27 彼と彼女の大団円


病院のベッドに縛りつけられた花京院くんは、長めの前髪をくたりと萎れさせ、昏々と眠っていた。全治には時間がかかるらしい。吸血鬼のひと蹴りを受けて回復の余地があるのだから、彼の生命力と精神力には感服するばかり。本当に良かったよお。
まさかの味方から攻撃を受けて安全の為クライマックス直前で戦線離脱させられたアヴドゥルさんもまた、旅の疲労が怪我に影響したのか、ポルナレフと私たちが病室に入ってもまったく気づかず目を閉じていた。
これからどうする?
そう、ジョースターさんに訊ねられたポルナレフは苦笑を浮かべた。
「フランスに帰ろうと思います」
ポルナレフは『目的』を達成した。『後悔』に打ち勝った。だから近いうちに私たちは元の時間に戻れる。
私たちを害し、この時代まで飛ばしたスタンド使いについては、ポルナレフの存在をまるっと抜いた大雑把な説明をそれらしく組み立て、ジョースターさんに伝えてある。本当は私を拾ってくれたアヴドゥルさんにも直接話をしたかったんだけど、彼はポルナレフや私がお見舞いに行った時は必ず目を閉じていたので諦める。怪我人を無理に起こす必要はない。寝ている間に被保護者が消えちゃうってのも不義理すぎて申し訳ないんだけど。
どのタイミングで帰れるのかがわからないため、私たちはSPW財団が管理する飛行機に搭乗し、ポルナレフにくっついてフランスに向かうと決めた。私たち3人は一緒にいないと都合が悪くないかなと思ったからだ。お互いの情報をすぐにやりとりできる距離にいたほうがいい。
起きている人の中で唯一事情を知るジョースターさんは頷いて、3枚のチケットを用意してくれた。渡された紙は薄いが、重たい。あ、これは心情的な意味で、実際はとっても軽いんだよ。ただ飛行機の旅にトラウマを抱きかけているので、仕方がないとはいえ気が進まないだけで。ふ、船の旅とかじゃダメですか。あっそうだ船もダメなんだった。乗れるは乗れるけどまざまざと記憶が蘇るよね。くっそーDIO恨む。
見送りはジョースターさんだけかなと思っていたら、少し遅れて承太郎くんも待合スペースに現れたのでびっくりしてしまう。よほどアホな顔をしていたのかぷいと顔を逸らされてしまったが感動はノンストップ止まらない。見送ってくれるんだ。マジか。孤高の大型動物みたいな感じの承太郎くんが。ありがとうありがとうと思い切りくっついたらうっとうしいって言ってもらえて更に嬉しかった。承太郎くんにうっとうしいって言われたい同盟に参加しているもんだから。
飛行機の搭乗予定時間がやってきて、待合スペースから抜け出し、開けたところまで並んで歩く。長旅に出る3人の誰もトランクケースとかの大きな荷物を持っていないっていうのが面白いよね。何しに行くんだよ感。ていうか何してきたんだよ感。旅の間に使ったものは全部処分したから超絶に身軽だ。
「それじゃあ」
「気をつけるんじゃぞ。……それから、わしらのことを忘れるんじゃあないぞ?」
「忘れようと思ったって忘れられませんよ」
笑ったポルナレフの言葉は"知っている"方からするとロードローラーよりも重い。
握手を求められ、手を伸ばす。承太郎くんは握手しようとしなかったけど、ポケットに突っ込まれた手を無理やり引っ張って記念の握手をさせてもらう。ごめんね、こんな機会、もう二度とないからさ。高校生承太郎くんと握手とかもう、私夜道で闇討ちされても文句言えないんじゃないかな。それでもやらねばならない。ロマンだ。
なんと。そのまま片手を持て余した承太郎くんは、リゾットの前まで歩いて行って右手を差し出した。思わずポルナレフと顔を見合わせて内心でハイタッチをしてしまう。リゾットは無感動に手を握り、「世話になったな」と言って離した。
ジョジョ2人との別れを済ませ、ひらりと手を振る。振り返してくれたのを確認してから前を向き、3人とも、誰も振り返らずに改札をくぐった。グッバイ、3部。

