08 インドで


承太郎くんが新しい煙草を買った。スッとした匂いの細い煙が砂埃に混じってなくなる。半分も吸わないうちに靴底で踏みつぶした吸殻を、小言混じりにアヴドゥルさんがゴミ箱に捨てた。
そろそろ身体も凝ってきた頃だ。
インドへの長旅は終わったが、先はまだ長い。ここらでちょっくら異国の甘いものでも飲みませんか奥さん。
「わしはどちらかというと旦那さんじゃよ」
「じゃあ旦那さん」
「イヤイヤ、こう、しなを作ってだな」
「私にお茶をご馳走してくれませんか、旦那様ぁ」
「よーしよしよし!2杯か?3杯がいいのか?ポルポは欲張りさんじゃなアー!」
いやしんぼですみません。1杯でいいです。
白い目で見られてもポルポさんはめげないのだ。
インドに慣れたアヴドゥルさんが見つけたお店に入り、テーブルを囲む。メニューの字が読めなかったので一抹の期待を込めてリゾットを見上げたが、彼も読めないようだった。だよね。たぶんこれが普通の外国人旅行者の姿だと思う。たどたどしくだけど読めているフランス人がおかしいんだよ。昔に勉強したのかな、アヴドゥルさんの影響で。
カップから溢れんばかりに注がれたチャイは、実際に溢れてソーサーに零れていた。お皿には四角形に切られたお菓子が載る。お菓子は牛乳とお砂糖からつくられ、砕いたピスタチオが混ざっていた。銀箔が張られている物もあるとアヴドゥルさんが説明してくれたので、インドを出る前にもう一度お店を探そうと思う。
リゾットがカップに口をつける。花京院くんが続けて飲み、ジョースターさんは最後まで渋っていた。私がイタリアでチャイティーの素を使って淹れるものより独特の味が深かった。あとちょっと味がわからないくらいに熱かった。冷まそうとソーサーに置く。
「味が合わなかったかな」
残念そうな顔のアヴドゥルさんに慌てて弁解した。熱いのが苦手なだけで、おいしいです。
どうだ、と水を向けられ、承太郎くんが口角を持ち上げる。リゾットも微かに顎を引いた。おいしかったのか。リゾットのおいしい顔をもっと見ておけばよかった。もしかすると、角が立たない返事をしただけかもしれないけど、どちらにしても見ておけばよかった。お菓子しか見えてなかった。
ぎこちなく「おいしい」と言ったのはポルナレフだった。最低限の言葉しか使わず、強張った顔でカップを睨みつけている。
「大丈夫?」
これから起こる出来事に、おそらく彼は自分から立ち向かってゆく。彼が一人にならなければハングドマンは襲撃を掛けない。けれど、インドから離れるまでの間に必ず訪れる好機を狙ってタイミングをずらすだろう。過去の、そして未来の知識と経験があるポルナレフにとっては、道筋が変わってしまえば不利になる。彼はここでわざと相手にチャンスを与える、と思う。私が彼ならそうするんだけど、どうだろう。
何だっけね、トイレに行くんだっけ。
私なら、誰かに一緒に来てもらう。ガラスを溶かし、水を蒸発させ、反射を遮れそうなアヴドゥルさんを誘ってトイレに行く。怖いじゃん。怖いよ。鏡が関係するスタンドはみんな怖いよ。イルーゾォ呼んで。いや、呼ばないで。あっやっぱり呼んで。
ポルナレフは誰にも助けを求めなかった。
「大丈夫だ。少し腹が痛くてね」
がたりと立ち上がり、かたい表情を隠しトイレの場所を店員に訊く。訛りのある英語と人差し指が扉を示した。私はどうしたらいいんだ。いってらっしゃいしか言えないぞ。エボニーデビルを小指一本で退けたっぽいポルナレフなら大丈夫かなあ。
甘いな、と呟いたリゾットにお菓子を勧め、ぬるくなってきたチャイを飲むと、ぼんやり疑問が湧き上がる。一発で仕留められなかったらどうなるんだろう。
