15 迷いに揺れる


花京院はヤプリーンの村の一室で息を吐く。見知らぬ物ばかりの中、風呂だけは日本と近い様式だったことに安心する。
夕方から今にかけての時間はあっという間に過ぎ去った。
夜の砂漠は冷え込み、花京院は長袖のパジャマに加えて新しい毛布を頼まなければならなかった。
同室のアヴドゥルは花京院よりも体格がいい。代謝も高く、気候にも慣れていた。毛布を一枚かけて横になり、枕元に置かれた青年の腕時計を見る。
荒っぽい旅にも壊れずについて来る丈夫な腕時計は夜を示し、外の暗さに時間をつけた。準備をしていたら、もうこんなに夜が深まっている。明日も早い。花京院たちは眠ることにした。
灯りを消し、枕に頭を押し付けた。真っ暗な天井につぶされそうだ。
疲れた身体を休ませようと目を閉じたが、浮かんで消えるのは印象に残る赤色だった。ちかちかと光って、瞼のスクリーンに映像が映し出される。登場人物はアヴドゥルであったり、承太郎であったり、ジョセフであったり、ポルナレフであったり、瞳に赤色を持つ男女であったりした。
二人の瞳の色の違いを花京院は説明できない。
ポルポはよく花京院の目を見て話すので、自然と色を覚えてしまった。砂漠で夕陽を見た時に色が似ていると思う程度には親しみを感じていた。リゾットの色は彼女とは違うのだろうなとも思う。
しかし確信を覚えるには至らない。花京院はリゾットとの距離を測り損ねていた。
数十日を共にしていて何をと思われるのが恥ずかしく、誰にも打ち明けていなかったが、彼の表情や立ち居振る舞いには恐れすら抱く。
彼と仲の良い知り合いで、驚くべきことに『恋人同士』であるというポルポは彼の職業について詳しい説明はしなかった。ただちらりちらりと垣間見える姿の中には、物騒な血のにおいに包まれた人生があるように思えた。
同じスタンド使いであっても、友達にはなれない。
すべてのスタンド使いが花京院に優しいとは言えないように、リゾットもまた花京院からの干渉を拒んでいるように思っていた。
彼の冷静な態度はポルポ以外からのアプローチには動じない。ジョセフがどんなに明るく話しかけても、ちらとも笑わずに首を振るだけだ。コミュニケーションを取りたくないのかと眉根を寄せたが、そういうわけではないらしい。
間接的にポルポに訊ねたことがあった。
「リゾット……さんは、人が……嫌いなんですか?」
ポルポは奇妙な表情をした。目を丸くして、困ったように眉尻を下げた。大人びた、『大人』である彼女は、時々花京院の前で表情を隠そうとする。その仕草はリゾットを彷彿とさせたし、花京院はジョセフに似た彼女の快活さが好きだったので、いつも残念だった。
「特別、君たちと付き合う必要性を感じていないだけじゃない?私はほら、数年前から一緒に居るから今更の付き合いだけど、君たちとはいわば行きずりの縁だからね」
「行きずり……」
きちんとした言葉で表現されると胸が痛む。
隣で耳を傾けていた承太郎は何も言わなかったのに、花京院はつい勢い込んでポルポを追及した。
「あなたもそう思っているんですか?」
ポルポは首を傾げた。下品なボキャブラリーに溢れるものの、思慮深く明るい性格の女性だと評価していたのに、この時だけは彼女が遠かった。
どうかしらねと呟き、私は君たちが好きだよと続けられる。変則的な答えだったが、花京院は安堵した。少なくとも、彼女はリゾットとは違った。
なぜ自分がここまでリゾット・ネエロに気まずさを持つのか、花京院は考えた。眠れない砂漠の夜はいい機会だ。
彼と花京院の状況はある意味で似ている。DIOに肉の芽を埋め込まれ、ジョースターの血筋に危害を及ぼしにスタンドを行使した。花京院は自分のハイエロファント・グリーンに絶対の理解と自信を持っていたが、それを引いてもリゾットのスタンド能力は恐ろしい。血中に存在するスタンドは鉄分を操り人を内側から破壊する。本人の肉体的な技量を発揮した時、メタリカと同じく花京院たちも内側から崩壊するだろう。その時、彼の隣に立つのはポルポだ。一人、凛と立つ。輝いていた瞳を閑にし、あーあ、と肩を竦めるかもしれない。やっちゃったの、リゾットちゃん。こう、軽々しく言うかも、しれない。
ぞっとしない想像だ。
花京院典明はリゾット・ネエロが恐ろしい。
何を考えているかわからず、優先順位を固く決めている。ポルポが人質に取られれば、彼は躊躇いなくジョースター一行に敵対するに違いない。彼はカラチで承太郎を切り捨てた。
肉の芽で操られていないからこそ恐ろしいのだ。自分の意志で仲間を損得勘定に入れて計算する男を、花京院は初めてこれほど身近に置いた。友人とは無償で助けるものではないのか。
簡単なことだった。
リゾット・ネエロは花京院の友人ではない。
仲間ですらない。
今や花京院の頭には、その考えだけがこびりついていた。リゾットは花京院の仲間ではないのだ。
辿り着いた結論は"らしく"思えた。何よりもしっくりときた。彼はポルポが花京院たちを仲間だと思うから、異論を唱えないだけなのだ。
「……っ」
湯で綺麗に流したはずの背中に、冷汗が浮かんだ。
ポルポはDIOを知らない。本能的な恐怖と、吐き気がするほどのカリスマを知らない。あれはただの人が耐えられる圧力と魅力ではないのだ。人間は安心を常に求める。絶対的なものに寄り添いたがる。そして、DIOは影のように心の隙間へ入り込む。あの時吐き出した胃液の味が、花京院の口によみがえった。
ジョセフもアヴドゥルも、危険性に気づいていない筈がない。承太郎も察しているかもしれない。ポルナレフはどうだっただろう?
