。携帯電話の充電が切れてしまった私は、せめてものお詫びにカンノーリを買って家に帰った。

次の日、ランチを食べにビアンカと歩いていると、通りの向こうのジェラテリアを指さしたビアンカが道路に飛び出しそうになった。私は危ないよと声をかけて彼女の腕を引いて、そしてうっかり誰かにぶつかってしまった。危ないのは私のほうだったか。
「ごめんなさい」
「いや、俺も悪かっ……」
視線がかち合って、相手がチッと舌打ちをした。なんだなんだ、柄が悪いな。かみつこうとしたビアンカを押さえて、もう一度謝って通り過ぎる。すまん、通りで騒ぎを起こすのは勘弁しておくれ。
マルゲリータは非常においしかったので、昼間にあったほんの数秒の出来事なんて忘れてしまう。

夕暮れの街を歩いて、人通りも少ないので鼻歌をうたっていると、角を曲がる時にちょうど向こうからも人が歩いてきていて、私たちは同時に足を止めた。
「お先にどうぞ」
道を開けると、軽い礼を言ってすれ違おうとした相手が顔をしかめたのだが、私はまったく気づかずにまた小さくうたいながら角を曲がった。今日はなにを食べようかな。
色々な料理の名前を並べてみたが、共通することがひとつある。絶対にフーゴをキッチンに立たせないようにしよう。その決意だった。

案の定めちゃくちゃになってしまったキッチンをできる限り修繕し、修理費を計算しないとなあとメモ書きを見ながら通勤していたら、早い時間にもかかわらずジェラートを売っている車があったので朝食のデザート代わりに購入。
仕事さえこなせば、何時に出勤退勤しても問題のないギャのつく自由業なため、壁際でオレンジ味のジェラートを食べながら、客の来ないジェラート売りのおじさんと話してすごす。
「最近景気どうですか?」
「ぼちぼちだね。そろそろ寒くなってくるから、お姉さんみたいに買ってくれる人が減るんだよねえ」
「この時期にジェラート売ってるのも珍しいですもんね」
夏の間にいくつも店が出ることは当たり前だが、秋風が吹きこむ季節となると話は別だ。
「そうなんだよ。夏の間にちょっと怠けちゃってね、せっかく材料が余ってるから、最後まで売り切りたくって」
「まじですか。じゃあ、私の仕事場の近くで売りません?私、大食いなんで、一週間あれば空にしてみせますよ」
「あはは、冗談だろ?」
それが本当なんだよ。私が昼食に何を食べるかを指折り数えて教えてあげると、おじさんはまじまじと私を上から下まで眺めまわした。
「どこ行ってんのその栄養?おっぱいかい?」
「賢い頭にいってるんっすよ」
「あはははは!君面白いね、仕事場どこ?教えてくれたら、明日から行くよ」
鞄の手帳に簡単な地図を書いて渡すと、おじさんはいくつか質問をして場所を確かめたあと、わかったよとウインクをした。スプーンと紙を捨てて、手を振って別れる。明日からはおいしいおやつが食べ放題だ。うれしい。
にこにこしながら歩いていた私は、街灯の柱に誰かがいたことにもまったく気づかず通り過ぎた。

届いた書類を持って部屋に入ってきたビアンカに、ジェラート売りのおじさんを口説いたと事のあらましを説明すると、ビアンカはにっこり笑ってそれはよかったわねと言った。
その細腕のどこにそんな力があるのやら、置かれた書類は自重で下の方がちょっとうねる。
週休自由、勤務時間も自由のフリーダムすぎる職場なはずなのに、9時から始めて、気づいたらランチの時間を少し過ぎているし、たらふく食べて帰ってきてペンを執ると、何かない限りは中身のなくなった胃袋に呼ばれるおやつの時間まであっという間だし、そのまま19時まで時計が早回りする。絶対ボスがキングクリムゾンしてる時もあると思うんだ。時間の飛びが異様だもん。
ランチの帰り道にあのジェラート売りのおじさんの車の前を通ったので、ビアンカに説明がてら手を振った。ひとりお客さんがいるじゃん、とは思ったものの、その彼が私を見ていたことには当然のように気が付かなかった。