アヴドゥルさんと目が合った。仕留められなかったらこの人はポルナレフを庇って瀕死になるわけで、瀕死になるとこの人が何やらこっそりとお買い物に出かけることになるわけで、そのおかげで海を渡れるわけで。はあ、お菓子がおいしいなあ。
花京院くんがジョースターさんのカップに目をとめる。湯気の消えたチャイは一口も減っていない。
「ジョースターさん、好き嫌いしないで飲んでみるとおいしいですよ」
「ウマイのは知っとるんじゃよ。ただ見た目がのォー……」
ちょっと気持ちわかるわ。リゾットは濡れ布巾でカップの周りを拭っていたし、私も見た目には引いたもん。飲んでから、お水の違いにお腹が耐えられるか気になったのもドキドキポイントが高いところだ。
ポルナレフは海を渡る為にわざとハングドマンを逃がすような人ではない。どうでもいいから剣をしゃぶらせたいって顔をしていた気がする。いや、しゃぶらせる手間も惜しんでヌッコロしてしまいそう。彼には実力があり、先の知識も持っている。
「おいしいねえ」
頭がフットーしそうだったのでノンキにチャイを飲み干すことにする。
ようやくジョースターさんがカップの取っ手を指でつまんだ時、ガラスを割る音がした。一番最初にリゾットが反応していて、さすがに笑えない。
「どうした、ポルナレフ」
異様なほど冷静にトイレから戻ったポルナレフに心配そうな声をかけたのは、他の誰でもない、アヴドゥルさんだった。むき出しの肩に手をかけ、一刻も早く彼の意識を"どこか"から逸らさねばならないというように強く引く。
アヴドゥルさんとポルナレフの仲違いは起こらないはずだった。ここで意見を違わせるデメリットを、ポルナレフはよく知っている。
そう思っていたのだけど、仇を見つけた人間はそこまで冷静にはなれない。彼の激情は、建物を抜け出して街の人混みを睨む険しい眼に表れていた。誰に手を差し伸べられても拒絶を選ぶ頑なさがある。全員が危うさを感じ、息を呑んだ。
「ポルナレフ、冷静になるんだ」
彼の言葉は正しかった。誰が見ても、今のポルナレフには"嵐の前の"と表現するに相応しい不気味な静かさがある。落ち着いて見えても内心は違う。今までは朝の湖畔のようだった態度は、瓶の中で激しく荒れ狂っていた。
「お前らしくないぞ」
このひと言が瓶のふたを開けてしまった。
肩を揺すられた男は強く振り返る。
「お前に"俺"の何がわかる?」
放たれた言葉がアヴドゥルさんを突き刺した。唖然と手を離すしかなくなり、ポルナレフが一歩遠ざかる。砂を踏み、リゾットを見た。私を見た。飾りや遠慮、人生の経験では補いきれない感情に、どうしたらいいのかわからなくなる。こんなポルナレフは一度も見たことがなかった。ディアボロを追いつめたあの時でも、これほど感情をあらわにはしていなかった。
行って欲しいとも行かないで欲しいとも言えない。茶化すなんてとんでもない。
私が迷っていると、ポルナレフは深呼吸をしてから目を伏せた。
「君たちにもわからないだろう。"私"の気持ちは誰にもわからない。止めないでくれ、すべてを終わらせて必ず戻る」
「だが、……だが、ポルナレフ……お前一人では……」
「いいんだ、アヴドゥル」
一転して穏やかな声になる。怖い。フラグが怖い。必ず戻るって言うのは良くないよ。覚悟を決めて落ち着いてしまうのも怖い。
「リゾット、すまないが宜しく頼む。私の穴は彼が埋めるだろう」
や、やめて、こっちこそ頼む。やめてくれ、誰かポルナレフから死亡フラグを奪ってくれ。フラグが現実に作用すると本気で思っているわけではないけれど、こんな状況では藁にも縋りたくなる。
最後に私の肩を、ぽん、と叩いて、砂埃にまみれながら、ポルナレフは歩き去る。アヴドゥルさんの手が所在無く下ろされた。
「困ったなァ」
思わし気な声音とは裏腹に、最初から最後まで口を挟まず物わかりよくポルナレフを見送ったジョースターさんは、腕を組んで困ったように片眉を上げた。
