20 想定外のさまざまなこと


襲われた私たちの中で、冷静で居られたのはこのことを予知していたポルナレフと、"知って"いた私の二人だった。
ポルナレフが咄嗟に投げ捨てた(もちろん、意図的だ)ラジオがニュース番組と天気予報を流しながら宙を舞う。私もポルナレフもアヴドゥルさんもジョースターさんも、確実にこれで『何とかなる』と考えていた。このスタンドが音に反応することはもうみんなわかっていたし、敵がそちらに気を取られた隙に攻撃を仕掛ければ勝てると確信していたのだ。
ラジオが一刀両断に切り裂かれるまでは。
「あ」
「あっ」
「まっ」
「えっ」
「……」
ポルナレフが呟いた。
「嘘だろう承太郎……」
「俺に言うな」
部品をまき散らしながら落下したラジオはもう何も語らない。ヤバくね?と視線を交わしあうと、ほとんど全員が青い顔で頷いた。ラジオで騒音作戦があえなく失敗したポルナレフも頭を抱えている。
私たちは一瞬にして漂ったガッカリムードの中でも音を立てないよう細心の注意を払い口を閉ざす。しかしこういう時に限ってくしゃみをしたくなるのは本当に人間の身体っていうのはどうなってるんだ。私の身体なんだから私の思う通りに動いて欲しいもんだわ。
ぐるりと、潜水艦から飛び出す望遠レンズのように鎌首をもたげて辺りを見まわした水のスタンドに覚られないようじっとしていると、ふと身体が軽いことに気がついた。そうか、と腰のあたりで小さく手を動かして理解する。ああー、そうだった。さっき車がやられた時にバッグがすっ飛んで行ったんだった。見ると、少し離れた場所に情けない感じで転がっている。あの中には大切なものがいっぱい詰まってるんだけどな。まあ、バッグ本体も含めて全部塩水まみれで使い物にならなくなっているから、持っていてもアレなんだけどさ。でも唯一のリアルな私物だから大切にしたいよね。
「(うーん、どうしよう)」
幸い、まだアヴドゥルさんの首筋も花京院くんの目も切り裂かれてはいない。ポルナレフもシルバーチャリオッツの甲冑を取り去り、いつでも神速で動けるように準備しているし、放っておいても何とかなりそうだ。私はうっかり私のシャツの胸元がゲブ神によって無残にも引きちぎられおっぱいがあらわになることと、リゾットちゃんの洋服が良い感じに切り裂かれ大破スチルさながらの姿になることにさえ気をつけておけばいいだろう。
そんな時。
「……え?」
電話が、鳴った。
それが私にどれくらいの衝撃をもたらしたか、わかったのはリゾットだけだったかもしれない。あとポルナレフもわかってくれそうだ。歌ったのが電子機器だとわかれば、ジョースターさんたちも驚いたに違いない。なぜならそれは水没してお亡くなりになっていたからだ。潜水艦でびっちょびちょに濡れて、もう取り返しがつかないくらい壊れてしまった、私のスマホ。それが今、高らかに旋律を奏でていた。
「なに、これ」
「何だ?」
「何の音だッ?」
「シッ、落ち着けアヴドゥル」
人差し指を立て、唇に当てたジョースターさんを見てアヴドゥルさんが口をつぐむ。できるだけ姿勢を低くし、息を殺した。
動揺の中、私も口に手を当てる。イタリア語だけが砂漠に響いていた。水がじわじわと、放り出された私のバッグに近づいていく。砂にしみたゲブ神は様子を窺うようにバッグの周りを取り囲み、素早く人の手の形をとってバッグの留め金を弾き飛ばした。まだ歌は止まない。
あれはビアンカに歌ってもらって着メロに設定した、最近流行りのドラマソングだ。透き通った女性の声がゲブ神の気を引きつける。遠くでスタンドを操るンドゥール様にはあまりにも音量が大きすぎるのか、他の音など耳に入らないといった様子で、アイコンタクトを受けたアヴドゥルさんがマジシャンズ・レッドを具現化させてもこちらに水が向かってくることはない。ここにギアッチョが居たらな。そうしたらすべて凍りつかせるホワイト・アルバムでゲブ神を静かに泣かせてくれただろうに。けれどギアッチョは居ない。ここにいるのは正反対の、炎を操るアヴドゥルさんだ。
チチチ、と舌を鳴らすふりだけして、アヴドゥルさんが炎を繰り出した。空気を裂いた熱の槍が私のバッグにまとわりついていた刃のような水の手に突き刺さり、しみ一滴すら許さず蒸発させる。沸騰する水の叫びは悲鳴に似ていた。