早くに閉まってしまうお肉屋さんにすべりこんでおいしいお肉を手に入れた私は、日の暮れかけた道を小走りで駆けていた。フーゴよりも先に家に辿りついて料理を始めないと、めたくそになった台所を見てフーゴが落ち込んでしまう。
気にしなくていいんだよ、私だってトマトの湯剥きがうまくいかなかったらちょっとイライラすると思うもん。フーゴのはスケールが違うだけだからね。次からは要らないお皿ぶち割っていいから、ベランダでやってね。
街角の時計を見て焦った。人影のない横断歩道を走り抜けようとしたら、おい!と強く二の腕をつかんで引っ張られる。たたらを踏んだ瞬間、目の前を二台の自転車がびゅんっと通り過ぎて行った。遠ざかっていく彼らから、ミディスピアーチェがきこえてようやく状況を把握。こっちこそすみませんでした。
「あ、ありがとうございます、全然前見てなくて」
「怪我じゃ済まねえぞ」
「気をつけます。……あれ、怪我してるんですか?」
袖で隠れる傷跡がちらりと見えていた。まだ新しい傷で、うまくふさがっていないようだ。
私は鞄から絆創膏と、低血糖予防のキャンディを取り出して男性に渡した。
「お礼のかわりです。お先に失礼します!早く治るといいですね」
反応も見ずに、今度はきちんと左右を確認してから横断歩道を走って渡った。

その甲斐あってかフーゴよりも先にエプロンを身につけることができた。なぜかブチャラティも一緒に帰ってきて、思わず、「私、お邪魔かな?」と訊ねてしまったが大丈夫だ問題ない。
「あなた、やっぱり馬鹿じゃないですか?」
冷えた声音の大盤振る舞い。
フーゴによると、ブチャラティは壊れてしまった台所を心配して様子を見に来てくれたらしい。壊れたと言ってもちょっと引き出しがゆがんでシンクが激しくへこんで棚がしまらなくなっただけだから調理に支障はない。
けれどせっかく来てくれたことだし、フーゴが珍しく私に要求してきたので、私はブチャラティと並んで料理を作ることになった。うん、スーツの上着を脱いだその下の肌着の謎具合にちょっと引いた。なに、あの模様?編んであるの?フーゴの裸ネクタイと大して変わらないぞ。護衛チームは露出魔の集まりか?
などとボロクソなことを考えていた私だったが、料理に関してはブチャラティの手際が良すぎて私の出る幕がなかった。何でもできるのかこの男は。家も持ってるし。……あっそういえばそうだな、ブチャラティってネアポリスの郊外に家を持ってるんだっけ。いつ買うんだろ。もう買ってるのかな。まさか設計から着手してるってことはあるまいな。いや、あるかもしれない。結構こだわり強いもんな、ブチャラティって。肌着とか。

あ、もちろん、あまりにも刺激的な格好だったので、家にある成人男性サイズのシャツを渡したよ。火と油を使うのに素肌9割丸出しはやばい。
このサイズのシャツが家にある理由をフーゴに問い詰められたけど、君がいつか大きくなるかなと思って買ってみただけです。恋人とかはいないんです。なにが悲しくて24歳になってまで18歳の青年と13か14歳の少年に恋人がいないことを改めて告白しないといけないんだろう。モテない私が悪いの?
居た堪れなさをデザートのフォカッチャと一緒に噛み締めていたら、ブチャラティが真顔で「次はもう少し多く作る」って言ってきたんだけどどういう意味?おうちに帰ったらブチャラティの3分クッキングで9割半裸のブチャラティがあのちょっと口の端を持ち上げるだけの微笑みを浮かべて料理の皿を並べてくれるの?それ最高。
3分クッキングのくだりは省いて喜びを示したら、フーゴが小さくガッツポーズをとっていた。