「こっそりポルナレフを追うしかないぞ」
「ポルポさんはリゾット……さんと一緒にここで待ちますか?」
そうしたいのは山々だし、そうすべきだとはわかっているんだけど、こんな私にも吐き気のするほどの心配の気持ちはある。
「みんなには悪いんだけど、行きたい。そしてリゾットにも申し訳ないけど、付き合ってもらえないかな」
「俺に許可を取る必要はない。そうだろうとは思っていた」
「マジでか。私のこと知りすぎだね」
花京院くんがジョースターさんと顔を見合わせた。アヴドゥルさんはいまだにポルナレフショックから抜け出せていないようで反対しなかったし、承太郎くんはポルナレフが去った方向に目をやっている。
「見えなくなったぜ」
「イカンイカン。追うか」
「はい。アヴドゥルさん、ポルポさん、……リゾット……さん。行きましょう」
駆け出した青年とお爺ちゃんの三人に続いて小走りに足を動かす。
ところで花京院くんは、いい加減にリゾットの呼び方を呼び捨てにするのか敬称をつけるのか定めてあげた方がいいんじゃなイカ。打ち解けて欲しいでゲソ。
「……」
暑さのせいではない汗が一筋伝った気がして、知らず指で顔をこすっていた。


砂塵が風に荒らされ、視界を守る為に腕をかざす。
曲がり角の向こうへ路地を突き抜けると、そこには二人の男の姿があった。片方は威嚇か、片割れの援護か、すぐそばにあるガラス窓を撃つ。腕を動かし、ぴたりと照準を合わせ、ハットを押さえていない方の手が発砲の反動で跳ねる。
的確にポルナレフを狙った弾丸は、軌道を変えて彼の眼前へ迫る。
「俺の弾丸がまっすぐ飛ぶだけだと思ったら大間違い……何ィ!?」
不規則な動きを『経験』で察していた男はチャリオッツのレイピアを横に構え、得意の剣技で弾丸を両断した。充分に水たまりから離れ、西部風のガンマンに切っ先を突きつけ冷静に言う。両右手の男を出せ。
ポルナレフの様子は、アヴドゥルさんたちが知る態度よりもずっと荒々しかった。妹の敵を捜していると告白した香港でもここまでの激情は見せなかった静かな男が、今は激昂している。瞳が燃え、憎しみは抑えきれないが、剣はぶれない。熟達した技能がたったひとりを求めて慟哭しているようだと、私のポエミーな部分が囁く。リゾットと承太郎くんに庇われる情けない私は、アヴドゥルさんの服の裾を引っ張った。ポルナレフの意を汲んでひとりで戦わせてあげたい気持ちもあるけど、相手は2人がかりで、片方はクズだ。2対1を1対1にする程度の手出しならしてもいいのでは。そう思う私自身は手出しできない弱っちさを誇るので、とても悔しいし情けない。こればかりは例えお金があったとしてもどうしようもない。ここまで戦いの場が用意されてしまったら札束ビンタくらいしか攻撃の方法がないし、秘奥義はたぶん靴下に硬貨をぎっしり詰めて振りかぶるアレだ。やったことないけどアレは本当にヤバいんだよ。スタンド使いに勝てないだけで。
よろりと一歩前に出た私の腕をリゾットがすかさず掴んだ。動きが早いし力が強い。理解され過ぎている。
動揺から立ち直ったアヴドゥルさんが両手を持ち上げ、スタンドの炎を舞い上げた。偶然にも地面を舐めた炎の縄は、二撃目の弾丸を熔かすに留まらず水たまりをも蒸発させた。これでいいのかはよくわからないけど、J・ガイルがアヴドゥルさんの背中を刺すことはなくなったわけだ。よしよし、負傷者は少ない方が良い。
湯気が取り払われ、ホル・ホースの動揺が伝わり、私はポルナレフを見た。ポルナレフは炎が巻き上がる前から水たまりがあった場所を見ていて、消えたそれに驚きアヴドゥルさんを見た。目を見たようだった。
途端に彼はハッとする。
「アヴドゥルッ!!何も見るな!!」
「どうしたポルナレフ!?」
はい?
