26 Pronto?


壁をぶち壊すとそこはシリアスでした。
ぞくりと肌が粟立つ感覚。仄暗い階段は私たちが壁を破ったことで視界が開ける。そこに誰がいるのか、見たくなくても目に飛び込んだ。アヴドゥルさんと、ポルナレフ。階段の上にDIO。
イギーの姿はなかった。
ジョースターさんが奥歯を食いしばる。星のしるしに刻み込まれた因縁がうねりを上げて場を取り巻いた。
「DIO……」
「ジョセフ・ジョースター。それに、承太郎。リゾットに……」
私のことはちらりと見てスルー。なんでよ。私悪いことしてないよ。悪いことしてないからダメだったのかな。
「人間は何のために生きるのか、考えたことがあるかね?」
「ないです」
「ポルポ、ハキハキと答えるんじゃあない」
「ごめんなさい」
ちょっとDIOに構ってもらいたかったんだよね。でも茶々を入れてもまったく気に掛けてもらえないからもう黙ろう。
私の無駄口で緊張がとけたらしいアヴドゥルさんは、やれやれと首を振ってからDIOを睨みつけた。
DIOは意に介さない。
「人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得る為に生きる。名声を手に入れたり、人を支配したり、金もうけをするのも安心する為だ。結婚したり友人をつくったりするのも安心する為だ。人の為に役立つだとか愛と平和の為にだとか、すべて自分を安心させる為だ。安心を求めることこそ人間の目的だ」
「そこで?」
「ポルポ、もうやめてくれ……」
ごめんなさい。
「彼女の言う通り。……そこで、だ。わたしに仕えることになんの不安があるのだ?わたしに仕えるだけで他のすべての安心が簡単に手に入るぞ。今のお前たちのように死を覚悟してまでわたしに挑戦することの方が不安ではないか?お前たちは優れたスタンド使いだ……殺すのは惜しい。ジョースターたちの仲間をやめてわたしに永遠に仕えないか?永遠の安心感を与えてやろう」
そしてなんと、30分以内に電話をして"DIOの部下になる"と宣言すれば今ならもれなく永遠の安心感がついてくる!頭の中で雑念が暴発して死ぬかと思った。テレフォンショッキングもアリだな。明日来てくれるDIO。やばい死んじゃう。私死んじゃう。笑い殺される。怖くてテンションがハイになってるのかリアルに自分が不謹慎の塊なのかがちょっとわからなくてつらいんだけど死にそう。ごほんごほんと笑いを咳に変えて誤魔化した。
「女。お前のことも歓迎しよう」
「マジかよ……」
「フ……」
意味深に吐息だけで笑っても誤魔化されたりなんかしないんだからね。リゾットがいるからでしょ。まったくもう、これだから大人ってやつは汚いんだ。欲しいなら欲しいとリゾットに直接おっしゃい。
そんな思考を読んだか、DIOは階段の上からリゾットに語り掛ける。
「あの時は急なことで肉の芽を植え付けてしまったが、お前はわたしのそばで不安を感じたか?ジョースターと共に旅をし、幾度となく危険にさらされたことで焦りはしなかったか?大切なものが傷つくことを恐れはしなかったか?わたしの傍らに立てばそのような心配からは切り離される。喜んで迎え入れるぞ、お前の隣に立つ女もな」
匂い立つような甘い声音は、リゾットをぐらつかせるには足りない。私が猫なで声で"ねえリゾット、限定のモンブラン買ってきて"ってお願いした時のほうが手ごたえがあったぞ。ちなみに限定のモンブランはすんごくおいしかったです。
限定のモンブラン以下の反応を受けたDIOは、私たちの愚行に肩を竦める。
「では、階段を上ってみるとい――――」
DIOの言葉が不自然に途切れる。この刹那、この場に隙が生まれた。DIOも例外ではなく、対応に詰まる。
電話が、鳴った。
まさか、このタイミングで。
ずっとポケットに入れていたスマホが盛大にイタリア語のラブソングを歌いあげてくれたものだから、全員の視線が私に集まる。すごく……気まずいです……。
