拍手お礼 ポルポ


他の人たちからすると、私が……私たちがその言葉をためらう意味がわからないかもしれない。何も考えず「好きだよ」だの「愛してるよ」だの「かわいいよ」だのと飽きもせず繰り返す私や、「あんたのためなら死んでもいいよ」とジョークなのかガチなのかわからない爆弾を投下して戦慄を走らせるメローネでさえ、言いよどむであろう貴重な言葉。
Ti amoとは、少なくともイタリアでそう育てられた私にとって、言えば何か大きなものが転がり落ちてしまうほど大切なものだった。これ、私だけなのかな。他の人に訊いてみたことがないからわからないんだけど、みんなそうだと思いたい。ただ、私が特別な環境で育てられたわけではないはずなので、きっと私の両親やそのまた親にとっては真綿にくるみたいほどのものだったのだろう。
私はまだ誰にもそれを言ったことがない。
驚くなかれ。この私にも躊躇と羞恥という感情は存在するのである。口にしようとしてもどうしても、ぐっ……静まれ……静まれ俺の左腕……と言いたくなるもんどりうちたい衝動がわきあがって叶わない。言う相手も居ないし、それならそれでいいやと26年間生きてきたのだが。
まあ、その、言いたい人ができてしまったので、こうして悶々と頭を抱えているんだわ。
一度は眠ったものの、どうにも眼が冴えて深夜に目覚めてしまった。携帯電話を光らせて時間を確認すると今は深夜未明。まだ誰も起き上がらず、草木すら眠るしんとした夜だ。
携帯電話の明かりを消す。
ふう、とため息をついて身体を起こした。リゾットはすやすやと目を閉じ、落ち着いた呼吸を繰り返す。寝てるみたいだった。
暗闇に目が慣れたところで、その顔を見下ろした。胸の上にそっと投げ出された片手に触れたくなったけど、絶対に起こしてしまうのでやめる。何かあったかと心配されたら居たたまれない。ちょっと触りたくなっちゃって、ってどこの痴漢の台詞だよ。お縄について刑務所に入るのはちょっと嫌だ。
自分の瞳が揺れているのがなんとなくわかる。心臓がどきどきし始める。
今なら、誰も見ていない。誰も耳を澄ませていない。私たち以外、気配もない。あっいや、あったら怖いしできれば感じないままでいたいんだけど。
うううと呻きたい。こんなことをこっそり告げようとするのは卑怯だし、満足を求めるどころか、"伝えたい"という意思にも満たない気持ちから舌にのせるのは失礼だ。わかってはいる。わかっては、いる。
「……Ti……」
呟いた勢いにのせて、リゾットの顔の横に手をつく。しっかりしたつくりのベッドはまったく軋まない。
「Ti a……、……あ、……あー……、ああああー……あ……あー……」
最後の方はもうただのため息だった。だめだ。言えない。言うに値しないのではなく、まったく関係ない私の照れにより口が回らなかった。ダメだわ。人生で初めてこれを言おうとしたんだからそりゃ緊張するってもんよ。相手が寝ててまじでよかった。素面で顔突き合わせてたら絶対死んでた。殺して!!ってなってた。危ない危ない。くっ殺せ、私はどんなことをされても吐かんぞ。心の中の女騎士が悔しそうに言った。
抜け出していた毛布の中にもぞもぞもぐりこんで、ほんのちょっとの間にびっくりするくらい熱くなった頬に手をくっつけた。やべえ手汗かいてる。どんだけテンパってんだ。
ふてくされるようにリゾットに背を向けて目を閉じる。心臓は早鐘を打ちっぱなしだ。生まれてから死ぬまで一度も言えないかもしれないな、これ。 どこかで平穏に暮らす私の両親へ。教育の甲斐あって、娘はたったひと言の愛の言葉に振り回されています。イタリア人の言葉の感覚やべえなマジで。もおおお、さっさと寝て忘れよう。今のナシ。なかった。私は何も言ってないし挑戦もしてない。よし。
早く眠れますように。

そう時間もかからないうちに、緊張がとけて安心したのか、私は自然と目を閉じた。
だから私が眠りに落ちたあと、入れ替わるように起き上がったリゾットが私の耳に唇を触れさせ、それから、そっとあることを呟いたのを、最高に不幸なことに聞き逃してしまった。

ただ、その夜、私はとても幸せな夢を見た。