ぽかんとしてから、背筋が粟立った。ハングドマンは光の反射を利用して動く。水たまりからポルナレフの目を経由していたスタンドは、ポルナレフの目から、光が反射する場所にならどこへでも動ける。そして今、ポルナレフはアヴドゥルさんの瞳を見てしまった。
「あ……」
アヴドゥルさんと目を合わせたまま、ポルナレフは身体を袈裟懸けに切り裂かれた。
血が噴き出る。刃が深く突き刺さったのは主に腰から下の部分で、太腿から激しく出血したポルナレフのズボンが赤黒く染まっていく。裾からはつうっと赤いものが垂れて、うっ、見ていて痛くて、こちらまで呆然として、ポルナレフ頑張って、あんたがここで死んじゃったら私やリゾットやジョルノたちはどうなっちゃうの、このターンを乗り切ればJ・ガイルを針串刺しの刑に処せるんだから。次回、ポルナレフ死す。デュエルスタンバイ。雑念が嵐のように吹き抜けて、何も考えずにこう叫んでいた。ポルナレフなら一撃でやってくれると確信があったのかもしれない。鈍く光を反射する弾丸を放つ男も、周りにはガラス片も、車のメッキもあったけれど、J・ガイルはこちらに注意を向けるんじゃないか。今、奴は確信したのだから。ポルナレフに近しく、スタンドの正体にまったく理解が及んでいない我々の中に潜んだ方が簡単に敵を御せるのだと。
「ポルナレフ!……アヴドゥルさん、……"助けて"!」
あまり論理的は思考ではなかったけど、とにかくそのようなことを考えていた。
ポルナレフに駆け寄ろうとしたアヴドゥルさんを引き留める。こう言えば必ず立ち止まるとわかっていた。ハッと振り返ったアヴドゥルさんとガッツリ目を合わせると、確かにうごめく異形の影があった。夢の中で会った、ような?それくらいの、気のせいで済ませてしまえる感覚だけど。
原作知識があることがちょっとでもバレたら困るなと、ずっと思っていたし、今だって思っている。ずっこい人生を送っていたなんて誰にも言いたくはないじゃんか。相手にも自分にも気まずいものがある。私の人生は私が自分で選び取って来たものだが、『原作』を参考にしていた部分も無きにしも非ずっていうか、現に私の周囲にいる彼らの人生は大きく変えてしまっている。卑怯が露呈するのが怖いし、打算的に動いている自分も時々ゲロ以下のにおいがする気がして怖い。
こんな弱音、久しぶりだ。自分と向き合ってもペルソナをゲットできるわけじゃあないので、見なくても良さそうな現実とは背中合わせで生きてきた。
光の反射で見つめ合った私たちのチャンスをポルナレフは逃がさない。咄嗟にこちらへ移動しようとしたハングドマンの軌道を見切り、躊躇なく銀の騎士の甲冑を脱ぎ捨てた。残像を残しスタンドが走り、瞬きをする前にすべてが終わった。
肉を切り裂く音はしなかった。どこかから悲鳴が聞こえただけだ。本体は、ここから遠くないどこかにいるらしい。
「おい、J・ガイルの旦那……?」
ホル・ホースが口をあんぐり開けた。受け入れがたい現実ってあるよね。私も君と同じタイプの汗をかいているよ。緊張と驚きと恐怖だ。
柄にもなくか弱い乙女のように、いや、私は最初っからか弱い26歳だったわ。か弱い乙女。小鹿のような乙女。そんな感じで膝から力が抜けてふらりと立ち眩んだ。リゾットが後ろから抱きとめ、腰を抱いて支えてくれる。ありがとね。できればこのまま寝かせて。
ポルナレフの肩が大きく上下し、彼はどしゃりと膝をついた。砂地に血が落ち、全員が彼に走り寄った。私はビビッてへろへろになっていたので、私に構うな置いてゆけ、と戦隊モノのイエローレンジャーな気分でリゾットの腕から抜け出した。
「リゾット、血をとめてあげて……。ポルナレフは、行かないと」
「血……そうか!鉄分か!わしからも頼む、リゾット」
「解った」
本当に短すぎる返事だ。片手を持ち上げたが、狙いを定めたのかは知らない。血の流れが無理矢理塞がれ、ポルナレフが真っ青な顔でゆっくりと立ち上がった。私以上にバランスの悪い立ち方で、近くにいた承太郎に手を借りている。
「すまない、不覚だった。奴のスタンドが『光』を利用したものだと、察しはついていたんだ。奴は鏡を利用して私を襲った。だが、鏡の中に世界など、……まあ、ない」