送るよと言ったのに、洗い物と食器の片づけまでさらりとこなしたブチャラティはジャケットを腕にかけたままクールに帰って行った。ちゃんと私の持っていたシャツを着ている。この時期にアラウンド半裸、上着を羽織っても内容を考えると5割半裸は寒すぎるだろうと思った私が勧めたのだ。ブチャラティはありがとうと小さく頷いて夜道に消えていった。
で、私は今ひーこら言いながらその道を走っているわけである。別に、トイレを求めて彷徨っているわけではない。
フーゴを見送って、いい天気だったのでシーツを干そうと思い立ったら洗濯機が嫌な音をたてはじめたので、予定の時間よりも1時間遅れてしまっただけだ。けれど、ビアンカには通常通りの時間で行くと伝えているわけで。
私がその時間に現れなかったら、ビアンカはたぶん30分と待っていられないと思う。私の名前を連呼しながらネアポリスを駆けまわっていてもおかしくない。この年になって迷子の呼び出しは恥ずかしすぎるので、私はヒールでガツガツ石畳を蹴っているのでした、まる。
赤信号を駆け抜けたい気持ちはやまやまだが、昨日人身事故を起こしかけた身なので、むずむずしながら信号が変わるのを待つ。時間を確かめたくて時計をさがしたら、こちらを見ていた男性と目が合った。目が合ったのでにこっと笑っておいた。
それで終わる話かと思いきや、彼はこっちに近づいてきた。なんか見覚えあるけどよくわからん。誰だ。首をかしげていると、私より背の高い彼は、ちょっと眉をしかめながら口を開いた。
「……絆創膏、助かった」
「はあ。……えー……絆創膏。……あっ、昨日の!」
男性は無言でうなずいた。私から視線が逸れて、横断歩道の向こうを見る。私も見た。見なきゃよかった。
「や、やべえ……ビアンカが本気だ……」
人が自然とビアンカを避けている。なぜかって、その勢いがおよそピンヒールとかっちりしたレディーススーツを装備した妙齢の美人のそれとはかけ離れているからだ。フォームは完璧なものだし、呼吸ひとつ乱した様子はないし、なによりビアンカはまっすぐ私を捕捉していた。
タイミングよく青に変わった信号に、私は思わず隣に立っている男性の服をつかんだ。彼がそれに気づいて何か言おうとした瞬間、カツン、高い音が響いて、最後の白線を蹴ったビアンカが私に飛び付いた。走る勢いそのままに。
「ビアンカあッ―――」
彼女ってネクロフィリアだし、もしやこのまま私を物言わぬ屍に変えて最後の愉悦を楽しむつもりなのでは。数年の信用をふきとばしてそう考えてしまうほど躊躇のない動きだった。
背中から倒れ込みかけた私に、ふたつの力がかかる。ひとつは隣の男性が私の腕を引き寄せた力で、もうひとつはビアンカが私の腰を強く抱き寄せた力だった。
カツン、とピンヒールで石畳を削るほどの馬力で片脚をふんばったビアンカは、そのままくるりとまるでダンスのターンでも導くように勢いを殺した。優雅に両足をそろえた彼女は、男性にささえられて転倒を免れた私の肩と腰に手を当てた。
「もう!携帯電話を忘れて帰ってしまうから、心配して探しに来ちゃったじゃないの、いけないポルポね」
「……し……死ぬかと思った……」
ビアンカが心外そうにふうとため息をついた。ため息をつきたいのは私だ。
「わたくしがあなたを殺すわけがないのに。いいかげん信じてほしいわ。……そちらの方、さっさとその手を離しなさいな。ポルポにいつまでも触れているなんて長い付き合いのわたくしでもやんわり逃げられてしまうのにッ」
ぎろりと男性を睨んだビアンカを止める。やめて、まともなひとが逃げちゃう。
「す、すみません、ビアンカはちょっと……えー……過保護で、男の人が苦手なんです。助けてくれてありがとうございました、本当に助かりました、いやほんと、まじで……」
「ポルポ、わたくしは男が嫌いなんじゃなくって、あなたに馴れ馴れしく触れる人間が嫌いなのよ」
「いやビアンカちゃん今はちょっと待ってて……あとで聞くから……」
すみません、と謝ると、男性はしかめていた目元をもっときつくして、ビアンカを哂った。
「残念だったな、飛んできたのに褒めてもらえなくてよォ」
「……あなた、ポルポのことをまったくわかっていないわね。所詮は行きずりの男、当然だけれど」
「あぁ?」
私の腕を片方ずつ掴んだ男女がにらみ合いを始めたんだけどだれかブチャラティ呼んでくれ。両方とも気配が堅気じゃない。
男性はツンツンした髪の毛先の可愛さで相殺できないくらい目つきが悪いし、ビアンカは胸の前で腕を組んで仁王立ちして、身長差をものともしない下からナメるような美しいアオリで男性を嘲笑している。やめて、争うなら街中はやめて。
「喧嘩なら買うぜ、売る気があんならな」
「ふん。ポルポはね、あなたなんかに測れる人じゃないのよッ!さっきわたくしのことを過保護で男嫌いだって説明したのもわたくしを庇うため!今だって手を振り払ったりしないわ!いいことッ、次にわたくしの前でポルポについてふざけたことを言ってごらんなさい。その腹に風穴を開け、顔面が二度と人目を見られなくしてやるわッ」
ビアンカの場合冗談じゃないからね。喧嘩の常套句とかじゃないからね。マジでガオンしちゃうからね。人前とか関係ないからね。手を振り払わないのは振り払ったらビアンカが発狂してハグして慰めるまで泣いちゃったりするからだよ。あれっなんかチョコラータとセッコを思い出した。あの記憶は封印したいんだけど、今はもうこの世にいない彼らと自分たちがなんかダブる。つらい。
どう穏便に事をおさめようかと考えていると、ビアンカの挑発を受けた男性が顎をそらした。
「こんな知りもしねえ女のことでテメエにとやかく言われる筋合いはねえよ」
捻り上げるように腕を持たれた。
「アイテテ、痛いですよー」
冗談っぽく抗議してみたら、彼は悪ィなと言って手を離した。目つき悪いけどいい人だ。