気まずいってレベルじゃない。静かなテスト時間中に寝ぼけて机をガタッと蹴り飛ばしてしまった時の気まずさが10気まずさポイントだとしたらこれは200気まずさポイントだ。とてもシリアスな『覚悟』を感じられるシーンだったのに台無しだよ。DIO様の台詞を遮ってしまったというのも良くなかった。殺されそう。硬直する私の服の中で、携帯電話は震え続ける。
「ポルポ、だったか。秘密の爆弾でも隠し持っているのか?ひとつわたしに見せてくれないか」
「……いえ、そんな。いやあ、なんていうか」
そこまで言ったところで、瞬きもしないうちにDIOの姿が掻き消えた。ジョースターさんが反射的に飛び退ったのは、私のすぐ後ろから冷ややかな気配が漏れ出たためだ。彼は距離を取ってから後悔したように顔をしかめたが、私は生で体験するザ・ワールド効果に別の意味でドキドキしているから大丈夫だよ。死の恐怖がハイになりすぎて感じられない。
リゾットがスタンドを操るより早く、DIOの手が私のポケットに伸びる。中からするりと携帯電話を取り出し、解りやすく光る画面を押した。
「不思議な機械だ。このDIOが生まれた時には、このようなものはなかった」
今この時代にもないです。本当にありがとうございました。
電話と同じだと認識したようで、DIOはスマホを耳に当てる。英語でもしもしと言った拍子に耳のどこかでスイッチが押されたのか、スピーカーフォンモードに切り替わったスマホから、聞き覚えのある声がした。ポルナレフとリゾット、それから私は目を瞠る。
「Pronto?」
ジョルノの声だった。
DIOはそのイタリア語を聞いて言語を切り替える。こ、このマルチリンガル男め。お前の舌は何枚だ。
「ああ、もしもし」
知らない男の声だったからだろう。電話の向こうのジョルノは一拍、黙った。
「どうやら電話番号を間違えたみたいですね。すみません」
無駄親子、夢の会話成立である。成立しているかはちょっと判断しづらいけど、まあ言葉を交わしたという意味では『成立』の枠に入れても許されるんじゃなかろうか。こんな時でも笑いを押し殺す私。震える肩が恐怖のせいだと思ったのか、DIOは優しい手つきで私の背中に手を置いた。慰めるようにさすられ、あまりのレアリティに感動と同時に死を感じる。ヤバい。親父より上手に心臓を抜き取られる。
「わたしは……」
「ああ、言わなくて大丈夫です。それでは」
ブツッと通話が切れる音がした。同時にDIOの眉がピクリと動く。近年、ここまで粗雑に扱われたことがなかったのかもしれん。DIOが学園乙女ゲーのワガママ傲慢生徒会長様だったとしたらこの辺りで"お前……面白いな……"というフラグの1台詞が入っているはずだ。
電話はすぐに掛け直された。歌声が響くや否やすぐにDIOはボタンを押す。今だ入りっぱなしのスピーカーフォンボタンは、"そういう仕様"として受け止められたらしく直されなかった。直し方もわからないだろうし。
「もしもし?」
「もしもし」
「……あんた誰です?」
この台詞を聞けるとは思っていなかったので内心で拳を握り高々と掲げたが、そんな場合じゃない。
DIOは自分の名前を名乗った。ジョルノがまた沈黙する。
「DIO、と。……事情はわかりました。それで、この電話の持ち主はどうしたんです?」
「肩を抱けるほど近くにいるぞ」
「そうですか。替わってもらっても?」
「その前に、君がいったい誰かを教えてくれないか。誰からの電話と言って取り次げばいいのか、わたしにはわからないのでね」
「渡すだけで結構ですよ。こう見えて僕は忙しいので早くしてください」
「……ふん」
父、完全に沈黙。休日に娘をハイキングに誘うもにべもなく断られるお父さんのような背中だった。
DIOは私に電話を渡した。なんて素直なんだと場違いにも感涙しかけたが、ただ面白がっているだけなんだろうね。そしてこの隙に攻撃を仕掛けてくれよ誰か。