プツ、と。見計らっていたのかと疑いたくなるタイミングで電話が切れた。
残るのは湿ったバッグと、水があったはずの乾ききった砂の大地。それから満足げにするマジシャンズ・レッドだ。
「恐ろしい敵だったが、偶然に助けられたな。ラジオがやられた時はもうダメかと思ったんだが……今の音は何だったんだ?」
私のケータイですよハハハ、とは言いづらい。色んな意味で。かと言ってすっとぼけるのもちょっと都合が悪い。すっとぼけたってわかっちゃったら後から凄い追及されそうなんだもん。怖いよスタクル。
それに、私も上手く対応できる余裕はなかった。とにかく驚いていて、スタプラさんの視力とイギーの鋭い感覚で敵スタンド使いの居場所を探している彼らを他所に、急いでバッグを掴みとる。膝をついて中を開けて、相変わらず磯臭いなとぼんやり思いつつ携帯電話を手に取った。電源ボタンを長押しする。
けれど何も起こらなかった。なぜナニどーして。
「ポルポ、さっきのはビアンカの声じゃないか?」
「ポルナレフ」
そうなんです、ビアンカの声なんですよ。
「なんか、どっかと電話がつながったみたいなんだよね」
「他人事のように言わないでくれ。大変なことじゃないか。いったいどうしてそうなったんだ?」
「私が知りたいです」
「それもそうだな。すまない」
ポルナレフが素直すぎて申し訳ない。ごめん、ちょっと八つ当たりしたね。
「ごめん」
「ん、急に何だ?君が謝ることは何一つない」
優しすぎるよジャンピエール。

電話については一旦保留となった。瀕死だったンドゥール様を追った承太郎くんが目の前で彼に自害され、DIOの恐ろしさを私たちに伝えると、謎の美女(推定)が歌うラブソングのことなど頭の隅に押しやられてしまう。ジョースターさんがオホンオホンと誤魔化してくれたのも助かった。SPW財団の謎の技術によってつくられた謎のタイミングで発動する謎のBGM演奏装置だと思ってもらえたのかもしれない。ジョースターさんはポルポのアラームじゃよと笑っていたが、いったい何人が信じてくれたことやら。純粋なアヴドゥルさんは「運が良かったな」とこちらも朗らかな表情を見せてくれたけれど、彼の真っ直ぐさが時に眩しい。
ジョースターさんがそっと私に近寄り、耳打ちする。
「あれは君のいた時代の?」
「ええ。誰かから電話がかかってきたみたいなんです」
「またかかってくると思うか?」
かかってきて欲しいなとは思うんですけどね。でもこれでもしもしボス?ってジョーク効かせつつ電話取ってマジでボスだったりしたら笑えないからその場合はノーセンキューでFA。
そう望みますね、とこちらも囁き返す。ジョースターさんはすっかり沈黙した機械を一度撫でた。大変な旅の途中なのに、私たちのことを心から気に掛けてくれているとわかる。いつだってわかっていた。
「できればもう少し一緒にいたいんじゃがなァ」
「私のおっぱいとリゾットのメタリカと?」
「ポルポの魅力は胸だけじゃあないぞ。わしは君のチャーミングな微笑みが好きじゃよ」
言われた通り微笑んでみせると、ジョースターさんに肩をぽんと叩かれる。彼はそのままイギーに苦戦する男たちのほうへ歩いて行った。
残された私はもう一度、黙りこくって動かない壊れた携帯電話を見下ろした。鳴かぬなら壊してしまえスマートフォン。けれどもちろん、今となっては本当に唯一の手がかりであるこいつを壊せるはずなんてなく、捨てられるはずなんてもっとなく、誰にも見られないようそっと髪で隠しながら耳にあてた。
ここは砂の海だけど、さざ波の音すら聞こえなかった。
「関係ないけどボスなぐるー」
泣き真似をして電源ボタンをもう一度。やっぱりつかなかったので、諦めて今度はスカートのポケットに滑らせるようにして入れる。バッグは処分してしまうかもしれないけど、これだけはね。肌身離さず持っている必要がありそうだ。
ワウ、と向こうでイギーが吠えた。

一匹の犬を仲間に加え、私たちは車でアスワンに向かっていた。誰も怪我をしていないので用事はないのだが、少し休憩代わりに立ち寄るそうだ。
車の旅は道が長く、見渡す限り大地が広がるこの地では街が余計に遠く思えた。