誰もが物事を冷静に見極め、判断する力を持っている。彼らの中にいると花京院は成長できた。こうして仲間をはっきりと疑えるようになった。
ポルポがDIOに出会った時、彼女は誰に与するのか。
花京院たちとリゾットの命運を分ける重大な点は、そこにかかっている気がした。
花京院はポルポたちの事情を知らない。
ジョセフとアヴドゥルは、ポルポとリゾットと何らかの事情を共有している。
だが花京院と承太郎、そして今ここに居ないポルナレフは違う。疑心暗鬼に陥るのも無理はない。
せめて彼女たちをもっと知ることができれば、この想いも払拭できるのだろうか。
もっと絆を深めたい。距離を縮めたい。いつもニコニコと笑っているポルポはもちろん、思考の一片も読み取れないリゾットに対しても、花京院は少なからずそう思っていた。なぜなら彼らは、目的を共に。
「(目的、を)」
はっとした。
花京院は明確な彼女らの目的を知らなかった。DIOを倒す旅に同行したのは、アヴドゥルの占いに導かれたからだと端的に語っていたし、誰もそれに疑いを持たない。アヴドゥルへの信頼がそうさせた。
だが、その占いの意味はどこにあるのか。ポルポとリゾットは、本当にDIOを倒すつもりがあるのだろうか。
承太郎とジョセフには理由がある。アヴドゥルにも義侠心と使命感がある。花京院には決意がある。二度とあんな屈辱を舐めず、平和を求める理由がある。
あの二人とジョースター一族との繋がりは浅い。そもそも何が出会いのきっかけなのかもわからない。
ポルポとリゾットは、本当にDIOを倒すつもりがあるのだろうか。
もしも占いの結果を見て惰性で同行しているだけだとしたら、これほど迷惑なことはなかった。ポルポは一切戦えないし、リゾットの力もいざという時にしか揮われないのだ。不穏な要素を抱え込んでいるだけとしか思えなくなる。
占いを疑ってはいなかったが、とにかくポルポとリゾットにまとわりつく大きな問題が、花京院には見えなかった。たった一つ、それだけが引っかかっていた。
ポルポさんは、と独り言ちて寝返りを打つ。隣のベッドで眠るアヴドゥルに訊きたかった。
「ポルポさんは信頼できる人ですよね」
アヴドゥルに背を向けたのは、彼からの答えを聞きたくない気持ちもあったからだ。どんな答えを出されても、花京院自身が納得しなければ意味がない。
眠っていなかった男は、花京院の葛藤を見抜いていた。
「わたしは信頼している。おそらくリゾットを除けば、誰よりもわたしが彼女を信頼しているのではないかと思うほどに」
初めて目を合わせた時から、途方に暮れていた女を保護した時から、アヴドゥルはずっとポルポの本質を見極めて来た。彼女は白にも黒にも属さない。スタンド能力に巻き込まれ、時空を越えた女がどんな人物なのか、深い眼差しで内面まで透かして眺めたつもりだった。何か底知れない過去を持っていると察したが、悪い感情は一切湧き起こらなかった。
「リゾットのことも信頼しているぞ」
悪戯っぽく付け加えれば、花京院は気まずそうに身じろぎする。衣擦れの音がアヴドゥルの笑いを誘った。
「彼は誠実な男だ。冷静さは極まり、言葉も少なく、研ぎ澄まされているがな。ポルポがいつだったか言っていた気がするよ、"リゾットは優しい"と。……いや、そうだ、彼女は頻繁に言っているじゃないか。"リゾットは優しい"。今はポルポにしか発揮されていないが、いつか花京院、君にも解る時が来るだろう。ポルポもリゾットも、嘘をつかない」
「なぜですか」
何について問いかけたのか、花京院にも判別しきれなかった。
アヴドゥルは多くの意味から一つを掬い上げ、短く言う。子供に言い聞かせるような声だった。
「我々は『仲間』だからだ」
そうならいいと願った。
強く、信頼を望んでいた。

それはアヴドゥルも同じだった。
本人に直接訊ねるのは気が引けて、いつだったかアヴドゥルはポルポに耳打ちした。
「彼は信頼できるのか?君の口から聞きたい」
ポルポは驚かない。大きな胸の下で腕を組み、背筋をぴんと伸ばしたままアヴドゥルを見上げた。言葉に迷う様子もなかったので、アヴドゥルの懸念を全く理解していないように見えて呑気さに呆れたものだ。
アヴドゥルはポルポを信頼していたから、ただひと言肯定されればリゾットのことも信用するつもりでいた。ジョセフの決定に従うのと同じだ。信頼でき、考える方向が明確だから受け入れられる。