ざわり。
ふと空気の動きを感じてビアンカを見て、後悔した。目が死んでる、この子目が死んでる!!目が死んだ時のビアンカはだいたいやばい。いつもやばいけどとくにキレキレ。なんで私の周りにはキレキャラばっかりが集まるんだ。泣きたい。
「ポルポの腕に、筋肉に、神経に、痛みを与えるなんて……ッ……許せない」
未だ名前の知らないぱっくんちょスタンドが現れた。目立ちたくないとか言ってる場合じゃなく、彼が危ない。
私は逆に彼女の腕をつかみ、男性を押しのけて間に割り込んだ。強く、掴んだ腕を引く。
「ビアンカ!!やめな!」
両手でビアンカの輪郭を掴んで私に向けた。深淵を覗いていた瞳が焦点を結ぶ。ビアンカはぼんやりと私を見て、私はビアンカのスタンドを見た。制御が間に合わないかもしれない。攻撃の直線上、男性の腹、そしてその前に立っている私めがけて飛び込んでくるスタンドに、死を感じた。時の狭間を覗き込んだかのように、瞬間瞬間がハッキリ理解できる。
幹部として、上司として、私が死んだらどうなっちまうんだ。ビアンカは、暗殺チームは、まだ揃っていない護衛チームは、どうなっちゃうっていうんだ。
何か言わなくちゃいけない。ビアンカに、彼女の箍が外れて、ネアポリスが死の街になるかもしれない、その前に。
「ビアンカ、スタンドを止めなさい!!」
自分をかばうようにかざした左腕が、スタンドがそれをかじる瞬間、ビアンカがはっきりと私を見た。ぱっくんと行かれる寸前、恐らく考えるよりも先にスタンドを止めた彼女は、ぼたぼたと地面に落ちた血を呆然と見つめた。
「い……いやああああああっ!!」
ビアンカが、気がくるってしまうんじゃないかというくらいに悲鳴をあげた。視線は私の左腕から外れない。痛みがやって来たのはその後だった。大量、でもない。大量と言うなら、サバスたんが作り出す死体の血のりがまさにそれだ。私の血だまりは、それが湖だとすると、小川みたいなものだった。けれど止まらず、傷口をおさえた右手すら血まみれになる。
「ビアンカ、落ち着いて」
「あ、あ、あ、いや、ポルポ、いや、いやよ、わたくし、そんな、わたくし、わた、あ、いやああっ、ポルポ、ポルポ、ポルポ!」
「落ち着けってば」
「わたくし、ああああっ、こんな、こんな、わたくしが、わたくしがポルポを、いや、いやだ、いやあああっ」
「あー……すみません、誰か救急車をお願いします!それと、ご存知の方はコードA5を連絡してください!連絡後は通知してください!」
こんな痛いの初めてだ。怪我をしたのも、たぶん初めてだ。
足を止めた野次馬に叫ぶ。コードA5っていうのはあれよ。ブチャラティに連絡してってことよ。知ってる人は知っている。と言っても、誰が知ってるのかは知らん。通知っていうのは、コードを知ってる人たち同士で、二重に連絡するのを防いでくれってことだ。
あーくそイテエ。イテエとか言ってる場合じゃないくらい痛い。目がちかちかして、頭痛すらする。不自然に口が渇く。軽くガオンされたってことは、腕の一部が持っていかれたのか。何と等価交換だよ。あ、命ですか。安いもんだ。
「おい、お前……なんなんだッ!?大丈夫か!?」
呆然と私を見ていた男性が、我に返ったように私の肩を掴んだ。その拍子に血の滴がぼたぼたこぼれて、お互いにぎょっとする。ごめん。
「あ……すみません、巻き込んでしまって……お怪我はありませんか?」
「俺はない、が、その傷は異常だぜ。血を止めないとヤバいんじゃねえのか」
「そうかもしれません。でも先にこっちです」
座り込んで、真っ青になって、頭を抱えてちいさくなって震えているビアンカを見る。おい、と引き止められた。
「何かはわからんがそいつはヤバイぞ。……お前、その女の何なのかは知らねえが、近寄らない方が――」
「そうはいきません。彼女は私の部下です。この騒ぎをこうなる前に食い止められなかったのは私の責任ですから、最後まで処理しないといけません」
「だが傷だってひどいし、何をするかわかんねえぞ!」
「心配してくれてありがとうございます。でも、私はビアンカの上司として、彼女を見捨てるわけにはいかないんです」
肩を掴む力が緩んだ。私は、近づくと逃げようといやいやと頭を振るビアンカの前にしゃがみ込んだ。救急車はまだ来ない。来ないうちに、やらないといけない。こんなビアンカを見るのは初めてだけど、暴走する彼女を見ていて、いつかこうなるんじゃないかとは思っていた。嫌な予感だったけど。
「ビアンカ」
「い、いや、いや、やだ、やだよ」
「ビアンカ、返事して」
「や、いや、いや、おねがい、いやだ、こんなの、わたくし、いや」
埒が明かない。私は血でぬるつく右手で、申し訳なかったが、ビアンカの左頬を打った。彼女の時間が止まったように、言葉とうつろな瞳が消えた。