飛行機の旅はとても快適だった。SPW財団クオリティはもの凄く、機内食はおいしいし椅子はふかふかだし飛行機は揺れないしとぐうたらするのに最適だ。雲の上から下界を覗くと、何度も味わった感動がこみ上げる。飛行機って謎のワクワクがあるよね。
ビーフオアチキンでチキンを選び、ビーフを選んだポルナレフから一切れのステーキを分けてもらう。食べ終わるとすぐに眠くなるのは気圧の関係であって、決して私が単純な仕組みでできているからではないのだ。ないったら。
座り心地は良いけれど寝床としては今ひとつな座席に頭をこすりつけ、ぐう、と目を閉じる。
そうしてから一刻、二刻ほど過ぎただろうか。
突如、機体が大きく揺れた。
乱気流にでも飛び込んでしまったのか、と顔を上げたのは今まで静かに眠ったり映画を見たりしていた乗客ほぼ全員で、スチュワーデスのお姉さんに事情説明を求める声が飛ぶ。スチュワーデスさんも事態が呑み込めていないようだったが、そこはプロ根性でなんとか私たちを宥めると、すぐに先頭の運転部に状況を問い合わせた。
すぐ、副機長の声が響く。焦りが滲む声だった。スタンド使いが乗ってやいないだろうなと警戒したのは私たち3人と、そして"不可思議な力"の存在を知らされていた機長だけだっただろう。
結果だけ言うのなら、怪しいスタンド使いはいなかった。
しかしスタンド使いが居なくてもエンジンにトラブルは起こるものである。乱れた大気の渦に巻き込まれたうえにエンジンが不調に陥り、燃料までじわじわと雲に吸い取られ始めたとなっては飛行は困難。パニックに陥った乗客の声と、急な動きに反応してばらばらと落ちてきた非常用のマスクの動きを追いながら、乗り物酔いとあまりの不運さに死にかける。飛行機が嫌いになったらどうしようね。
上下左右に振られる機体は不時着水を試みる。ここに眼鏡の探偵がいたら生存フラグが立つんだが、ここには眼鏡をかけていないフランス人と眼鏡を指先ひとつで叩き割れそうなイタリア人と伊達眼鏡の中学生テニスプレイヤーの美声が聞きたいなあと現実逃避するイタリア人しかいないのでどうにもこうにも。どれが誰かは説明するまでもないね。
一気に高度が下がる。重力を感じ、ポルナレフとリゾットが励ますように、安心させるように私の手を握った。握り返そうとした瞬間、右側の、ポルナレフの手がするりとほどけて消えてしまう。えっ、とそちらを向くよりも早く、私たちは気圧を切り裂く音から抜け出した。
「……は?」
シートベルトをつけて椅子に固定されていたはずの身体は今、外気にさらされている。つい今まで座る姿勢だったから、足で立っていることに違和感がアリアリだ。左手はリゾットと繋がれたまま。混乱のさなか、それだけが頼りだった。
私たちは立ち尽くす。見覚えがあり、忘れもしない道の真ん中で。
ネアポリスの大通りから一本外れた通りをちょっと曲がってもいっちょ曲がってちょいっと進むと我が家がある。その、"もいっちょ曲がって"の辺りだった。いつもと同じように人けがなく、木々が風に吹かれて静かに音をたてる。
ここはイタリアだ。
じわじわと認識し、思い切りリゾットの手を握りしめる。
「帰ってきた!?」
「……ああ、そうみたいだな」
腕時計を確認したリゾットに倣い右手を持ち上げる。腕時計は、過去に飛んだ瞬間とはまったく違う時を示す。この狂いが、私たちの体験した不可思議で危険極まる50日の証拠だった。
ねじを巻くのは後にして、どちらへ行こうか、考える。
スタンド使いの攻撃をポルナレフが受け、私たちに余波があったことをみんなは知っているだろうか。ジョルノは喋ったと言っていたっけ?んー、や、言っていなかった気がする。私たちが50日と思っていたものは実はこちらでの3時間程度だというから、あの電話後の数日を足してすんごく多く見積もってもせいぜいが4時間の空白。4時間くらいなら、ポルナレフと会ったあとの私とリゾットが街を歩いてちょっとデートをしていた、という話で誤魔化せるだろう。よし、後回しにしよう。