言葉を濁したポルナレフを見て乾いた笑いがこぼれた。まあね。まあ、ないよね。うん。
「ホル・ホースが窓ガラスをぶちまけただろう。アレを見て確信したよ……。ああ……、ここから先は後にさせて欲しい」
「……勿論だ。声はあちらから聞こえた。心配はないだろうが、承太郎と花京院は彼が歩く手助けをしてやってくれ」
アヴドゥルさんはしっかと頷き、ポルナレフの背を強く叩いた。痛いぞ、とポルナレフが血の気の失せた顔で笑った。
承太郎くんと花京院くんがポルナレフの歩みを支えて去っていく。長年の砂風でぼろぼろになった遮蔽物のずっと向こうに居るに違いない。身体を真一文字に切り裂かれ苦しむ男を、もうこのポルナレフは見誤らない。
いささか気分の落ち着いてきた私は、ホル・ホースに向き直った。アヴドゥルさんがスタンドを出し構え、いつでも迎撃するぞと余裕の表情を見せる。
ガンマンはこちらに女が居て、J・ガイルが使い物にならないことを覚ると、真剣な面持ちで銃を消した。
「俺たちの……いや、俺の中には代々伝わる戦法ってやつがある。バカにしていたが、今だけはその秘術を披露するしかねえようだぜ」
ホル・ホースは素早く一歩踏み出し、「むッ!?」とアヴドゥルさんが火を放つのも見ずに勢いを反転させて踵を返して走り去った。
「三十六計逃げるに如かず!ヒヒヒヒ、あばよアヴドゥル、それからナイスな姉ちゃんよ!」
砂煙を立てて背中が消えて行った。追いかけるのもアホらしくなる逃げっぷりだった。
「……ジョースター家に代々伝わる戦法と似てるなア」
ジョースターさんはその感想でいいのか。

こちらも急いでポルナレフたちの後を追う。消えかけの足跡とジョースターさんの勘、声が聞こえた方向を正確に示すリゾットの活躍によって、私たちは苦労せず3人の姿を見つけた。彼らの足元には、血だまりが広がる。
ポルナレフは毅然と立っていた。
「……地獄で刑を受けろ」
そう言った彼自身、死体に背を向け私たちに近づく一歩目でバランスを崩し倒れ込む。一息に失った血が多く、ずっと貧血状態だったのだ。アヴドゥルさんが倒れ込んだ彼を腕に抱き、「病院へ」と引きつった声で言った。頷いたジョースターさんがその辺に乗り捨ててあった車を動かし、排煙が倒れたJ・ガイルを黒く煤けさせた。
「ポルナレフさん、目を開けてください。今は寝ちゃダメだ」
「ああ、……大丈夫だ、起きているよ。だが、少し疲れた」
泣きかけの高校生に向かってフラグみたいなこと言わないで。
リゾットがポルナレフの首筋に手を当てる。どうなの、ポルナレフの血液型って何だっけ。輸血の必要があるのかな。
「私が……」
ポルナレフが痛みと脂汗をおして口を開く。何を話し出すのかと思えば、それは彼がハングドマンの正体を見抜いた理由だった。
彼が私の事情を何も訊かないつもりでいるのだと気づいたのは、数節のもっともらしい説明を聞く途中だ。ポルナレフは私の名前を出した。
「ポルポも、おそらく私と同じように考えたのだろう……。まだ少ししか旅を共にしていないが……判断に優れている……。経験も感じる……」
言葉が詰まって出なかった。ポルナレフを見つめることしかできない。ぜえぜえと弱くなっていく呼吸の音が車のエンジン音に負ける。
待って欲しい、ジャン・ピエール・ポルナレフ。それじゃあ私が肉の芽の呪縛の効果を弱める能力があるっつう誤解に加えて鋭い洞察力と観察眼、推理能力を持つシャーロック・ホームズ的存在だと思われてしまうじゃないか。
いや、そんな場合じゃない。この際、勘違いされようとなんだろとどうでもいいや。
リゾット以外の全員が彼の説明に頷いている。わかったと。君が言うのならそうなのだろうと、血を失って冷たくなった手や顔に触れながら言っている。だから頑張れと励ましを掛けている。ちょっと待ってよ。まるでこれから彼が死ぬような言い方をしないでほしい。今わの際にある人間の言葉を誰もが信じるように、無条件な信頼を示さないでほしい。ポルナレフは死なないし、こんなところでこんな理由で死んでいい人ではない。
敵のスタンドの正体を知った今、アヴドゥルさんの罪悪感はピークに達していた。反射的に忠告を聞き入れられなかった後悔と、能力を見抜けなかった自責が彼を苛む。揺れる瞳を瞼に隠し、歯を食いしばる。