私の想いが通じたようで、ポルナレフがチャリオッツの剣を思い切り振り上げた。意識の端に置いてはいたのだろうが、こちらに気を取られていて不意を打たれたDIOの頬が一筋の血を流す。
DIOの赤い濡れたような瞳がポルナレフを射抜いた。しかし彼は怯まない。
「外は朝だッ!!アヴドゥル、承太郎、ジョースターさん!」
「ああ!」
呼応した3人に追い立てられるように階段の上へ跳躍したDIOは、最も近くにいた花京院くんを蹴り飛ばし上階へ上る。花京院くんが"蹴り飛ばされた"のはどうやら止められた時の中での出来事だったようで、私たちには突然青年が後ろへ吹き飛んだように見えた。
時間を止めていられるのは確か数秒だったはずだ。5秒にも満たなかったかもしれない。私たちの数は、原作では信じられないくらい多い。この時点でこの階段に立っていたのはポルナレフ、承太郎、ジョースターさん、花京院くんの4人だったはずだが、今の私たちはイギーを除いた7人が揃っている。パねえ。あまりにもハンパなさ過ぎてさすがのDIO様もスタンドパワーを温存しようとしたか。この場で脱落させるなら、超長距離射程のスタンドを持つ花京院くんを潰すのが安全だ。追跡から逃れられるしね。その為に時を止めたはいいものの、あまり長い間止めているとMPがガリガリ減る。これから先、ポルナレフ、アヴドゥルさん、承太郎くん、ジョースターさん――プラス、もしかしたらリゾット――を相手取るにはほんの少しの消耗も許されない、と冷静に考えた結果のこのキック。
「ポルポさん、リゾット、さん。……僕は……」
スマホを握ったまま駆け寄ると、花京院くんは内臓が傷つけられたのか一度ごぼりと血を吐き、緩慢に手を持ち上げて何かを言おうとしてから目を閉じた。脈を取ったリゾットが首を振る。気を失っただけのようだ。メタリカで血の流れを凝らせたらしく、花京院くんがそれ以上血を吐くことはなかった。でも生きてるんだよね?大丈夫だよね?私もスマホを床に置いて手首を握ってみる。脈が確認できてホッとした。
ハイエロファントの触手が同時に切られ、時間を止めた証拠が残る、などということはまったくなかったはずだ。何を言おうとしたのか考えようとした矢先、放られたスマホのスピーカーフォンから轟音を聞きつけ、ジョルノの焦燥の声が石段に響いた。
「どうしたんです。大丈夫ですか?」
その声を聞いて、そして花京院くんの微かながらも命のある呼吸の音を聞いて、私は力を抜いてがっくりと項垂れた。
「こ、怖かった……」
私が出せた言葉はそれだけだった。ボスなんてメじゃないレベルのどす黒さがあった。そのどす黒さってのは、そう、綺麗な水底から黒いものがうごめいて、人を捕える触手を伸ばすのに似ている。
ばくばくする心臓を宥めるように胸を押さえ、やっぱり私っておっぱいデカいなとしみじみする余裕が出てきたところで髪を耳にかけた。今は風を感じたい。ヒュウヒュウと流れ込む、ヴァニラ・アイスを倒した時にポルナレフとアヴドゥルさんが破壊した壁を通る、エジプトの風。飛び出したDIOを守るかのように、先ほどまで射し込んでいた雲間からの太陽光は隠れてしまった。だんだんと重苦しい雲が立ち込め、市街地の影をも呑み込む。
「何があったんです?……というか、あなたたちは今どこにいるんですか?」
「俺たちは今、1989年のエジプトにいる」
「1989年……」
ジョルノは電話の向こう、10年と少し後のイタリアで紙をめくった。乾いた音がする。
「いいですか、よく聞いてください。あなたたちが僕たちのいる時代からそちらへ移動してから、僕たちの感覚では3時間が経っています」
待って、予想外に短いんだけど。私たちは50日弱かかってるんだけど。ねえこれって私たちだけ50日分老けたってことじゃね?理不尽すぎない?え?そんな場合じゃない?
