10 高校生とリゾット


新たに手に入れた車に乗り込む。
カトゥーに励む修行者に見せかけ放置されたスタンド使いズィー・ズィーのHELPを置いて、私たちはようやくパキスタンに到着した。なぜ敵の名前がわかったかと言えば、それは彼の免許証を見たからだ。車のスタンドは普通の人には見えるのだし、何かあった時に無免許で切られちゃたまらないもんね。彼はいわゆるゴールド免許だった。アヴドゥルさんの呆れ果てた顔が忘れられない。
「無事故……か。シャレにもならない話だな」
まったくだわ。
車は国境の町に辿り着く。この町は今までよりも静かだったが、異国情緒あふれる街並みは変わらない。人混みをかき分けて進み、ズィー・ズィーから強奪した車を二束三文で売り払い新しいジープを購入した。キャッシュでと言われて焦るジョースターさんは、ウルドゥー語で対応するアヴドゥルさんの慣れた空気に腕を組んで感心した。ウルドゥー語は大きく言ってしまえば方言のようなもので、細かい単語の違いはあれど、ヒンディー語が扱えればある程度の理解は可能なのだそうだ。どこの国でも言葉の仕組みはあまり変わらないらしい。
「さすがアヴドゥル、頼りになる男じゃ」
「僕には何を言っているのかさっぱりです。ポルポさんはどうです?」
「私にも解んないわ。英語だって得意じゃないのに、南アジアなんてもう、ちんぷんかんぷんも良い所よ。リゾットは?」
「解らないな」
「やっぱり難しいわよね。アヴドゥルさんは何か国語くらい喋れるのかな」
知っているものだけでも、アラビア語と英語と日本語と南アジアの言語がいくつかだ。一番最後の言葉は少ししか知らないと謙遜していたけれど、こうして会話ができるのだから充分だと思う。彼の基準はどこにあるんだ。それからたぶん、フランス語もちょっとなら話せると思う。3部でフランス人のポルナレフを相手にフラ語でお礼を言ったのは、ジョークや演出ではないと思いたい。日常会話程度ならこなせるんじゃないかなあ。マルチリンガル過ぎるわ。ぐねぐねしたあの文字だって問題なく筆記できそうだし。読めて書けて喋れるっておめさん、いったいどこを目指しているの。知識に貪欲ってだけでは済まされない有能っぷり。ああ、うん、ハンター文字やフォニック文字、魔女文字を勉強した厨二心とユーモアにあふれる私の話はしないでほしい。ちょっとだけ憶えているのが逆につらい。
「すぐに出発するのか?」
購入の手筈が整い、支払いを済ませたジョースターさんたちは、リゾットに首を振ってみせた。家出少女を香港へ送る手続きをしてから服を替え、旅の備えを補充する。危険を前に持ち出しきれなかった荷物はランクルともども爆発炎上して灰になったことだろう。そこに私たちの死体が並ばなくて本当によかったと思う。
「リゾット……さん、あの時はありがとうございました。……その。……判断を」
花京院くんがリゾットに小さく頭を下げた。私はさりげなくその場から離れ、承太郎くんに近づく。ふたりのやりとりに注目しすぎるのも失礼だ。次第に声をハキハキさせていく青年が「リゾット……さんはポルポさんのことしか守らないのかとばかり」と言っていて、私並の偏見に笑いかけたのは余談。
学生服はガソリンに濡れ、血が滲んでもいる。リゾットもお気に入りの(想像だけどね)コートを、いや、コートか?アレはコートでいいのかな。本当にコートなのだろうか。コートの定義がわからなくなって来た。少なくともグッチでは売られていない上着を、ガソリンの粒で台無しにされている。可燃性のにおいをぷんぷんさせる一行が固まって服屋さんを探している様子は、実に犯罪チックだ。
ああっと、日焼け止めの塗られていないリゾットの肌の為に言っておくと、今の彼はシャツとパンツ(イントネーションが大事よね)姿だから、バッテン印が浮き上がる日焼けあとが残る心配はない。いざとなったら私が塗ったげてもいいんだけど、えっと、うん。ヤバそうだから自重した。