無傷のアヴドゥルさんと花京院くんが、狭い車内でやれやれと首を振る。
「水を飲むのが恐ろしくなるな。そう思わないか、花京院?」
「そうですね、アヴドゥルさん。僕は水ではなく、気分転換にオレンジでも食べて喉の渇きを癒したいな」
「果物か。アスワンで買うのもいいだろうな」
いったいどんな町なんだろう。そして、アスワンではどんな敵が現れたっけ。
エジプト九栄神の名前は憶えていなくても、そのスタンドの持ち主のことはよく憶えている。むしろ忘れたくても忘れられない。
承太郎くんたちの前に立ちはだかった順番はあやふやだが、確か名前だけ挙げるなら、ンドゥール様、マライア、ダービー兄弟、アレッシー、ペット・ショップ、オインゴボインゴ兄弟、それから、えーっと、アヌビスだっけ。付喪神系刀剣男士がいたんじゃなかったかな。
そうとはわからないようにそっとポルナレフを見ると、彼はポケットの中の煙草を手で弄んでいた。しかし承太郎くんにライターを差し出されるとやんわりと断る。吸いたいわけではないようだった。
「ポルナレフと煙草というのはなかなかイメージが結びつかんな」
バックミラーで私たちを見たジョースターさんは、ギュウギュウ詰めの後部座席の様子に笑いながら言う。
「普段はあまり吸わないんですが。ヘリの彼に分けて貰ったんだ」
「貰いモンか。銘柄にこだわりはねえのか?」
「あまりないな。そういえばこれは……ケントか。前に吸ったことがあるやつで良かったよ。新しい味に挑戦して失敗すると口が不味くなるから」
「煙草にも味があるのねえ」
「なければこれほど多くの銘柄が開発されたりはしないさ」
それもそうだ。煙草の煙も、銘柄によって匂いが違うしね。ホルマジオがたまに吸うやつよりもプロシュートが吸うものの方がスッとした感じがするし、私の知るギャングの中でも指折りのクズとして有名な男が吸う煙草なんかはどぎつい匂いをまき散らしている。ケントの味がいかなるものかは知らないが、ポルナレフが吸ったことがあるってことは、少なくとも不味くはないのだろう。
一本煙草を取り出して手のひらで転がしていたポルナレフは、どこからか聞こえてきた救急車らしきサイレンの音に気づいて顔を上げた。窓際の人が窓を開けて外を見る。アヴドゥルさんが身を乗り出し、少し遠くの喧騒に目を凝らした。
「事故か?」
「ガス爆発でもあったような惨状じゃな」
「バスとトラックがぶつかったようですね」
「わしらも気をつけねばならんな」
足を止める理由もなく、必要もなく、私たちは現場の横を通過した。
野次馬をやめて座り直す。リゾットは視線をどこかに向けていた。私たちが通り過ぎようとする何かを見ていたので、私ももう一度腰を浮かし、アヴドゥルさんのように窓際に顔を近づけてみた。車体が壁になってうまく見えない。だが事故現場より少し離れたところ、電柱の陰から水のようなものが滴り落ちているような気がした。
何気なく時間を見ると、10時半から少し針が動いたところだった。
「何かあった?」
訊くと、リゾットは小さく首を傾げてマーベラスな可愛さを無自覚で演出してから短く答えた。
「奇妙なものが見えた気がしただけだ」
花京院くんもリゾットに釣られるように顔を傾ける。
「奇妙なものですか?」
「ああ」
「人が空を飛んでいたり?」
「近いかもしれないな」
高校生組はリゾットが冗談を言ったと思ったらしく、それこそ奇妙な表情を浮かべたが、これではいけない彼を傷つける!と思ったか、ハッとした花京院くんが取り繕ったように「ははは……」と笑って口角を上げた。この普段真面目な人がたまにちょっとジョークを言ったらみんなどう反応していいものかわからなくて結果的に引きつった無理やりな笑いがさざめくオフィス的な空気ヤバイ。リゾットもほんのちょっとだけ複雑そうな顔をした。

事故現場から30kmほど車を走らせ、ようやくジョースター一行はアスワンに到着した。
一度来たことのある(記憶を持つ)ポルナレフだったが、懐かしさに目を細めるだけでどこかへ案内しようとしたりはしなかった。この町では回避すべき、あるいはわざと対峙すべき敵はいないということだろうか。ジョースターさんたちが行く所に災難ありと知っている側からするとどうも引っかかる。何もないはずがない。もしも何もなかったとしたら、エンプレスの時のように後から辻褄合わせが発生するはずだ。それは困る。
