14 湯船で揺れる


バケツをひっくり返したような雨、ならぬ汗ともおさらばだ。ヤプリーンの村の宿で三部屋を取って爺孫とアヴドゥルさんと花京院くん、リゾットと私で分かれる。全員が全員、何よりもお風呂のお湯を求めていた。
リゾットは先を譲ってくれたけど、待たせるのも申し訳ない。身体も髪の毛も砂にまみれているからしっかり洗いたいし、時間がかかるだろう。
逆に考えるんだ、とジョースター卿が囁いた。まったく逆じゃないけど、同時に入ろうぜ。心配しなくてもセクハラなんか仕掛けないよ、さっき汗の伝うリゾットの首筋を堪能したので、癒し成分は足りている。
「気が進まない」
「正直すぎてびっくりだわ。でもたぶん皆も同時にお風呂に入ってるよ」
濡れてしっとりした洋服も、今からクリーニングに出せば出発にはぎりぎり間に合う。かなりの葛藤があったようだが、リゾットはそよ風を吹かせたくなる眉間に皺を寄せてから、そうかもしれないな、とテキトーな相槌を打ち服の金具に手を掛けた。私は交差するベルトチックな部分が外れる瞬間を捉えたくて彼を凝視する。粘着質な視線は綺麗に無視された。
水音に混じってため息も聞こえたけど、今度は私が綺麗に無視。細かいことは気にしないでフライアウェイ。
「リゾットちゃん、髪の毛洗ってあげよっか」
「いい」
つれない。
「お背中流します?」
「いい」
返事が短い。
「チューしよっか?」
「……」
今度は何も言わなかった。でも近づくと離れていくんでしょ、わかってるよ。こういう時のリゾットは私と同極の磁石に早変わりですからね。
ジョースターさんはこの宿のレベルにちょっぴり満足できないようだったが、ここは『アラブの辺境の村』と言われて想像するよりもずっと過ごしやすい所だった。お風呂も蒸し風呂ではなく、浴槽やお湯が使える馴染んだものだ。むしろ本当にこれでいいのか不安になるくらいだった。実はここって観光名所だったりするのかな。いやまさかそんなはずはない。ここに来るのはそれこそ第3部の大ファンくらいじゃあないだろうか、というひっそりした村だ。
「はー……」
溜めたお湯にお腹まで浸かる。あたたかさが身体と心をほぐしてくれる。リゾットは私が邪魔でリラックスできていないかもしれないが、私はバスタブのへりの冷たさでメリハリをつけつつ、完全に野性を放棄した犬と化していた。
「私たちはどうなるんだろうねえ」
なぜこの時代に来てしまったのか、なぜポルナレフだけが『逆行』という形だったのか、なぜこの旅に同行すると占われたのだろうか。そして、今頃みんなはどうしているのだろうか。
時間の流れが一部だけ並行していたら、私たちは数十日にわたる行方不明者として、8人だけでなくパッショーネからも捜索されているだろう。しかし、どんなに捜しても見つからず、手掛かりもない。スタンド使いによる何らかの攻撃だった場合、痕跡を見つけて誰かがその……敵の彼だか彼女だかを無力化してくれるかもしれないけど、それで私たちが戻れる保証もない。
ふたつの時が完全に切り離され、もしも"あちらでの瞬きひとつがこちらでの数十日"みたいなことになっていても、元に戻れなければ何の慰めにもならない。猶予はできたねと言えるかもしれないけど、こっちは変わらず時間が流れているので歳を取ったり太ったり痩せたりやつれたりしますし、誰かが誰かを置いていくことに変わりはない。ウーン。
私たちにとって最適なのは、この旅が夢であることなのかもしれない。
例えば、白昼夢。
例えば、精神だけが劇に没入してしまうような幻想。
それこそ都合の良すぎる夢だ。
どうなるのかと質問したって、リゾットは答えを持っていない。彼の方が物事を深く考えているとは思うけど、置かれている状況は同じだし、得ている情報も。
「(ん、待てよ)」
そういえばこの人、一瞬はDIO側に居たんだよな。初めにジョースターさんたちと意見を交わした時はDIOをあまり知らないと言っていたし、身体的特徴と"理屈では説明できない攻撃を受けた"という事実しか語らなかったけど、それはジョースターさんたちがそういった情報だけを求めていたからだ。
「DIOの近くに手掛かりになりそうな人はいなかった?」
お風呂なので、チョーカーは外している。さっきまでは布の下にあったフーゴちゃんからの愛の印を親指でなぞっていたリゾットは、手を止めず、視線を動かした。
「短い時間だったが、ほとんどをあの男の傍で過ごしたからな。他の連中はそれほど見ていない。DIOに忠誠を誓っていると豪語する男と、寝食の世話をしている男なら見かけたが、その程度だ」
ヴァニラとテレンスかな。彼らがDIOの前でどんな会話を繰り広げたのかめっちゃ気になる。掘り下げて聞いてみたが、リゾットの記憶は曖昧だった。
間接照明が作る微かな影を頼りに、仄暗い彫像のような美貌の吸血鬼と寝食を共にしていた彼は、肉の芽に支配されDIOの命令で出撃させられるまではぼんやりとしか物を考えられなかったそうだ。水底から音を聴く感覚は知らないけれど、表現するならそれに近い。なのによく私が判別できたなあ。愛かな。愛だね。あと何だかんだ言ってメローネやソルジェラの声でもちゃんと反応しそうなところがリーダーのリーダーたるところだね。
「承太郎くんのことも花京院くんのことも、アヴドゥルさんのこともジョースターさんのことも好きだけどさ」
首に触ってくるリゾットの手を取って、自分のほっぺに当てる。お湯であたたまった手のひらがぬくい。
あーあ、もう、現実が嫌になったのは久しぶりだ。さっさと平穏な日常に戻りたい。みんなとハグをして、ご飯を食べて、笑ってお金を稼いで旅行をして遊びたい。ギアッチョとホラーゲームをしている途中だったし、あの翌日はソルジェラの料理を楽しむ予定だった。フランス料理だぞ。フルコースモドキだぞ。
ホルマジオと買い物にも行ってないし、イルーゾォの笑顔も久しく見ていなかった。プロシュートが禁煙で苛々している横顔を眺めたいし、ペッシちゃんがカッフェを淹れて、メローネがそこにわざと砂糖を大量に投入する風景が懐かしい。すべて遠き理想郷。暗殺チーム成分欠乏症。ブチャラティの笑顔が見たいし、フーゴからの手紙を読み返したい。ナランチャに食事をおごって、ミスタのエロ談義に合の手を入れ、アバッキオに無理やりおっぱいを揉ませたい。ジョルノとプリンを食べたい。食べることばっかりだな。くそおおお、護衛チーム成分も足りない。ビアンカの怖さが懐かしい。ヤナギサワ俺だサークルチェック手伝ってくれ。ポルナレフにも会いたい。早く戻って来てくれ。
「早くみんなで帰りたいね」
万感の思いを籠めて、ほっぺで感じるリゾットの手のあったかさに頭の重みをかけた。ばかばかしい提案をしてみる。
「祈願のチューでもしよっか」
「そうだな」
短くて、低くて、柔らかな返事にがっくり項垂れる。
「うあー……」
リゾットは私のぐだぐだした気持ちが落ち着くまで黙ってそうしてくれていて、結局、チューはしなかった。