しかしこれは、アレかな。某テイルズシリーズの称号付け替えシステムのように、3部の旅仕様にビジュアルを変更したリゾットが見られるフラグかな。

と、思ったけれど。
リゾットの服装は以前と変わらないようだった。承太郎くんが学生服を仕立ててもらったのと同じように、国境の町で最も丁寧と言われるクリーニング屋さんに即行の仕事を頼んだのだ。残念に思うと同時に、まあ寝る時やちょっとした移動時には別の恰好をしているからいいか、と欲望を鎮める。いいよいいよ、学生は学生らしく、そして暗殺者は暗殺者らしく。暗殺者らしさという言葉の意味が今、大きく揺らいでいる。一応街中だから、コートは腕にかけて手持ち。
「うわあっ」
花京院くんが悲鳴を上げる。パッと視線をやると、たくさんの果物を抱えた男の人と花京院くんがぶつかりよろめいていた。
一番に駆け寄ったのはアヴドゥルさんで、すぐ謝罪を述べている。公用語とは違うが英語も通じると教わっていた花京院くんも、たどたどしく頭を下げた。男性は仕方ないなあというふうに笑う。ぶつかって傷んだ果物をひょいと花京院くんに投げ渡すと、荷物を抱え直し去っていった。観光客だと思われたようだ。
花京院くんが受け取った果物はザクロだった。二人に注目する私たちを見まわしていたことから、もしかすると誰かと分け合えるものを選んでくれたのかもしれない。
「親切な人でしたね……」
「荒んでいた心が癒されるな」
「これ、どうやって食べるんですか?」
はちきれそうな果実を触って確かめる。私にも触らせてー。
「意外とかたいですね」
「そうだね」
ナイフを取り出したのはジョースターさんだった。ザクロに切れ込みを入れ、えいやと割り開く。現れた宝石のような実の粒はつやつやと輝く。
「ポルポは汁が飛ばんように気をつけるんじゃぞ。シャツが汚れるからな」
はあいと返事をした。淡い色のシャツだと、ちょっとの染みでも目立ってしまうもんね。
どこかひんやりした粒を食べる。ぷちっと果汁が弾けた。
「種はどうするんでしょう」
「そのまま食べちゃえるよ」
「へえ、ブドウやチェリーとは違うんですか」
出しても良いけど、ここまでちまちましていると面倒くさいから私は食べちゃう。食い意地が張っているわけではない。スイカの種は出すし、ブドウもチェリーも出すよ。
6人で食べていると消費が早い。残りが少なくなって来たところで、指先をほんのり果汁で濡らした花京院くんがリゾットを窺った。
「イタリア語では、ザクロを何と言うんですか?」
「melagrana.」
「えッ? すみません、聞き取れなくて……もう一度いいですか?」
「"メラグラーナ"だ」
「へえ……」
私も口を挟む。
「ちなみにチェリーはチリエージアっていうんだよ」
「あ、はい。それは知っています」
知ってんのかい。

道端でザクロを食べ終わり、ジョースターさんが残骸を捨てに行った。車の手配の問題でもう少しここに滞在しなくてはいけないらしく、各々、お互いに目の届く範囲でプチ観光をしている。
私も自由に動くとしよう。でもその前に、リゾット成分が足りなくなってきているのでエネルギーを補充したい。リゾット成分が欠乏するとやる気が出なくなるんだわこれが。
承太郎くんと会話をしていたリゾットを気にしつつ缶ジュースを飲んでいると、15分もしないうちに彼らは会話に一区切りをつけた。承太郎くんが少し口の端を持ち上げた気がして二度見したが、もう気のせいで片付けられるほど小さな笑みは消えてしまっていた。今私は国宝を見失ったかな?レッドブルみたいな味のジュースにかまけている場合じゃない。これが廃ビルだったら後ろからステルス装備の侵入者にフォークでやられているところだった。