でも体験者のポルナレフが何事もないように心底から懐旧に浸っているのだから、私の無粋な推理で邪魔することもないか。
異国過ぎる街並みを眺め、ジョースターさんの先導で一軒の喫茶店に入る。イギーはいつの間にか姿を消したが、心配する必要はない。なぁにそのうち戻ってくるに違いないとポルナレフは笑って、渋面のアヴドゥルさんの肩を叩いて宥めた。
メニューを見ても文字が読めないから適当にオレンジジュースか紅茶かなあ。
全員がそんな気持ちになったのがわかったのか、アヴドゥルさんは壁に立てかけられているメニューの看板を上からひとつひとつ音読してくれた。
「じゃあ僕はアッシャーイ……なんですっけ」
「アッシャーイ・ビンナアナーア」
「ああ、そうでした。それを飲みたいです」
「私は生絞りオレンジジュースがいいなー。承太郎くんは?」
「どうでもいいぜ」
「じゃあキャロブのジュースにしよう」
各々、飲みたいものを選んで注文する。リゾットはハイビスカスのお茶を頼んで、アヴドゥルさんは普通の紅茶に決めたらしい。最後にスイカのジュースに決めたポルナレフがよどみなく7つの飲み物を注文したところで、ジョースターさんが待ったをかけた。
「いや、待て花京院。わしらはどこで狙われるかわからん。もしかすると毒でも入れられるかもしれんからな……。これからは未開封の瓶や缶で飲むぞ」
「えっ……」
よく気をつけていないと見逃してしまいそうなくらい、火花のように素早く、花京院くんの瞳に影が差した。気持ちわかるよ。私も残念だもん。
でも、ジョースターさんの言っていることはもっともだ。毒殺暗殺お手の物、それがDIOとその部下たちなのである。それがわかっているからこそ、何も言わずに花京院くんは寂しさを押し隠した。
「また次があるよ」
冷蔵庫に並ぶコーラを選ぶ順番まで指定して警戒を強めるジョースターさんから隠れるように、わざとこっそり慰めてみると、花京院くんは恥ずかしそうに身をよじった。リゾットさんたちとこうしてアスワンでお茶をできるのは、きっと今だけですよ。そう、悲しそうに言われたので二の句が継げなくなる。そ、そうかもしれない。納得してしまった。確かに二度とない機会だわごめん。
「いや、しかしさっきの注文に戻そう。冷えていないコーラを飲むなんて虚しいだけじゃ」
気まずくなったところでジョースターさんが物凄い勢いで手のひらを返した。なぜか花京院くんよりも私の方が救いを見つけてッシャと拳を握る。危ない危ない、心が傷ついて駅のベンチで項垂れている青年が心配になってあたたかいコーヒーの缶を差し出したはいいもののどう言葉をかけていいかわからない社会の厳しさに心が荒みかけた帰宅途中のOLと化するところだった。まだ片足を突っ込んだままだが、飲み物がやってくれば完全に脱せるだろう。ありがとうおじいちゃん。
運ばれた飲み物に口をつける。私はストローを咥え、ちゅ、と吸い上げた。
吸うや否や、咳き込んでしまう。何か硬くて柔らかいものが背中に猛スピードでぶつかってきたのだ。泡を食って振り返ったけれどそこにはなにもなく。今度は足元をすり抜ける風のような何かがテーブルの下を駆けて外へと抜けて行った。全員が飲み物を噴き出し、ポルナレフに至っては蹴られたのかカップを取り落として靴をジュース色で染めている。
「イギー!!」
怒号が背中を追いかけるも、どこ吹く風か、子犬はアスワンの砂を蹴って逃げ去った。
後には荒らされた店内だけが残る。
「あーあーあーあー……」
OMG。ジョースターさんがぴしゃりと額を手で打って項垂れた。全員の飲み物は竜巻にでも遭ったかのように散らされ、カップもソーサーもストローも至る所に散らばり始末の仕様もない。
「他人のふりをするぞ、みんな」
「盛大に名前呼んじゃってますけどね」
「わしらの母国語で『犬』のことを『イギー』と呼んどることにしよう」
「滅茶苦茶だ」
だがこのとんでもない嘘のおかげで、私たちは片づけの手伝いからまんまと逃れたのである。窺うと、大柄な店員が憎々しげに、敵でも見るように私たちを睨んでいた。ごめん、ほ、本当にごめんなさい。うちのイギーがすみません。うちのじゃないけどごめんなさい。