体感的には50日前に通った道を引き返す。不思議と、前後の流れをよく憶えていた。まるでこれはただの日常の流れの中で、あの50日こそが夢だったような。けれど決して夢ではないと知っている。おかしな感覚だ。
リゾットの手を引くと、彼は説明もしていないのに理解した顔で私の隣にきてくれた。以心伝心ってやつだ。たぶんね。

ポルナレフとはすぐに連絡がついた。ジョルノに帰還を教えると、すぐに彼を呼び出してくれたのだ。ポルナレフがやってくるまで、私たちは馴染み深い若々しい笑顔からこの4時間のちょっとしたてんやわんや具合を教わった。紙を捲る時間も惜しんで喋る手間も省いて、私たちの捜索と調査に当たってくれていたらしい。本当にありがとう、と言うと、いいんですよと少年が言った。
「でも、貸しにしておきましょう」
「うん」
改めて再会のハグをして、さあリゾット、とジョルノが腕を広げたところでドアが叩かれた。
ポルナレフは、車椅子に乗って入室した。
その姿に何も言えなくなる。そうか、と奇妙な感覚に襲われ、納得した。そうだ。ポルナレフは変わらないのだ。
私が何を感じたか、彼には手に取るようにわかったらしい。大人の顔で大人の笑いを漏らし、彼はジョルノから私たちを引き取って別室へ誘った。車椅子を動かす手つきにぎこちなさはまったくない。それを見て、彼もこの時代での記憶が鮮やかなのだと知る。あれだけの濃密な旅を終えたのに、トリップする前の記憶はまったく掠れない。ポルナレフを意図せず襲ってしまったスタンドは、そういう小回りが利く能力を持つのだろう。
ポルナレフはまず、私たちの無事を喜んだ。
「驚いたよ。飛行機に乗っていたと思ったら……これだ」
自分の身体を見下ろして言う。そりゃ驚くでしょうよ。私も驚いたわよ。リゾットもびっくりしてたからね。パッと見たら目をぱちくりさせたからね。あの姿は一生忘れないよ。
「……本当はあまりこういうことはしないほうがいいんだろう。だが、……いや、私はこうしたいんだ」
きい、と車輪を軋ませ、ポルナレフが電話に向かう。受話器を持ち上げ、どこか知らない番号を押した。彼が受話音量を大きくしたので耳を澄ますと、通話先はSPW財団だった。『承太郎』と『ジョセフ・ジョースター』の名前を出し、問い合わせをする。保留のメロディが流れ、私たちは目も合わせず、何も言えないまま待っていた。手持無沙汰な男の指先が焦るように、苛立つように膝を小刻みにたたく。
電話が取られた。低い声がした。
低い声は感情を押し殺すように唸って、記憶の中の彼からは信じられないくらい音を震わせた。
「おまえなのか。……きみなのか。……そうなんだな、ポルナレフ」
私はポルナレフが泣いてしまうかと思って急いでバッグからハンカチを取り出そうとしたのだけど、残念ながら肌身離さず持ち歩いていたバッグの中身はすべてぼろぼろで、元々持ってたハンカチなんてもう、何?なんていうか、ただの布?みたいなね?そうだ新しいハンカチを買ったんだったと思い出してポケットを探ると、薄くて可愛いハンカチが見つかった。
けれどポルナレフは泣かなかった。
「……元気か、アヴドゥル?」
そんなことを訊いて、電話線の向こう側のアヴドゥルさんを激昂させた。
「10年だぞ、ポルナレフ。10年間まったく音沙汰なしだ!わたしはお前が死んだと思って……、ポルポはどうしたんだ?リゾットは?」
「ああ、今、ここにいる」
「無事なんだな」
「ああ、無事だよ。アヴドゥル。なあ、元気だったか。あの時の怪我はどうした。私が攻撃したから、随分切り傷があったじゃないか」
「あんなもの、もう痕も残らない。むしろ、残ってくれればと願ったぞ」
私たちは、彼らの中では『行方不明』だったらしい。聞こえてくるアヴドゥルさんの声は、感動を乗り越えて次第に湧いてきた怒りを押し殺したように震えながらポルナレフに文句をぶつけた。文句の端々から、彼らの中での"私たちの最後"が読み取れる。ポルナレフが驚いて額に手をやった。