「ビアンカ、こっち見なさい」
ざわめく野次馬は、あの男性が恫喝して散らしてくれている。私はざわめきのなかでも、私の声だけしか聞こえていないだろうビアンカに、ビアンカの目を見つめて、呼びかけた。
「私が誰かわかる?」
「あ……ポル、ポ……」
「うん。ここがどこかは?」
「ポルポ、……わたくし……あなたを……あっ……」
また瞳が揺れた。そうじゃないんだ、私の質問にだけ答えてくれ。もう一度揺さぶって問いかけると、ビアンカは場所を答えた。オッケーオッケー。
「今から私の命令をきいてくれる?」
「命令……ポルポがわたくしに……命令?あ……そんなの、はじめてだわ……」
「そうだったかな。まあ、何度目でもいいんだけどね、いいかね、一度しか言わないから、復唱しておくれ」
ビアンカは私の目だけを見てうなずいた。今の彼女の目には、自分の顔が私の血に塗れていることも、私の左腕がアイタタなことも、周りに人が集まっていることも、あの男性が私の背中を守るように立っていることも、何も見えていない。ただ私の赤い瞳だけがうつっているのだ。
「ビアンカは決して動揺しない。なぜなら、それは私を信じているから。言って」
「ビアンカは決して動揺しない。なぜなら、それはポルポを信じているから……」
私の言葉だけがビアンカの脳髄に染みこんでいく。
「そ。続ける。事情の説明はできない。なぜならそれは私がすることだから。言って」
「事情の、……事情の説明はできない。なぜならそれはポルポがすることだから」
「ビアンカは偉いね。ビアンカは決して自分も、他人も傷つけない。それは、私が次に命令するまでの間だ」
「ビアンカは、決して自分も、他人も傷つけない。それは、ポルポが次に命令するまでの、間のこと」
「そう。すべて覚えてくれた?」
ビアンカは夢見るような瞳で答えた。
「おぼえた、覚えたわ、ポルポ」
なら、よし。