リゾットと承太郎くん、花京院くんが3人で出かけたのは靴屋だった。歩きやら水浸しやらでボロボロになった靴を手入れしてもらいに行くのだそうだ。私たちも同行しようかと思ったが、車が盗まれないか心配だ。というわけでジョースターさん、アヴドゥルさん、ポルナレフ、それから私の4人はせっかく車で待つのだからと、少し離れた場所にある車屋さんでタイヤなどの整備をしてもらおうと決め、雑然とした喫茶店の前で二組に分かれた。なぜリゾットが高校生組に同行するのかといえば、それは花京院くんからの強い誘いがあったためである。私もついて行って彼らの様子をバードウォッチングならぬ異色の3人ウォッチングしたかったのだけど、たまにはリゾットも羽を伸ばしたいだろう。上司(でいいのかな)の目がないところで高校生組と戯れるリゾットを想像するだけでご飯がうまい。
車に戻る前に、アヴドゥルさんが足を止めて商店を指さした。オレンジが山のように盛られた売り棚が目に飛び込んでくる。近づくと、柑橘の爽やかな香りがした。そういえば車の中で花京院くんがオレンジを食べたいと言っていたっけ。
紙袋いっぱいにオレンジを買い込み、胸の前に抱えて歩く。はちきれそうなほど大きく育った新鮮なオレンジもアヴドゥルさんが持つと小さく見えるから不思議だ。
車の後部座席にそれを置いたところで、ジョースターさんがそわそわし始めた。
「スマンがわしはちっとトイレに行ってくる」
「あっ、言われると行きたくなる。私も行きます」
「確かに……」
「私も行こうかな」
一度ドアを強く引き、鍵をかけたことを確認してからその場を離れる。アヴドゥルさんが場所を聞いてくれたので問題なく辿り着けた。エジプトのトイレは綺麗でいいよねえ。
トイレを借りたお礼にお菓子を買って歩きながら食べる。私たちは4人とも回し食べに抵抗がなかったので、順番にかじって楽しんだ。すんごく甘いけど、気にならないくらいおいしいんだよねえ。疲れた身体にしみるっていうかさ。
懐かしそうに食べるポルナレフと、馴染みの味にどこか安心した気配を出すアヴドゥルさんが味を褒める。ジョースターさんはお菓子を食べたことでまた喉が渇いたようで、車のキーをちゃりちゃりと鳴らした。私もさっきオレンジジュースを飲めなかったのでひと口と言わずひと玉まるまる食べたい気分だ。むく時にさ、皮に指を突っ込むじゃん。その時に噴き出る果汁の霧がたまらなくいい香りなんだよね。香水になる理由がよくわかるわ。
「……あれ?」
車のすぐ近くに人影が見えた。背の高い男の人のようだ。中を覗き込んでいるような中腰の体勢で、きょろきょろと辺りを見回している。
誰何したアヴドゥルさんの険しい声を聞き、ゆっくりと男が顔を上げる。
リゾットだった。その姿の全貌が明らかになるにつれて、私とポルナレフは吐きそうなほどの笑いの発作に襲われた。
リゾットは綺麗に筋肉のついた身体をしている。ユニクロのモデルさんにしたらその商品だけ爆売れしそうなほどだ。洋服は何を着ても見栄えがよい、と思う。着ぐるみを着ていてもリゾットっぽさが醸し出される気すらする。たぶんそれは気のせいだろうけど、まあそれはいいとして。屈強過ぎる着ぐるみアサシン、強い。いやいや雑念雑念。
そんな彼が唯一着こなせないものはこれなのではないか、と思われる服を彼は身につけていた。
大きな文字で胸元に『OINGO』の文字が入ったTシャツがまず目立つ。ジャケットはノースリーブで、Tシャツの袖も肩まで捲り上げられ、鍛え上げられた腕がチラ見せなんてレベルじゃなくお披露目されている。長ズボンはゆったりしたデザインで、裾がショートブーツの中にしまわれ絞られたような形だ。
ひと言で表すと、クソウケる。
なかなかのイメチェンじゃなとかろうじて怪訝そうに言ったジョースターさんも、目を丸くして言葉を失うアヴドゥルさんも、もちろんポルナレフも私も、視線ひとつ交わさず全員が理解した。
「(これ敵のスタンド使いだ)」
なんてわかりやすい。あんたもなんでリゾットをチョイスしたんだよ。まずその企画コケてるでしょ。ねえ。小一時間と言わず問い詰めたい気分だ。