私たちが乗っていたフランス行きの飛行機は、ほぼ墜落と言っていい状態で海面に不時着した。乗客は一部が軽傷を負ったが、概ね無事だった。
しかし救難ボートに乗り込む際、混乱の中で何人かが海へ転落。救助はされたものの、搭乗員とともに人数を確認してみると、なんと3人もの姿が足りなかった。イエスウィーアー。
当然、夜を徹しての捜索活動が行われた。数日続いたそれらは、遺体すら上がらないまま終息する。上がるはずがない。
彼の中で私たち3人はあの飛行機で行方不明になり、死んでいた。ちょっと面倒になったのか、ポルナレフは私たちにも口裏を合わせろよという意味を込めてハキハキと嘘を吐いた。
「私は近くの陸地に打ち上げられたんだ。幸運なことにな」
「本当に出来過ぎた幸運だな」
「そう言わず、無事を喜んでくれると嬉しいんだが」
ポルナレフの頭には『つじつま合わせ』の記憶が、たった今、宿った。嘘は現実となり、不自然だった歴史に1ページが書き加えられる。そう、10年前の"ポルナレフ"はフランスに帰ろうとして事故に遭い、海に転落し流された。海辺の村に打ち上げられ、そこで治療を受けたうえでヒッチハイクなどを繰り返して諸国をめぐり、最後に祖国フランスの土を踏んだ。それからイタリアへ向かったりなんだりらじばんだりと忙しなくなるのだけど、まあとにもかくにも"行方不明"の経緯はこういうことである。
どこでふたつの時代がリンクしたのかはもうわからないし、もしも確かめたいのなら、もう一度あの人騒がせなスタンド使いを引っ張って来なくちゃいけない。ポルナレフは自分の記憶に起こったつじつま合わせに戸惑ったが、声色に変化はなかった。ジョースターさんたちに連絡をとらなかった理由を追求され、彼はしらっと「すぐに危険な事件に巻き込まれたからな。迷惑をかけたくなかったんだ」と曖昧なことを言った。嘘じゃあないんだけど本当でもない。
アヴドゥルさんはふっと、緊張の糸が切れたように笑った。
「まったく。10年も、何も言わず。友達甲斐のないやつだ、お前は」
「そうだな……」
「花京院も心配していたんだぞ。彼なんか病院でそのニュースを見て、自分が死にそうな顔をしていた」
「そうか、花京院も。……そうだったろうな。ああ、そうだろうとも。そうに違いない」
ポルナレフはぐっと喉を詰まらせる。
「……具合が悪いんじゃあないだろうな、ポルナレフ?」
彼を心配したアヴドゥルさんに、深く深呼吸をして答えた。すまない、少し寝不足で寝ぼけているのかもしれない、色々なことがありすぎて頭がぼうっとして、と言った。
「……ポルポもリゾットも寂しがっているよ。……最近その、……会っていない……だろう?……だから……」
「……ポルナレフ……」
アヴドゥルさんが深く深く、さっきのポルナレフよりも深く、マリアナ海溝よりも深く息を吸い込んだ。そのまま海底火山が爆発する。
「"最近"というレベルでおさまる話か!?何年だと思っているんだ、ポルナレフ!10年は経っているんだぞ!!お前もわたしも承太郎も、花京院も、ジョースターさんも!どれだけお前を……、君たちを……」
男泣きしちゃうんじゃないかとはらはらしてたしちょっと期待もあったのだけど、やっぱり彼は泣きはしない。男のひとって、そういうものなのかな。リゾットを見上げる。うん、泣かなそう。
ポルナレフは泣きかけみたいな顔で笑って、きつく受話器を握りしめていた。片手で顔を覆い、私たちに表情を見せまいとする。大人なので、こちらも見なかったふりをした。
「それじゃあ、また。近いうちに会おう、……アヴドゥル」
アヴドゥルさんが何かを言う前にポルナレフは受話器を置いた。部屋が一気に静かになる。ポルナレフの手は受話器を握りしめたままだ。離しがたいと言わんばかりに。
俯いたまま、ポルナレフは笑った。背を丸め、私たちの存在など忘れたように笑い始めた。