「その3時間の間に、僕たちのもとに出頭したスタンド使いが居ました。酒に酔った勢いでスタンドを暴走させ、すぐ近くを通ったポルナレフに力をぶつけてしまったそうです。そのスタンドの能力は"対象の未練を解消させる"というもの。対象が後悔したことをやり直せるよう、"どんなことでも"手伝いをするというわけです。国境をも超えさせるし、時間もまた……」
「そんでやり直さない限りは戻れないってことかな」
「そうですね」
「えーっと。それってポルナレフの主観?」
だとしたらヤバいことになるんだけど。
「後でもう一度事情聴取をしてかけ直しますよ。ただ、さっきから電話をかけてもなかなか通じなくて。電源が入っていないと言われたり、電波が届かないと言われたりで、これ以外は一度しかまともに通信できなかったんですが、納得ですね。10年前のエジプトに10年後の電波を期待するだけ無駄だ」
「調べてもらえるのはありがたいんだけど、前に電話が通じてから今まででもう数日経ってるのよ。時間の感覚が全然違うんだったら、この電話がどんな仕組みで繋がっているのかはわからないけど次に電話がつながるまでどれくらいかかるか……」
「ん、それもそうですね。ただ、今すぐというのは無理なんです。スタンドを暴走させたショックで酔いがさめたのはいいんですけど、フィードバックでスタンド使いが倒れてしまいまして」
「うわあ」
それじゃあ仕方ない、んだけど。
ジョルノはさらに続けた。
「本来なら僕もそちらに飛ぶはずだったそうです。というのも、そのスタンドの能力は"対象に直近5分以内に接触した数名も『サポート役』として巻き込む"効果があって。あなたたちはポルナレフとお茶をしたんですよね。僕はあなたたちが別れたすぐ後にポルナレフに電話をかけたんです」
なんだよそのはた迷惑な能力は。
充電の心配がない、もうとっくに壊れているのにふたつの時代の架け橋となってくれる健気な携帯電話は、ジョルノの憂い顔をも映し出すようだった。
「どうやらスタンドの先へ進化した『レクイエム』を持つ僕には彼のスタンドは効かなかったようで、僕は過去へは行きませんでしたが、僕からの電話だけがそちらに通じているのはその名残でしょう」
「事情は解った」
「ポルナレフが満足したら帰れるのね」
オッケーオッケー。詰んだかも。
「えっ?」
ジョルノが素っ頓狂な声で問い返したが、私は応える気になれなかった。どうなるんだ、これ。まさかのループエンドじゃなかろうな。そんなひぐらしみたいなことが起こってたまるか。
私の脳裏でぱたぱたと倒れていくドミノ。最初の一打を加えたのは、今ここにいないイギーの幻影だった。幻影。ああもうイルーゾォに会いたい。あいつの騒々しいツッコミに癒されたい。うるさいなーって笑いながらテレビとか見たい。
「犬か」
「うん」
リゾットは気づくよね。うん。
「……どうしたんです。何か、まずいことがあるんですか」
「いや、大丈夫だ。いつになるかはわからないが、また連絡してくれ。待っている」
答えようとした私を止めたのはリゾットだった。電話越しで姿が見えないからジョルノにはわからなかっただろうけど、リゾットは口元に人差し指を当てて黙っているよう吐息で私に指示した。可愛すぎてその指を食べちゃおうかと思ったわ。
ジョルノは「Ci sentiamo.」と言って電話を切った。次に彼の声を聞くのはいつになるのだろう。できれば10年後のイタリアで聞きたいなあ。
パターン青が消失した電話は元通りのがらくただ。
痛みはあろうが、穏やかな顔で眠る花京院くんを挟んでリゾットと視線を交わす。思うのはたったひとつ。ポルナレフが『ポルナレフ』である限り決して見逃せないだろう、彼のことだ。
「イギー……」
ふたり同時に呟いた。
「イギー、いなかったよねえ」
「ああ、そうだな」
「これは嫌な予感がするね」
「おそらく、脱落したんだろうな」
「死?」
「……重傷なら俺に言うだろう」
「止血に便利なメタリカちゃんか」
「余程の怪我でも、心理としてはしないよりはマシな気がするものだ」
立ち上がって、スカートについた小石を払う。
「電話がないか探してくる。すぐ戻るよ」