しかし敵も焦るわ焦るわ。爆笑の嵐を必死こいて押さえつけた私たちは対照的に冷静になれて、相手の焦燥が手に取るように感じられた。この敵は想定外の事態に対応できていない。ゴホンゴホンと咳払いを繰り返すリゾットモドキは私たちの表情が(感情を押さえつけすぎて)完全なる無であることに恐怖を感じ、どうにかせねばならないと思い切って声を上げた。
「ど、どこへ行っていたんだ?さ、探したぞ」
もうこの時点で私は耐え切れなかったのだが、ポルナレフに思い切り肘で小突かれて必死に唇を噛む。
トリッキーなおじいちゃんはこの面白すぎる出来事への垂涎を真顔で隠し、スマンかったな、とリゾットらしき男に謝った。
「トイレに行っていたんじゃよ。随分待たせたか?ン?」
「い、いや、そうでもない」
腹芸があまり得意ではないというアヴドゥルさんを押しのけ、ポルナレフが前に出た。
「いやぁリゾット。お前靴屋はどうしたんだ?花京院は?承太郎は置いてきたのか?」
みんなの前で猫被ってんじゃないかなって思えるほどの口調の変貌。紅海でアヴドゥルさんにドッキリを仕掛けた時もそうだけど、こうして敵と対峙してからかったりする時なんかは変化が顕著だよね。若かりし頃のテンションが戻って口調が大雑把になるとかもう明らかに楽しんでるよね。
リゾットっぽい人は多大な努力を費やして引きつった表情をまともなものに変え、用事が済んだので先に戻った、とだけ答えた。どうやらリゾットの口数の少なさは知っているらしい。事前に情報でも渡されていたのかな。承太郎くんたちは重要人物だし、ポルナレフや花京院くん、そしてリゾットは肉の芽で操ったことがあって性格もある程度把握できている、とか。あるのかはわからないけど、もし存在するならDIOから渡されるジョースター一行の資料ちょう読みたい。
「私たちはさっきも言ったがこれから車の整備に行くんだ。ホラ、本当はお前たちともそこで合流するつもりだっただろ?あのガソスタみたいな所だよ。乗ってくか?それとも散歩がてら歩くか?」
「乗るぜ」
「ゲホッ」
「どうしたアヴドゥル。砂埃に当たったか?イカンなァ」
笑いかけて噎せたアヴドゥルさんの足をこっそり踏んだジョースターさんは、私を巻き込んでアヴドゥルさんに耳打ちした。
「こんな面白い敵が今までにいたか?おかしな攻撃も仕掛けて来ないし、こいつの能力は『姿を変える』ことだと推理できる。しかも服装まではコピーできんふざけた能力。日頃のうっぷんを晴らさせてもらおうじゃないか」
「ゴホッ、ゴホッ……。まったく、ジョースターさん。顔が凶悪ですよ」
「ぷくくくく。だってこんなに愉快な敵は居らんじゃろ。なぁポルポ」
リゾットをチョイスする辺りギャグセンスあるよね。まあ彼は真剣本気マジガチ1000%なんだろうけど。ごめん、笑いしか出ない。
普段真面目なアヴドゥルさんもあまりにもぶっ飛んだ敵の姿にリミッターが吹き飛んだのか、この悪辣なからかいの作戦に同意してわざとらしい真剣な眼差しでリゾット(仮)を見据え、相手をドキドキさせた。
「君は助手席に乗るか?それともポルポとポルナレフの隣でいいか?」
「……俺は……」
どちらの方が逃げやすいかを考えたのだろう。そして、助手席ならシートベルトを外してドアを開ければすぐに外に出られると判断したらしい。彼が「じょ」と口を開いた瞬間、上からポルナレフが言葉を被せた。
「アヴドゥルが助手席にいないと道がわからないだろうしな、リゾットは俺たちの隣でイイだろう?」
「エッ、あ、あぁ、わかった。そういうことなら仕方ない」
もう可哀想だからやめてあげればいいのに。そう常識ぶりながらも私はリゾットに見えなくもない人の腕に触れた。ビックゥウウ!!と彼の身体がめちゃくちゃ跳ねた。取り繕っているが、もはやばれていないと思っているほうが可笑しい。
「ねえリゾット、具合が悪いんじゃない?大丈夫?オレンジ買って来たから、食べたらきっと落ち着くわよ」
「俺のことは気にせず食べてくれ。少し腹が痛いんだ」
「(腹痛のリゾット)」
これはもしかしてそれとなく誘導したら、普段リゾットが言わないようなあんなことやそんなことを合法的に言わせることができるのでは。私今とんでもなく冴えてたんじゃない?