「待ってよ、……ポルナレフは……」
この世界で彼が死んだらどうなるんだ。え、本当にどうなっちゃうの。逆行なんてしたことがないからちょっとわからないですね。ノーセンキューAA略で動揺しまくる。待ってくれよ。リゾットやスタクルと同じように、ポルナレフは死んじゃダメだろ。原作キャラだからとか、5部の時間軸で生きる人だからとか、そういうのはどうでもよくて、ポルナレフは死んじゃダメだろ。私の考えが特別におかしいわけじゃない。大切な友人が遺言のようにこちらをフォローしてきたら、狼狽えるのは当たり前だ。
承太郎くんが呼吸の弱さを指摘した。冷静に見える彼も、帽子を深く下ろして表情を見せない。なんだこのお通夜ムード。ねえ、本当に何。なんなんだ、これ。
苦しむポルナレフは病院で担架に乗せられるまで、もうひと言も喋らず目を閉じていた。
嘘だろ承太郎、いや、ポルナレフ。


乗り捨てられていた車を血まみれにしてからまた乗り捨て、私たちは病院に駆け込んだ。
責任者であるジョースターさんが集中治療室のナースに呼ばれ、中へ入る。ドアが閉まると、中は見えないし声も聞こえなくなる。
廊下の椅子に腰かける一行は憔悴しきっていた。見回す私もリゾットの手を握りしめている。黙って何も言わないリゾットに花京院くんが憤りをぶつけたり、アヴドゥルさんが悔恨と慙愧の念に支配され俯いていたり、院内禁煙で煙草を奪われた承太郎くんが腕を組んでいたり、空気がぎすぎすしていっている。特に花京院くんの動揺はもの凄かった。
原作ほどの明るい性格でなくなっても、術技頭脳共にメンバーの中核を担う存在となっていたポルナレフの存在は大きかった。
ドアを開けてジョースターさんが顔を出す。彼は沈鬱な表情で、粛々としたナースが立ち去るのを待ってから、帽子をぐっと引き下げた。重苦しい影が顔に落ちる。
「わしのせいじゃ」
全員が目を見開いた。リゾットが怪訝そうに眉を顰めたが、ジョースターさん以外の誰も気づかなかった。
「責任者として、自分を恥じる。……彼は、この旅が終わったら祖国で埋葬しよう」
「そん、な……」
二の句を告げないアヴドゥルさんは、よろりと大きな体躯を傾け、ひどく傷ついた顔をした。
ざっと血が足元へ落ちていく気がした。ほっぺなんかは今、とても冷たくなっているんじゃないだろうか。最近の私は胃痛や貧血や、以前とは比べ物にならないヒロイン的体質になったものだ。こういうのはイルーゾォやポルナレフの役目なのにね。特に貧血を起こして倒れ込む役目はポルナレフに似合っている。そして多くの人に心配され、休めと言い聞かせられるのだ。それが組織のナンバーツーであるポルナレフの日常なのに、こんなの、本当にノーセンキューだ。
ポルナレフは今、どうなってんの。扉の向こうで横たわってるの。シャレにならなくて私も何も言えなかった。ギャグも浮かばないわよ。
「わたしのせいだ」
アヴドゥルさんは、すまない、と言ってローブの裾を翻した。誰もがかける言葉を探し迷い口をつぐんだ。
少しの間で足が鉄塊になってしまったように、アヴドゥルさんは苦労して病室に背を向け、目元を片手で押さえたまま歩き出す。
彼の背中が曲がり角に消えてから、ジョースターさんは顔を上げて帽子をひょいとかぶり直した。
「まあ、来てくれ」
意外な軽々しさでドアが開けられ、最悪の事態に爆発しそうで仕方がなかった心臓と強張っていた表情がふと平常を取り戻す。ジョースターさんはこういう場面で、こんなドアの開け方をする人なのだろうか。私の知っているジョセフ・ジョースター像とはいささか異なる。もちろん、私の記憶や偶像が正しいとは言わない。けれど違和感があった。
リゾットを見上げると、リゾットも私に視線をくれた。アイコンタクトもリゾットリーディングもまだ熟達していない。ただリゾットの細められることもない目は、私が抱く最悪の予感を払拭した。思い返せば、私がばったりと板みたいに倒れ込むのを防ぐ為かさっきからずっと身体を支えてくれているけれど、感情の奔流にぐちゃぐちゃめちゃめちゃどんぶらこと流されまくって青ざめた私を慰める素振りはなかった。