私はビアンカの血に濡れてしまった頬をぬぐおうとして失敗した。貧血でも起こったのか、身体に力が入らない。視界が揺らぐ。足音がして、ポルポさん!と強く呼ばれた。そんな呼び方をする人がここにいたっけ。目を向けると、ジェラート屋のおじさんだった。
「ポルポさん、コードA5に連絡をしました。救急車も今来ます。あとを収めるのは我々の仕事です」
「……おじさん、うちの人だったんか。……ジェラート食べらんなくて、……ごめん」
視界がかすんで、音が遠くなって耳鳴りがして、あの男性の顔を見たあと、視界が暗転した。



0.5

ブチャラティたちが病院に駆け付けたのは、ポルポが救急搬送されてから30分後のことだった。コードA5は正確にブチャラティと、病院関係者に伝わった。ポルポが搬送された病院はネアポリスにあるパッショーネ傘下のそれだ。
輸血を必要としている、と看護師の言葉が耳に入って、ブチャラティは彼女を止めた。
「ええ、ポルポさんです。血液型をご存知の方は?」
かちりとボールペンの芯を出した看護師は、ブチャラティたちの表情を見て首を振った。
「彼女の情報はこちらに降りて来てないんです。誰かご存知の方――」
「Aよ」
気配なく、屍かなにかのように力なく現れたビアンカが呟いた。看護師は確かですかと、血まみれで異様な風体の彼女に問いかける。
「確かだわ。わたくしはポルポにきいたもの、あの人の血液型はAよ」
「わかりました。念のため検査をしてから送血します」
慌ただしく駆けていった看護師が治療室の中で何事か話して、Merda!と悪態をついた。聞き取ったフーゴが、わずかに震える声でブチャラティに伝える。別の病院で事故患者の治療を行ったばかりで血のストックがないそうです。
ブチャラティの決断は早かった。それ以外の行動など考えもしなかった。看護師の1人に自分の血液型を伝える。看護師はすばやく検査の手続きを進めた。
「(あ……)」
フーゴが震えているのを、ナランチャは初めて見た。
自分より年下なのにとても頭がよくて、いつも冷静な、時々ちょっとブチ切れる同僚だと思っていた。けれど、今、硬く握りしめられたフーゴの腕は震えていた。冷静を装った瞳は揺らがなかったが、唇がかみしめられて、青くなっていた。
ナランチャはポルポのことをよく知らない。けれど彼女が自分たちにとても良くしてくれて、ブチャラティにそうするように、フーゴにそうするように、入ったばかりでギャングの右も左もわかっていない素人のナランチャを、とても大切にしていることはわかっていた。
ご飯食べに行こうよと、金髪を揺らして細身のパンツルックで彼女が現れるのを、ナランチャはいつも楽しみにしていた。彼女の選ぶリストランテは何を食べてもおいしかったし、彼女の話す笑い話も、フーゴが過剰に反応する判りづらい下ネタも、ナランチャは好きだった。会話をする時の何気ない表情が好きだった。その彼女をうしなうかもしれないなんて、おかしいと思った。自分たちはブチャラティの下で働くのが当然だ。それは決まり切っていることだ。そしてブチャラティの上に立っているひとはひとりしかいない。それはポルポなのだ。