車に乗りたくなさそうなリゾットにしか見えない敵を後部座席に押し込み、ポルナレフと2人で挟む。オレンジの入った紙袋を膝にのせられた男は冷汗とも脂汗ともつかない汁をだらだらと流して震えていた。リゾットの姿で。リゾットの姿で。大切なことなので二度言ったよ。
車体が揺れるたび、ひぃっ、と短い悲鳴が男から漏れる。オレンジに何かあるのだろうか。手に取ってむいて食べようとしたら思い切り手を払いのけられたし(「し、汁が飛ぶのが嫌なんだ」ともの凄いアクロバティックな言い訳をされた)仕掛けがあるのかもしれない。爆弾仕掛けのオレンジだったりしてね。ハハハ。
私の手を思い切り払いのける、というあまりリゾットらしくない行動を目ざとく見つけたポルナレフは、ニヤァ……とワルい笑みを浮かべてリゾットに顔を近づけた。
「リゾットよう、お前ずいぶん様子がおかしいよなぁー……。喫茶店で別れた時とは別人みてーだぜ。あげく、ポルポの手をあんな乱暴に振り払うと来た」
ま、さ、か、と一字一字聞き取りやすく区切って舐める様に言う。
「オメー、偽物なんじゃあねえよな」
刹那、偽造リゾットの息が止まった。2時間半休憩なしぶっ通しで武道館ライブを行った歌手のようにだらだらと止まらぬ汗を必死で手で拭う様は同情を誘った。もうやめてあげればいいのに。スタンド使い科リゾット目リゾットモドキに視線を注いで逃げ道を塞ぎながら内心で同情した。
か弱い女性が心底から恋人を心配して瞳を潤ませ上目づかいで見つめるようなイメージでじっと作り物の赤い瞳を見上げる。男はおろおろしながら私と見つめ合い、ポルナレフから逃げたそうにした。
「バ、バ、バカ言うな。俺が偽物なわけないだろ?」
「ふぅーん。じゃあ証拠見せろよ」
「しょ……、証拠?」
証拠? あまりの突然さに私も目が点。
「リゾットならアレ、できるだろ。なあポルポ」
本当にポルナレフのキャラがぶっちゃけられすぎてて戸惑うんだけど、それよりも『アレ』が気になる。なんだっけ。リゾットなら何ができるんだっけ。よくわからなかったのでテキトーに言おう。
「そうね。リゾットならできるわよね。イタリアでこれまでに流行ったメロドラマの名台詞100連発」
「ゲエッ……」
敵が喉の奥から悲鳴を漏らした。そんな特技があんのかよあンのイタリア野郎、ぐらいは思っているかもしれない。ごめん、できるかどうかは知らないんだ。ていうかたぶんそれはさすがのリゾットもできないと思う。でもうっかりこの人がリゾットの姿、リゾットの声でそんな茶番を繰り広げてくれるならもう最高だよねっつう邪な想いがある的なアレなのよ。ポルナレフも「オホンオホン」と咳払いをやめない。
「ほら、まず1つ目は"この空がどれだけ曇ったとしても僕は気にならない。なぜなら君の笑顔が僕の太陽だからさ"から」
「ヒエエッヒヒヒ」
これは悲鳴ではなくジョースターさんの笑い声だ。うっかりハンドルさばきがぶれて大きく車が揺れた。安全運転でお願いします。イヤ本当に。
おちょくられていると半分気づいているのか、気づかないようにしているのか、SAN値をガリガリ削られて発狂寸前のスタンド使いは、膝の上のオレンジをしきりに投げ捨てたそうにしながらリゾットの声でうめいた。
「"この空が"……"この空がどれだけ曇ったとしても僕は気にならない。なぜなら君の笑顔が僕の太陽だから"、"さ"……」
ポルナレフが頬の内側を噛みちぎってしまいそうな顔でしかつめらしく頷いた。
「ウム。んじゃあ次は……、ってトコでなんか喉が渇いたなァ。悪いが貰うぜ、リゾット」
「あ、あぁ」