壁をぶち抜いた時に四散した瓦礫の塊に躓かないよう気をつけながら、階段を上った。薄暗い螺旋を抜けると開けた部屋に突き当たる。濃い血の匂いがした。ヴァニラ・アイスが己の血液をDIOに捧げようとした時のものだ。見てないけどたぶんそう。
緩いカーブを描く円形の部屋の中央に冷たい棺がある。ところで関係ないけど、"棺"は空っぽの棺桶を。"柩"は中に人が入った棺桶を示しているんだってさ。この場合は空だから"棺"かなと思ったんだけど、近づくにつれて血の臭気が強くなり、中を覗いて後悔した。ヌケサクだっただろう物体が入っていた。"柩"だわこれ。
この部屋の壁もぶち抜かれていた。なんということでしょう、匠の手によって通気性の悪かった部屋がこんなにも爽やかに。外の景色がよく見える。ここから全員がDIOを追って外へ飛び降り、今はもうあんな遠くにいる。アヴドゥルさんの物と思われる爆炎が噴き上がったり、スタープラチナの雄たけびが聞こえたりする。DIOのスタンドには時を止める能力があると彼らは気づいているのかしら。まあ承太郎くんとポルナレフ、それから機転の利くジョースターさんが揃っているのだから、戦いの中でトリッキーな動きを見せるDIOの能力に気づかない筈がない。アヴドゥルさんの生命探知の炎は吸血鬼にも効果があるようで、遠目からでも炎が不可思議な揺れ方をし、それに反応を見せるスタクルの姿がわかった。
薄暗いDIOの部屋を見回し、歩いて電話を探す。飾られた絵画の下、小さな棚にその形を見つけた。あるのか。あってくれて嬉しいんだけど、あるのか。雰囲気のある黒電話だ。通じるのかしら。ただのオブジェじゃああるまいな。
受話器を取り、ダイヤルを回す。幸いなことに電話線は無事繋がっていた。
「救急車を一台お願いします。近くまで来たらサイレンやランプは消して、静かな感じで」
エジプトの言葉は喋れないので、慣れない英語でたどたどしく言う。あまりのたどたどしさに子供がかけてきていると思ったのか、非常に聞き取りやすい発音でゆっくりと患者の容態や場所などを質問されてしまった。おかげさまで最後まで説明をやり遂げ、受話器を置く。DIOたちは上から見る限り、この館の門とは反対側の通りに出たようだ。静かに車を回してもらえれば何事もなく搬送できると思いたい。
受話器を置いてから"アレッ、もしかしてSPW財団に連絡したら良かったんじゃね"と自分の間抜けさに気づいたが時すでにお寿司。いや、遅し。世界各国に手を広げるSPW財団のことだ。病院で関係者であることを伝えれば、担当の人に連絡を取ってもらえたりすると信じよう。信じたい。信じさせて。
カイロの街並みは綺麗だったが、ところどころがスタンド使いたちによって破壊されていた。ハーミット・パープルの茨が編んだDIOを取り巻く結界が消える。吹き飛ばされた小さな影はジョースターさんのものだった。視力の限界的な意味でこれ以上は見られない。アヴドゥルさんの周りに浮かんでいた四方を示す炎も吹き飛ばされる。何に吹き飛ばされたのか、私には銀のレイピアが魅せる剣戟のように見えたけど、ポルナレフがアヴドゥルさんを攻撃する理由がわからない。これはのちのちポルナレフに訊いたのだけど、とにかく放っておくと死にそうなアヴドゥルさんからDIOの目を逸らさせる為、DIOの恐怖に耐えかね錯乱したふうを装ってアヴドゥルさんと同士討ちを演じたそうだ。2人のスタンド使いが動かなくなったのを見て目をこすった私の動揺をどうしてくれるんだろ。腹筋撫でさせてもらえないと元気出せないよ。
知覚はできなかったが、私が風をあびて観戦する間にも何度となく時が止まっていた。花京院くんが心配だし、救急車も呼んだことだ。あちらはあちらに任せて下に戻ろう。そこまで考えて踵を返したとき、不可思議な予感に突き動かされて立ち止まる。見逃しちゃいけない何かが起こる。そう、第六感が囁いた。
振り返った壁の穴から、暗雲を押しのけ陽射が降りそそぐ。その下にとんでもないモノが見えた。狼狽して取って返すと、"どこからともなく現れた"巨大な黄色が轟音と共に墜落した。こ、これは。
「ロ、ロードローラーだ……」
イベントスチルゲット……なのか?