ナランチャは振り返った。廊下の真ん中で、呆然と立ち尽くしている血まみれの女を見た。
「何があったんだよ!その血、ポルポのなのか?おい、テメー答えろよッ」
がくがくとシャツを掴んでゆらしても、女はナランチャを見なかった。顔は一点を向いている。ただ何もかもをすり抜けた先を見るように、瞳の焦点だけがあっていなかった。
話にならない相手に、ナランチャは言葉をつなげられない。そしてその沈黙のために、ナランチャだけが彼女の唇が小さく動いてつむぎだす抑揚のない言葉を聞き取れた。
「なんて言ってんのか、わかんねえッもっとデカい声で喋れよ!」
「ナランチャ、彼女が何か言ってるんですか。少し黙ってください、聞きます」
フーゴが、待合席に女を座らせた。看護師と医師の遠い喧噪以外、廊下はしんと静かになる。
「――はポルポを信じているから。事情の説明はできない。なぜならそれはポルポがすることだから。ビアンカは決して自分も他人も傷つけない。それはポルポが次に命令するまでの間のこと。ビアンカは決して動揺しない。なぜなら、それはポルポを――」
繰り返しだった。三節の呪文を、ただそれだけが救いだと懸命に唱えるように、女は、ビアンカはそれを口にしていた。ナランチャがゾッと自分の腕をさする。こんな無機質な声を、感情の宿らないまじないを、ナランチャは知らない。

ビアンカという部下の話をポルポから聞いていたフーゴは、そしてポルポが彼女に下した命令を聞いていた男は――アバッキオは、ビアンカがそれを唱えることで自分の精神を保っているのだと気づいた。
命令の意味を理解したのは一瞬だけだっただろう。アバッキオが見たのは、救急車に担ぎいれられたポルポと、彼女からうまれた血だまりを見て、ビアンカの表情が死んだ瞬間だった。悲鳴を上げて現実を拒否していた時とは明らかに違う。自分が彼女をこうしたのだと、正気に返った状態で知り、絶望し、そして狂乱するはずだったビアンカを、ポルポの命令がつなぎとめた。ポルポはビアンカが、アバッキオには判らない力でポルポの左腕から肉を、血管をえぐりとったように、攻撃の矛先を他人に向けないように予防線を張ったのだ。
決して動揺しないという枷を嵌めて感情を封じ、事情を説明はできないという轡を嵌めて現状を把握することを封じ、他人を傷つけないよう手枷を嵌めて、そして行き場を失った絶望がビアンカ自身を殺さないように身体を縛った。すべてのキーをポルポというビアンカが絶対の服従を示す自分の名前に閉じ込めて、ただひたすら、他人のために。
「ポルポは……、ビアンカが唱えるポルポの命令を、信じるなら、……彼女は必ず目覚めます」
フーゴは呟いた。自分に言い聞かせるように、聞こえるようにつぶやいた。
「ポルポは、くだらない冗談もいうし、驚かせようとして隠し事もする。けれど、本当の時に嘘はつきません。あの人がビアンカに、'再び命令をする'と言ったなら、……ポルポは、あのバカな人は、ぜったいにもう一度彼女に命令をするんですッ」
フーゴは泣かなかったが、その声はふるえて、喉に引っかかって、大きくひとつしゃくりあげた。誰よりも聡明な少年が、誰よりも幼いのだということを、この時この場にいるビアンカ以外の全員が思い出し、理解した。