シャツの首元を汗でびしょびしょにしたリゾットカッコ笑いは、ポルナレフが皮に指を差し込もうとする姿を3日連続完徹を貫いた漫画家のような顔で凝視する。カチリ、と何かのスイッチが入ろうとした時だった。開いた窓からイギーが車内に飛び込み、ポルナレフの手に着地したのは。
「うわっ」
ポルナレフはオレンジを取り落とす。イギーがそれをボールよろしく蹴り飛ばして、オレンジは車から飛び出した。トランクの端に勢いよくぶつかり、跳ねた拍子に内部で導線に電気が走る。
激しい音を立てて果物が爆発した。車が爆風に煽られ軸が傾く。仮称リゾットもまじえて全員が悲鳴を上げ、ボロボロの車は横転した。それもかなりの勢いで。
「う……イタタタ……」
シートベルトって大事だ。
いつでも逃げられるようにとシートベルトをつけていなかった敵スタンド使いは見事にこの混乱のさなかから抜け出したのか、全員が気がついた時にはいなくなっていた。オレンジはさかさまになった車の天井に散らばり、良い香りを漂わせる。
そのいい香りに混じって不吉な匂いが鼻の奥を刺した。これはもしかするとガから始まってンで終わる可燃性の液体、なのでは。
「イカン、アヴドゥル。絶対にマジシャンズ・レッドを出すんじゃあないぞ」
「出しませんよ!!言ってる場合ですかジョースターさん!?早く脱出しましょう!」
チャリオッツが剣でガラスを割り、一足先に外に出たポルナレフが私を引っ張り上げる。ち、と小さく舌打ちをした後はもう、私が知るポルナレフに戻っていた。
「おちょくり過ぎたか。オレンジに爆弾を紛れ込ませておくとは。リゾットに化けたのは不可抗力、相手にとってもイレギュラーな出来事だったというわけだな。ポルポ、大丈夫か?」
「ありがとう、大丈夫よ。ちょっぴり煤けたかな」
「煤けていても綺麗だ、安心してくれ」
うん、なんかもうなんでもいいわ。ありがとね。
「あっ、奴が……あんな所に!!」
こちらも一足早く逃げたイギーに追われるようにして逃げ去る男の背中がひとつ。がうがうと吠えるイギーに追い立てられて気が動転したのか、わき道にそれた男は、そこで何かを踏みつけた。四散したオレンジの欠片だった。足を滑らせた男は突然の爆弾騒ぎに青筋を立てたイギーに噛みつかれ爪を立てられ蹴り倒されと散々な目に遭った末、這う這うの体で今来た道を戻ろうとして道路に飛び出し――――。
やって来ていたトラックの盛大なクラクションを受けながら撥ね飛ばされた。
「……ええー……」
敵ながらこれはひどい。息巻いていたアヴドゥルさんもあまりのピタゴラスイッチっぷりにドン引きしたのか、スタンドをおさめて沈黙を選んだ。
「救急車は……要らんか」
「トラックの運転手が何とかするでしょう。それより私たちは待ち合わせ場所に急がなくては。本物のリゾットたちと会う前に身なりを整えておかないと、何があったのか訊かれてこってり絞られますよ」
「わしらが悪いんじゃアないのにな」
そ、そうかな。なんか私たちにも責任があったような気がしないかな。最初から遊ばずに倒していたらここまで悲惨な結末にはならなかったような。いや、言うまい。長い物に巻かれよう。

待ち合わせ場所に先に到着した私たちはトイレの鏡などを使って恰好の乱れを直し、"何の障害もなく辿り着きましたよ"と装うために喫茶店に入って、今度はキンキンに冷えた瓶ビールを注文した。ジョースターさんが瓶の口を手刀で切るパフォーマンスをして場を盛り上げ、全員でぐびりと事件後の一杯をキメる。コーラには詳しくないけれど、とてもおいしく感じた。
ポルナレフがぽつりと呟く。
「アスワンでは襲撃がなかったと思ったんだが……」
ここで彼は唇をとがらせた。
「私の記憶も当てにならないものだな」
拗ねた顔が可愛すぎて死ぬかと思った。