リゾットが屋台に向かう。何か小さな甘いものを買ったらしかった。おいおい食べるのか、君が食べるのか。ちょっとおねえさんに身体を向けながら食べてくれないかな。小さな甘いものを小動物みたいに食べてるリゾット絶対可愛いっていうかヘヴンっていうかアルカディアっていうか、リゾットの仕草で宇宙がヤバいっていうか。私は筋肉いっぱいの男性がギリギリひと口で食べきれそうなものを二、三回に分けて食べる仕草が大好きだ。ジェラートのそれを目撃しても何も思わなかったけど、自宅でリゾットが苺をかじっていたのを見て目覚めた。えっなにそれ。もうほんと、私のリゾットちゃんは最強なんだ。
こちらにやって来て私にも一つお菓子を分けてくれたリゾットちゃんは、期待通り砂糖菓子をかじった。粉砂糖が砂まみれの地面に数粒落ちる。私は食べはぐられた砂糖の行方など気にかけず、できるだけ温和な笑みを浮かべる。おいしいねと言うと肯定が返った。ひいいい、おいしいんだ。おいしいんだ。大事なことなので二度唱えました。おいしいんだ。あっ、これじゃあ三度だ。
「いただくね」
確かに、砂糖の塊みたいなお菓子はおいしかった。疲れた身体によく効く。最大まで高まれ、私の小宇宙と書いて血糖値と読む身体的エネルギーよ。
身体的エネルギーで思い出した。私は精神的エネルギーを補充する為にリゾットを見ていたのだ。横顔の目視でもある程度は効果を感じられるが、やはりここは肉体的接触に限る。携帯型充電器と業務用充電器のどちらが急速充電されるかって、そりゃ試してみるまでもない。
私はお菓子を持たない綺麗な方の手でリゾットのお腹に触った。唐突だった自覚はある。
新調された例の上着はまだ羽織っていない。濃い色のシャツは日差しからリゾットの柔肌を守っている。念の為にアレなんですけど、柔肌というのは私の主観だ。
布の上から腹筋を撫でていると、リゾットが目を細めて私の動きを目で追った。手首を掴んで下ろされたのでもう一度挑戦する。筋肉の形に興奮するわ。私は筋肉フェチじゃあないけど、ここまで綺麗に鍛えられていると感嘆のため息しか出ない。
「ちょっと我慢してね。私は今リゾット成分が足りなくて、こうやって充電しないとこれから頑張れそうにないの」
リゾットは"またいつもの発作が出たか"みたいな顔をした。出たんですよ。ムスコが危篤なんです、リゾットちゃんがいないと危険なんです、リゾットちゃんをください。
しばらく撫でさすっていると、ムスコの具合も良くなってくる。下ネタではない。ついでにちょろっと胸の方まで撫でさせていただこうかとシャツのボタンに指を滑らせると、リゾットは胸筋という真実に到達する直前の私の手を握って、下ろすでもなくそのままみぞおちの辺りで放置した。中途半端に手が浮いている。ゴールドエクスペリエンスオサワリキンシレクイエムかな?力が強くて手を引き抜けないのでそのまま彼を見上げた。
「やっぱり胸はダメ?」
大事なのかな。
「そうだな」
大事だったようだ。じゃあお腹ならもう少し触っていてもいいかな。
邪なお願いをするつもりだったけど、何やら手を握られていると安心感に満たされる。うーむ、これはこれでベネかもしれない。
少し手を動かして指を絡め、下ろして手を繋ぐ。ぴったりくっついて「ああーリゾットちゃんめっちゃ癒されるーああー可愛いー好きだー」などとぺらぺら喋っていると、リゾットは律儀にテキトーな相槌を打ってくれた。束の間の、魂の休息だ。
そんな私たちを承太郎くんが胡乱な顔で眺める。


承太郎が男に話しかけた理由の中には、暇つぶしの意味も込められていた。どうせ黙って煙草を吸っているだけならば、数m離れた場所で冷たい缶ジュースを飲む女に気を配る男と言葉を交わして肴にするのも悪くはない。今日の承太郎はそんな気分だった。