彼は一番最後に病室へ入り、私たち以外の誰も居ない空間を閉め切る。
白いベッドで静かに目を閉じるポルナレフの口元には酸素マスクがある。
マスクは一定のリズムで曇っては晴れた。
「……おい、ジジイ」
承太郎くんの声は地鳴りより低かった。
「実は生きとるんじゃよ」
けろりと言ったジョースターさんは驚いた我々の顔に豪快に歯を見せて笑いかけた。リゾットと目を合わせた時だけ、彼はたくらみを成功させた独特の輝きを浮かべた。
「リゾットが喋らんでくれて助かった。アヴドゥルに知られても、まァ構わないが、ポルナレフにはこのまま"死んで"もらおうと思っとるからな。アヴドゥルが出て行かなければ、花京院かポルポに席を外してもらおうかと計画しておったんじゃよ」
このおじいちゃん笑いながらスゲエ酷なこと言ってるぞ。そしてテメーもかリゾット。最初から否定も肯定もしないと思ったらこんにゃろうは。こいつはめちゃ許さんよなあああ。結果的には私たち全員がこの密室に入るまで何も知らずにいられた(と、言うのも微妙にしゃくなんだけど)ので良かったんだろうけど、私たちの焦りと喪失感をどうしてくれる。人生でできれば一度も体験したくない感情を知ってしまった。一生知らないままでいたかった。
ああでもそういえば、アレですかね。私はリゾットたちの前で入院したり毒殺されかけたり、なかなかにヘビーな姿を見せているから、気持ちを理解できたって意味ではプラスでしたね。もう自分が何を考えているのかがわからない。助けてドラえもん。
「(生きててよかった)」
本当にそれしか言う言葉が見つからない。生きててよかった。
彼の死(あえて死と言おう)に直面して、今まで概ね筋書き通りに辿られて来た道が急激な逸れ方を見せた。見える、見えるぞ。治療は成功しておるから直に目覚めるじゃろう。このジョースターさんの言葉から、ちょっぴり先の展開が見えるぞ。
アヴドゥルさんの立ち位置にポルナレフが滑り込んだ。
突き飛ばされたと言ってもいいかもね。彼が望んで現状が生まれたんじゃあないので、もうこれは偶然っつう名前の悪魔に背中でも蹴られたんじゃないかな、ははは。笑い話にできて本当によかった。さっきからそれしか思っていない。あと、リゾットとジョースターさんのコンビプレーに激おこなので彼らから距離を取ることしか考えていない。一番共感をあらわにしてくれそうな花京院くんにくっついてプンスカしてみた。うっ、26歳が使って許される表現ではない。
「ポルナレフには回復し次第、アラブに行ってもらう」
「どうするんですか?」
「潜水艦を買わせるつもりじゃ。スピードワゴン財団は潜水艦を所持するアラブの富豪に心当たりがあるらしい。海上では襲われても、密閉された海の中なら敵の入る隙もないじゃろ」
「なるほど……」
私の合の手に頷いて答えたジョースターさんと、複雑な心境を隠さず顎に手をやった花京院くんの対比ったらないぜ。花京院くんはしばらくジョースターさんを恨みそうだ。
「アヴドゥルには教えねーままか?」
承太郎くんの質問に返事をしたのは、聞くからに元気ではない声だった。
「その方がいいだろう……」
ポルナレフが薄目を開けて手足を動かし、「痛いな」と言った。
「ポルナレフ……」
うわああああ生きてたよおおおおポルナレフ生きてた。本当に生きてた。実感して泣きかけたけど、全然恥ずかしくない。ここで泣かずしていつ泣くんだ。泣きゲーとかか?Fateは文学、AIRは芸術、CLANNADは人生。
リゾットがすたすた近寄って来て背中を撫でてくれた。優しさで余計に泣くわ。何なのよこの時代はあ。帰りたいよぉ。
「アヴドゥルはあぁ見えて、私と同じく腹芸が得意ではないからな。私の遺体は彼が戻ってくる前に財団が引き取ったことにしてくれ」
「ウム、そうしよう。アヴドゥルには悪いがな」
ポルナレフはベッドの上で本当に面白そうにくすくす笑った。急速に日常が戻る気配がした。誰一人として欠けていなかった喜びが、誰にも伝わらない安堵が満ちた。
「合流する時が恐ろしいな。きっと、怒るに違いない」
なぜならわたしがそうだったのだから。
そんな続きが聞こえた気がした。