SPW財団の救急車と、地元の救急車が並走する。片方には血を抜かれることのなかったジョースターさんとボロボロの承太郎くん、それから太陽に侵されたDIOの灰の山が乗る。もう片方では内臓をやられた花京院くんと気絶させられたアヴドゥルさんが揺られ、私とリゾットとほぼ無傷のポルナレフは救急車の後ろから、SPW財団の人の運転で彼らを追いかけた。
「君たちが無事で、本当に何よりだよ」
「私もポルナレフたちが無事で安心してる」
閉じた窓の向こうから、遠慮のないサイレンが聞こえてくる。道路の隙間を縫うように走る救急車は私たちのものだけではない。歩道に車が乗り上げ、人を撥ね飛ばし建物に突っ込んだという朝の惨劇が、エジプトのカイロを騒がせていた。主犯のウィルソン・フィリップス上院議員はなぜか車ではなく路上に倒れ死亡していた、とラジオが伝えるのを聞く。ポルナレフが「DIOの仕業だな」と呟いた。
運転席と後部座席の間は透明な板で仕切られ、運転手にこちらの話はあまり聞こえない。それでも声を潜めていると、財団員はラジオの音量を大きくし、私たちの話が聞こえないよう気を配ってくれた。
「ポルポ」
むき出しの腕と顔の擦り傷を、救急隊員から渡された消毒液をしみ込ませたハンカチで拭う。ポルナレフは心ここにあらずと言った様子でひとつの傷をしきりにこすっていたが、私が彼と目を合わせると、ゆっくりと両手を膝の上に置いた。
「私は……」
窓の外を見る彼の横顔はとても静かだ。
ポルナレフは急に矛先を変えた。
「リゾット。君はこの旅を長かったと思うか?」
面食らったりはしなかったリゾットは、短く否定した。私もこっそり同意する。この数十日はあっという間に過ぎて行った。色々な国を見て、さまざまな敵に出会い、承太郎くんや花京院くんの表情を知った。ジョースターさんのお茶目さや強さ、アヴドゥルさんの有り余る頼り甲斐に何度も助けてもらった。ポルナレフの知らない表情を見られた。
ポルナレフは流れていく街並みがアルバムであるかのように目を細める。
「私もそう思う。私にとってかけがえのない時間だった。二度もこの景色を見ているが、あの時の記憶がまざまざと蘇るよ。あの時の私は達成感と同じくらいのむなしさを抱えていた。私は手の中にある誰も助けることができなかったから」
救急車は病院の前に停まり、ストレッチャーが数台降ろされた。この車も横付けされ、私たちは左右両方のドアを開けてそれぞれ外に出る。先に降りて私に手を差し伸べたポルナレフは紳士だ。リゾットがポルナレフの行動を見てただドアを閉めたので、私はフランス人にエスコートされて地面を踏んだ。
「落ち着くまで時間がかかるだろうから、少し付き合ってくれないか」
「ポルナレフの治療は良いの?」
「大した怪我じゃあない」
さようか。
「席を外した方が良いか?」
「いいや、リゾット。君も居てくれ。君たちに聞いてほしい。私がこの時代に逆行したことを知る君たちに」
一度目は、とポルナレフは語り始めた。陽がのろのろと、まだまだ遠い中天を目指して空を歩く。