あんまりにも嬉しそうに笑うので、私までうるっときてしまう。や、やめてよ、動物ものの映画とポルナレフ関係の話は問答無用で泣いちゃうからやめてよ。眦を指でこすると、リゾットがつん、と指でつついて手の中のハンカチの存在を思い出させてくれた。そうだった、このハンカチを今使わずにいつ使うって感じよね。じゃ、いつ拭くか?今だよ。
ポルナレフの笑い声がか細くなって絨毯に吸い込まれる。彼はそのまま堪え切れない嗚咽をひとつ漏らした。
リゾットと示し合わせ、私は黙って部屋を出た。

イギーのことだけが心残りだ。後悔はないと言っても、彼はずっと抱えていくのだろう。目の前で二度失ってしまったあの孤高の犬のことを。
帰宅すると、何事もなかったかのように日常が取り戻された。夜に暗チの彼らが訪ねてきて酒盛りをしたが、「随分長いデートだったな」と言われ肩を叩かれただけで何も言われない。元通り、生活の波に乗る。白昼夢でも見ていたのかもしれないなと思ってしまうほど落ち着き払った日々が流れる。
アヴドゥルさんや花京院くんたちと会う約束がなければ。リゾットが一緒でなければ。ポルナレフがそわそわしていなければ。ジョルノが何度も私たちの無事を喜んでくれなければ。私ひとりだったら、こんなに引きずったりはしなかっただろう。
ちょっと待とう。それって私めちゃんこ薄情じゃね?やっぱりちょっとは引きずったかも。たぶん私だけがあの時代に行っていたら、誰の命も留められなかったし。嫌な気持ちが尾を引いたに違いない。
そんなことを考えながらビアンカとの待ち合わせ場所に向かう。イタリアは今日も元気だ。私は街を歩いていてもナンパはされないが、そのような場面を何度か見かけた。外国人観光客があたふたするのを心底から可愛いと思うようにニコニコするイタリア人男子。もっと焦ってあわあわと言葉を紡ぐアジア系の女子。うーん可愛い。
ビアンカは懐かしい小部屋で待っている。合鍵で中に入り、おはよーと言ったところでタックルを食らった。これが殺人鬼だったら私死んでたな。私に飛びつくビアンカは風のようだった。
「ポルポッ!あなたに知らせたいことがあったの。だから呼び出してしまったのだけど、ごめんなさい、本当ならポルポを煩わせるなんて絶対にしないのに」
「煩ってないから気にしなくていいよ。で、どうしたの。おやつでも食べながら話そうか」
「ポルポ……」
なぜか恍惚としたビアンカをテーブルまでエスコート。キッチンも何もないワンルームなのでお茶は持ち込みだ。ボトルで買って持参したそれを、同じく持参したプラスチックカップに注いで置く。おやつとして買ったのは行きつけのお店の新作ゼリーだ。中にチェリーが閉じ込められたぷるぷるのそれを差し出せば、ビアンカはその器に恭しくキスをした。
「ポルポから貰ったものはなんだって愛おしいの。死体以外にこんな気持ちを抱くなんて……」
君が幸せならそれが何よりだよ。もう突っ込まないぞ。
透明に近いゼリーを眺めたり食べたりお茶を飲んだりするうちにビアンカは落ち着いたのか、それで、と本題に取り掛かった。
「わたくし、近ごろとっても体が疼くの」
「それ私に報告することかな?」
「ええ」
ド真剣に首肯する美女をどうしてくれようか。
しかし詳しく聞くと、単純にムラムラしているだけではなさそうだった。年がら年中私の前で発情してくれている(もう何が何だかわからない)ビアンカだったが、今回は種類が違う。心がピョンピョンならぬ、精神がむずむずするようなのだ。原因がスタンドにあるのではないかと推理したようなのだが、自分ひとりで確かめるのは心細い。だから自分がもっとも信頼する私に助けを求めたと。私、見てるだけしかできないけどいいのかな。いいんだろうなあ。
これがビアンカの超直感的な何かだったらどうしようか。新しい能力に目覚めた彼女を祝うにはさっき食べたゼリーだけじゃ足りなさそうだ。体当たりハグをするだけで充分な気がするけど、それはちょっと気がおさまらない。せっかくのめでたいことなのだから。