男は承太郎の視線に視線を返した。リゾット、と呼ぶのもおかしい気がする。パキスタンまでやって来たというのに、承太郎はいまだにリゾット・ネエロと数えられるほどしか会話をしたことがない。もしかすると忘れているだけかもしれないが、影のようにひたりと立つ男は承太郎に痕跡を残さなかった。どこか煙に巻かれているような感覚がある。くゆらせた紫煙が顔の前を横切ったが、リゾットはふい、と顔を逸らしてやり過ごした。
「(そんなに気になるなら行きゃあいいんだ)」
承太郎もポルポを見た。リゾットはそこまで解りやすい態度をとってはいないが、優先順位の固い男だ。どうせ承太郎よりも能天気な女の方が大切なのだろう。
そこまで考えて承太郎はハッとした。自分がリゾットに対してどんな思いを持っているのか、自分が掴めない。敵ではないが仲間と表現するには脆く曖昧で、同行者として位置付けるよりも深い。彼からどう思われたいのだろう。自分が傾ける信頼の分だけ返されたいのだろうか。これほどまでに子供っぽい感情が湧き上がったと自覚したのは久しぶりのことだ。他人からの評価などは関係がなく、自分が自分を認めていられれば充分だと思っていた。今だってそう思っている。しかし、承太郎が少なからずリゾットへ話を持ち掛けたいと考えたからには、そこには確かに絆があるのだ。
「テメー、煙草は吸えんのか?」
愚にもつかない話題だと自嘲したが引き返すことはできない。
「吸える」
愛想のない男だ。
恋人にあの女を選ぶシュミも理解しがたいが、ポルポによるこの男の評価にも歩み寄り難い。可愛いのひと言でまとめれば何でも済むと思っているらしい。聞いている承太郎からしてみればくだらない形容でしかない。リゾットのことを可愛いと言い、承太郎のことを可愛いと言い、花京院のことを可愛いと言う。誰に対しても平等に与えられているようで、自分の胸に深くある本当の評価のうわべだけをすくい取って、まるでそれが全部だと、自分を浅く見せるようにしている。承太郎にはそう感じられた。彼の中では、奇妙な縁でアヴドゥルやジョセフと繋がるポルポという女は、一見するところよりもずっと賢明な人物として存在していた。真実かどうかは誰にも解らないことだ。少なくとも承太郎の持つ印象は、そんなところである。
あのポルポが選ぶのだから、リゾットにも『可愛いところ』はあるのだろう。いつか列車で美点を挙げようかと躊躇なく目を輝かせた姿を思い出す。
しかしやはり、愛想のない男だ。承太郎は自分を一瞬だけ棚に上げた。
「何を吸うんだ?」
「自分では買わないから、その時々によって変わるな」
「味の良し悪しがあるだろうが」
「大抵の場合、俺に煙草を渡す奴とは好みが近い」
「知り合いに貰うワケか」
「そうだな」
誰を示しているのかは察しようもない。ただ、承太郎は驚いた。この男にもモクと火をやり取りするような存在がいたことにだ。それも複数いる。
「一人もダチがいねえように見えてたぜ」
「よく言われる」
正確に言うならば友人ではない、とリゾットは言わなかった。承太郎に詳しく説明したところで話が広がり、説明が面倒になるだけだ。
承太郎はリゾットが『余計なこと』に突き当たって黙り込んだことに気づいたが、あえて追及はしなかった。こちらもまた、不干渉を貫く。上澄みをぐちゃぐちゃにかき混ぜてスプーンですくい取ったような関係が、徐々に在り方を明確にしてゆく。
「……」
僅かな沈黙ののち、承太郎はさすがに聞き返した。
「誰にだ?」
リゾットは少し考えたあと、「友人だ」と言った。あまりにも似合わない響きだったので、口の端を持ち上げて笑った。
屋台の売り子が承太郎たちに呼びかけ、自然と終わりを迎えた会話と一拍を置いて、リゾットは菓子を三つ買った。すれ違いざま、承太郎に渡す。
自然な動きだったので、承太郎はつい受け取ってしまった。
おい、と呼び止めかけてやめる。リゾットは振り返っても何も言わないに違いない。
やり取りに気づいていないポルポから目を逸らし、口に入れた砂糖菓子は、煙草の苦味と合わなかった。