拍手お礼 ポルポ


最近は会っていなかったので執着が薄れたかと思いきや、そんなことはないらしく。離れがたい、とぐすぐす泣きそうなイタリア美女を放置するのも気が咎める。
「じゃあ、寄ってく?」
大したおもてなしもできないけど、と家の方角を親指で示すと、彼女は大輪の花が開くように、天から祝福の羽根が舞い落ちるように、漆黒の世界から魔が取り払われたように、嬉しそうな笑顔を浮かべて感涙した。どっちにしても泣くのか。往来で美女を泣かせる私ったら、まあ、いけないひと!
ビアンカは私の腕に自分の腕を絡め、頬をこすりつけんばかりにすり寄りながら道を歩く。歩きづらくないのかな。私は歩きづらい。
彼女が嗜みとしてつけるオードトワレのほのかな香りが私をくすぐった。仕事のデキる大人の女である彼女にぴったりだ。彼女の本質っぽいトコロを知る私には、排他的で艶美な印象も与えた。彼女に抱き上げられ暗黒空間に飲み込まれる寸前の死体が最後に感じ、嗅覚に焼き付くのがこの香りなのだろう。この至近距離だとガオンされても逃げきれない。殺さないでねと恒例の台詞を言っておくと、殺さないわ、わたくしはあなたを愛しているもの、と何ひとつ安心できない答えが返る。君が愛しているのは基本的には死体なのではないかな。
辿り着いた家のドアに鍵を差し込む。招き入れると、ビアンカは何もしていないのに妖艶に喘いだ。帰りたくなったがここが家だった。安息の地と和睦の道はないのだろうか。
買ったばかりの紅茶を出し、ちょっと待っててと二階へ行く。リゾットの部屋に顔を出してただいまーと帰宅を報せる。ビアンカが来てるから下にいるね。リゾットは淡々と頷いた。誰が来ていても無感動に了解しそうだ。誰だったらびっくりしてくれるかな。知り合いが少ないから名前を思い浮かべられない。びっくりするリゾット、ちょう見たい。
リビングに戻って、テーブルを挟み、ビアンカと向かい合う。美女は鋭利な目つきで二階を睨みつけた。
「あのモノクロの雄猫ね」
わかりやすくて良い表現だ。
「他の子たちのことはどう呼ぶの?」
ビアンカは私が提供した紅茶が涸渇した井戸から汲み上げられた最後の一杯であるかのように切なく見つめる。飲めば夢が終わってしまうと言いたげだ。おかわりあるから大丈夫だよ。ティーコジーを持ち上げてポットを見せると、美女はカップにそっと唇をつけた。ひと口飲むだけなのに目が潤んでいる。私は彼女の先行きが不安で仕方ない。悪化してない?中毒症状ってやつは原因から離れることで一時は治まっても再び近づけば空白を埋めるようにより激しく求めてしまうものだって聞くけど、これもそうなの?私にはどうにもできないから病院を呼びたい。
喉を潤し、ビアンカは長いまつげを伏せ、陶器のようになめらかな頬に影を落とした。高尚なレチタティーヴォに聞きほれる。ネアポリスで埋もれているのは世界の損失なのではと思わせるイタリア屈指の美声が、暗殺チームを美しく罵倒する。8つ並んだ毒々しい呼び名に感動し、拍手代わりのお砂糖を勧めると、ビアンカは喜んでスプーン3杯の上白糖を紅茶にとかした。言えば飽和するほど入れそうだ。余計なこと言っちゃってごめんよ。

上階からリゾットがやって来て、私とビアンカを見た。礼に則って挨拶をしたリゾットに、ビアンカはつんとした態度で応える。顔をそむける仕草と流れる髪の流れが芸術的だ。メローネが拗ねた時の顔に雰囲気が似てるな、と思ったけど言わなかった。彼と彼女は犬猿の仲である。
「リゾットも飲む?紅茶、まだあったかいよ」
「いや、大丈夫だ。カフェラテを淹れに来た」
「ラテなんて珍しいね」
「たまには、そういう気分になることもある」
「ミルクに溺れてしまえばいいのよ、猫らしく」
綺麗な毒が吐き出されたが、リゾットは目もくれなかった。顔を合わせて一方的に罵倒されたことがあるらしいので、うんざりなのだろう。
「ポルポが選んだ人間だから、否定はしないけれど」
小学生並の感想しか言えないけど、かなり否定してると思った。
「あなたよりもわたくしのほうがポルポを愛しているわ」
ビアンカの刺々しい声が彼の背中にぶつけられて、ようやく、彼はこちらを振り返った。
「誰が何を思おうが、それは個人の自由だ」
「逃げるの?」
細い喉が挑発的にそらされる。我らがリーダーは美女に勝負を持ち掛けられても冷静だった。
「お前と、決着のつかない議論をする必要があるとは思えない」
「若造の分際で生意気を言うのね」
そうだった、ビアンカにしてみりゃあリゾットは年下。目から鱗が落ちたわ。リゾットを若造呼ばわりする人物が身近に居たとは。もう一回言ってくれないかな。ていうか決着のつかない議論って何かな。リゾット今めっちゃデレた?ヤバくない?こっちももっかい言ってくれないかな。
しかしリゾットは、それ以上は何も言わずキッチンに消えた。
ビアンカは一転し、「ねえポルポ」と悩ましげに眉根を寄せる。
「今度はわたくしの家に来て?邪魔ものは誰もいないわ」
ドアが閉まった瞬間に食われそうだから嫌だったけど、彼女の私生活への興味はあったので、そのうち行くねとフラッフラな約束をした。もし行くことがあったら、カップは持参しよう。彼女の家のものを使ったら、なんか怖いことになりそうだ。