色々と考えてはみたものの、吉事であるとは限らない。悪い何かだったらこれまたどうしたものかな。いつでも助けを呼べるように合鍵を待機させておこう。いざとなったら逃げる。あるいはこの、私が座っている丈夫そうな椅子でビアンカを殴って気絶させる。これはあまりにも荒っぽすぎるので最終手段だ。スタンガン持っとけば良かった。
でもまあ、ビアンカだし。私にかけらでも害がありそうだったらこんな助けは求めて来ないだろう。理屈じゃない。ビアンカならそうする。なぜなら彼女はビアンカだから。もうこれだけですべての説明がつくと思う。
脚を組んで、はいどうぞ、と促す。ビアンカは目を閉じてスタンドを呼び出した。不吉な影が空気をゆがませ、どこからか風切り音がする。
呑み込まれればどこかへ消えてしまう。どこへ行くのかわからない闇を見つめると、その奥にきらりと光る瞳のようなものがあった。瞬きして目をこする。視界を閉ざしたビアンカは気づいていないようだった。光はまるで猛スピードで走るかのようにこちらへ近づき、ハードルを越えるがごとく跳躍したのち、暗黒を振り切って私の胸元に飛び込んだ。
唖然とした私に爪を立てバランスを取った彼は、私の胸を蹴って床に降りた。
犬だった。
「……ビアンカ」
呆けた声に驚いたのだろう。反射的にスタンドを消したビアンカは、私と、私の足元で後ろ足を使って耳の裏を掻く犬を交互に見つめて不安そうにする。ポルポ?囁くような訝りは聞こえていたけど、ただ耳を素通りする。
私は驚愕にわななく唇で、ひとつの名前を呟いた。
「イ、イギー」
犬が理性ある瞳で私をちらりと見る。犬の見分けもつかねえのか。こう言われた気がして、手が自然とバッグに伸びる。留め金を外し、携帯電話を握りしめた。アドレス帳のPの欄に辿り着く。間違えてパッショーネ本部にかけたら大笑いだなと思いながら、あの人の番号を選んだ。
これほどまでに"早く出ろ"と念じたことはなかった気がする。
仕事用ではなくてプライベート用の番号にかけたのがよかったのか、ポルナレフは心なしか砕けた口調で「Pronto.」と言った。あの旅を経たおかげで私たちはかなりすごくベリーマッチ仲良くなったのだよ。
そんなこたぁ今はどうだっていい。聞いてくれワトソン君。いや、ポルナレフ。
「ちょっとおかしなことを言うけど。……イギーが私の足元で寝てる」
「……は?」
素にしか思えない声が聞こえた後、電話が切れちゃったんじゃないかってくらい静かになった。
30秒ほどそれが続いて、突然バサバサバサッとファイルが何枚も落ちたような騒がしい音が聞こえる。
「嘘だろうポルポ」
「いやマジだぜ」
「……ッ」
ポルナレフが叫んだ。イギーやビアンカに聞こえるくらい大きな声で。
「……そいつを捕まえておいてくれ!!」
理解できただろうに、イギーは動かずここに居た。頭を撫でると振り払われるものの、逃げも隠れもせず、堂々と、ふてぶてしく前足に顎をのせて息を吐く。
ポルナレフは30分もすればここまで来られる。緊張がとけて一気に喉がカラカラになったが、すっかりぬるくなったお茶で潤す気にもなれず電話を置いた。
おろおろするビアンカを呼び寄せ、座りながらその頭を抱いた。もう、なんて一日だろう。おやつの味なんてすっかり忘れてしまった。おいしかったのに、吹っ飛んじゃったじゃん。
「ビアンカ、お前は凄いことをした。そうでなくても好きだけど、今日はあえてこう言うね。……大好きだよ、ビアンカ」
ぴたりと固まったビアンカは、10秒くらいそのまま動かなかった。じわじわと言葉を理解したのか、肩が震える。
意味がわからないだろうに、素直な彼女はイタリア屈指の美声をあげて泣き始めた。
オフィスカジュアルちっくな服の胸元が豪快に濡れてきたけど、私はそのまま彼女を抱きしめ続ける。
バカなやつらだぜと言いたげなイギーのため息が聞こえて、腕の力を強くした。