夜明け前に火蓋を落とされた戦いは異様な速さで終結した。騒ぎに釣られた人が多く集まる前に終わってしまい、救急車とほぼ同時にSPW財団の人々が駆けつけ後処理を行ったため、奇跡的に被害者の出なかった早朝のガス爆発ということで片づけられるとのことだ。直前に発生したウィルソン・フィリップス上院議員による大事故もあり、この日はエジプトで長く語り継がれるに違いない。
「一度目は3人を失った。花京院、アヴドゥル、イギーの3人だ。2人と1匹と言うべきかな?私は彼らを大切に思っていた。イギーは失って初めてはっきりと気づいたのだが、みんなが私の仲間だった。信頼をおく、失い難い友人だった。あの時の後悔があるから、今の私があるのだろう。喪失は私の一部だった」
肌を冷たくする風が一瞬、私たちの間を通り抜けた。
「二度目のチャンスを与えられるなんて信じられなかったが、色々な予想を立てても最終的には、これは私の後悔があったからに違いないと思ったよ」
「あ、正解」
「……ん!?」
ジョルノから聞いたスタンド使いの話を要約して伝えると、ポルナレフはよろりと花壇に座り込んだ。
「そうだったのか。本当にポルポとリゾットを巻き込んでしまったんだな。すまない。何度も危険な目に遭ったし、リゾットに至ってはDIOのモノにされてしまった。どう詫びたらいいか……」
「過ぎたことだ。気にする必要はない」
私は"DIOのモノになったリゾット"って表現が気になるんだけど、突っ込んだらダメな無自覚の燻り出しなんだろうから口に空想のジッパーをつけるね。
「だが、それならば心配しなくていい。君たちはイギーを救えなかったことで、私が再度"やり直し"をさせられてしまうのではないかと思っているんじゃあないか?」
「多少は」
「仕方がないことだった、などと言うつもりはない。もちろん彼が一緒に、私たちの輪に加わっていてくれるのが一番だ。今だってそう願っている。けれど私は全力を尽くした。花京院、アヴドゥル、イギーと生きて朝陽を眺めたいと思い精一杯戦った。その結果こうなってしまったのなら、それは私に手出しができる領域ではなかったのだと思う」
もう一度やり直せば、ポルナレフならばイギーは助けられるだろう。だが、別の誰かを喪ってしまうかもしれない。後悔を拭おうとしているのに新たな後悔が重なってゆき、何度も繰り返すうちに最初の目的すら思い出せなくなる。いつまでもスタンドのつくる連鎖から逃れられなくなる。
そうなっては、誰も救われない。
「だから私はもう後悔しない」
「ポルナレフ……」
ポルナレフは突然こちらを向いて目をつり上げた。
「テメエ!いつまでも俺を理由にクサクサしてるんじゃあねーぜ。泣きべその言い訳にされてちゃ大迷惑だ」
「うおっびっくりした」
「イギーならこう言いそうじゃないか?」
「言うかもね」
握りしめていたハンカチをくしゃくしゃにしてポケットに突っ込んだポルナレフは、リゾットの"畳まないのか"と言いたそうな顔には気づかず立ち上がって、私の肩を強く抱いた。体格差があるのでついていけなくてたたらを踏む。しっかり支えられていたので、転んだりはしなかった。
「さあ、見舞いに行こう。そして帰ろう、ジョルノたちのところへ」
三度目の電話はまだ鳴らない。だが、もう鳴る必要はないのだろうなという確信があった。
ポルナレフの横顔は微笑んで、ほんの少しの寂しさを込めて風に吹かれたエジプトの砂に目を眇めていた。