しかし彼女は容易な答えは返さなかった。
「アヴドゥルさん自身が見極めないと綻びが出ると思いますよ。私はほら、リゾットと親しいですから主観混じりまくりっていうか。だってめっちゃ仲良いんですよ。ハグしても怒らないし、ご飯作ってくれるし、買い物に行ったら荷物持ってくれるし。アホなことしても受け止めてくれるし。優しいでしょ?」
彼女の言葉に同意しづらさを感じたのは久しぶりだった。
「私はリゾットちゃんがすごく好きなので、いつかあなたは納得しなくなる。それなら最初から無駄なことはしない方がいいんじゃあないですか」
へらへらと笑いながら言った彼女に、それもそうだと思わされた。アヴドゥルはカッとなりやすい性格だと自覚しているし、ポルポのことを強く信頼してはいるが、何かがあった時にリゾットの認識を改め直す手間は誰の為にもならない。ポルポの意見だけで自分が信用されていたと知ったリゾットも、どう思うだろう。
アヴドゥルは後から、特に彼がどうとも思わないだろうことに気づいたが、この時はそう自省した。
恋人を疑われた彼女も少なからず嫌な気持ちになっただろう。
「すまなかった。急き過ぎたようだ」
アヴドゥルが謝罪すると、ポルポはアヴドゥルの腕を軽く叩いた。何を考えているかは読み取れなかった。彼女も大概、感情を隠すのが上手い。あけすけに見えて本当の部分は内側に封じ込めている。アヴドゥルは常々、感心していた。まだまだ若いのに、どんな荒波にもまれて来たのか。
もちろん彼は、この女が二度目の人生を送っているなどということは想像もしていない。恋人が疑われて傷つくどころか、わかる、と胸中で大きく頷いたことも知らない。

リゾット・ネエロにひたすらな優しさはないが、彼は気遣いのできる男だった。そしてポルポを、彼女が想像する以上に愛しているようだった。もしかするとポルポも知っているのかもしれないが、別段気にしていなさそうなので、アヴドゥルは少しだけ不安になった。大丈夫なのか、彼女は。知らぬ間に地雷を踏み抜いているのではないか。
一見すると、リゾットの行動は無味無臭で無感動だ。必要最低限の動きで取捨選択をする。アヴドゥルが物言いたげな視線を向けても平然としている。恋人たるポルポが馴れ馴れしく話しかけても、ジョセフがジョークを飛ばしても、無表情でさらりとしている。あるいは相槌だけを打つ。
「彼はとても……さっぱりしているな」
アヴドゥルが言うと、ポルポも頷いた。
「ねっとりしているよりは良いですよ」
そんな中でも、旅の寝食を共にすれば心の芯がわかる。リゾットは傷ついた仲間や疲労する仲間を見つけると、誰よりも先に彼らを前線に立たせないようにする。殿にも配置しない。常に誰かの背中を守っていた。
最大の配慮はポルポの為に使われているし、アヴドゥルたちに仲間の拘りもないようだったが、浪費するつもりもないのだと知る。
「(いや……)」
わかりづらいが、悟ることは可能だ。
ただ単に、この場にいる誰かには背中を預けたくないだけかもしれない。
しかしアヴドゥルたちにとっては、それでよかった。
リゾットはポルポを信頼している。心を傾けている。冷静でありながら、ポルポを横目で気にかけている。わざとこちらに反発することもないし、影のように物事を受け入れる。本当に嫌なものには近づかない。
それだけ理解すれば充分だ。
なぜならポルポが望まない限りリゾットは敵にはならず、また、ポルポはアヴドゥルたちの敵にはなろうとしないからだ。
リゾットからの『仲間』としての絆が確固だとは考えていない。彼は本当の身内や知り合い以外には心を動かさない。
ポルポは真逆だ。アヴドゥルたちを信頼し、好意を持ち、笑って過ごす。絆があった。彼女は嘘をつかない。
「(彼女の言う通りになったな)」
アヴドゥルはリゾットを信頼した。ポルポを信頼したのと同じ気持ちだった。
彼は嘘をつかない。
もっとも、と付け加える。
「語らないことはあるが、な……」
つい先ほどのことを思い出した。ジョセフのズボンの尻にガムテープがついていたが、一番後ろから見ていたリゾットは本当に、最後まで黙っていた。
まああれはポルポも黙っていたので、判断はしづらいのだが、これは"信頼に値する"沈黙だろう。