ポルポは横たわって動かない。
幾本もの管をつながれ、口と鼻を覆うように酸素マスクがつけられ、血しぶきの飛んだシャツとかけられたシーツが呼吸でわずかに動くのを、ブチャラティは目を凝らして見つめていた。
今、ブチャラティの腕にも針が刺さっている。必要な分の血をゆっくりと抜いて、ポルポの命をつなぐためだった。
ブチャラティはポルポの右側にいたから、彼女の左腕がどうなっているのかはみえなかった。長袖のシャツが肩から切り取られ、止血の処理が行われた左腕だ。
コードA1は地区に異常が起こったことを示す。A2は攻撃を受けていることを示す。A3はスタンドの関わらない、自治の必要な出来事を。A4はスタンドの関わる、自治の必要な出来事を。そしてA5は、スタンドの関わる非常事態を。
スタンド能力を持つ医師が呼ばれた。正確に言うと、医療向けのスタンドが目覚めたために医師として新たに学を積んだ男が呼ばれた。彼は特殊な事情がない限り、その能力をふるわない。今は特殊な事情があった。
ビアンカのスタンド能力は特異だ。空間に作用するそれは、のみこんだすべてをどこか誰も知らない暗黒の空間にとばしてしまう。そのスタンドを見て、生き残っているものは恐らくいないだろう。ポルポは初めての生存者か、そうじゃなかったとしても数人目だ。
「いかんな。抉り飛ばされてる。俺のスタンドじゃあ、これが確実に治る、という事実をつくることしかできないから、かなり時間がかかるぞ」
「治せるのですか?」
医師はちらりとブチャラティを見た。
看護師は退室している。スタンドを使えるものがいなかったためだ。医師が声をあげればすぐに入ってくるが、それまでは待機を命じられている。
「そうだな。治すことはできる。だが、……いつになるやら、俺にはわからん」
かちかちかちかちと早送りを見ているように、ポルポの傷にふれている医師の手の上で浮かんでいるアナログ時計が忙しなくその針を回した。医師のスタンドは、"治った"という事実を、対象の傷口に貼りつけることができる。けれどそれが完璧に定着するのは、この時計の針が刻んだだけの時を過ごしたあとなのだ。それまでは、ポルポは利き腕をつぶされた状態で不自由に生きることになる。
「定着するまで……彼女に痛みは?」
「なくはないだろう。俺のスタンドの能力で傷口はうめられることになるから、包帯なんかを巻くのは問題ないんだが、傷は生のままだからもちろん水に浸せば痛むだろうし、早いうちは動かすのもつらいだろう。こいつの欠点はそこなんだ。通常じゃあありえない傷を治すためのスタンドだから、かさぶたとか、そういうあたりまえの自然治癒がおこなわれない。だんだん内側から傷が埋まっていくのも、もしかしたら痛いかもしれないな……」
時計はまだ動いている。
「けれど、いつかは元通りになるんですね?」
「ああ、それは確実だ。ポルポさんがその時まで耐えてくれることを祈るよ。……痛みで死を選ぼうとする患者も、いなくはないんだ」
ブチャラティは思い出す。死ぬわけにはいかないんだ、と笑ったポルポの表情を。みんな抱えて、いざとなったら――。
彼女のために、もっと力を磨かなくてはいけない。彼女を守って、彼女が笑っていられるように。
時計の針が、かちりと音を立てて止まった。