04 なぜならそこに胸があるから


巨大な船は薄暗く、まるでこの船が暗雲を連れてやって来たかのようだった。
もしも偽テニール船長が私たちの殺害に成功していたら、ストレングスの暗示を持つオランウータンだったかゴリラだったか猿だったかはそのままこの船で陸に戻ったのかな。これはただの予想なんだけど、任務をやり遂げるとDIOからの遂行報酬が追加されるだろうから、偽テニール船長がストレングスと共謀して私たちを希望から一転絶望に突き落として殺害、なんていうやり方を選ぶとは思えない。本当にどうするつもりだったんだろう。ただ帰ったのか?
あ、もしかすると偽テニール船長がジョースター一行の死体とスピードワゴン財団の船員を船ごと爆破した時の、脱出用の足でもあったのかもしれない。
真面目に考えるべきことはこれじゃないわ。
「ねえ、なんだか怖いわ……あたしたち、どこかから見られてるような気がしない?」
頬に手を当てて、家出少女との話に応じる。勘が良い子供だなあと感心し、私も感覚を研ぎ澄ませてみた。この船が何であるかを知っているせいか、薄気味悪さしか感じない。かつん、と踵を踏み鳴らす。呑み込まれるようなことはなく、床は硬質な音で私に応えた。
「手でも繋ごうか?」
この先に少女があられもない姿を敵に暴かれると思い出すと放っておく気にはなれないので、誰に何を言われるでもなく彼女の面倒を見る形で、過酷な状況における無駄話要員としてしっかりお仕事を果たす。少女と手を繋いで、うんうんと相槌を打ったり話題を提供したり、いつもの空気を取り戻そうと試みる。私のコミュ力は最強なんだ。妖怪ギャングを倒しまくって経験値をためたからさ。
「ポルポ、すまないが少し来てくれ」
「ん?ナニナニ?」
そんな私を手招きで呼んだのはポルナレフだった。少女といったん別れて彼の後についていくと、一つの船室の前に辿り着いた。背の高い彼を見上げ、いったい何事かともう一度訊ねる。ポルナレフは真剣な顔で私に言い聞かせるように、こちらの両肩に手を置いて、一言一言ハキハキと発音した。
「興味本位であっても、絶対に、この中に入ってはいけない」
「なんで?」
「何でもだ」
いやいや、それだとむしろ気になってしまうぞ。エロ本でも詰まってんのか。
「君の発想は下品だな……。わかった、耳を貸してくれ」
流れるように私を罵倒したポルナレフは部屋から離れ、私の耳に顔を近づけてぼそぼそと聞き取りづらいイタリア語で言った。ここには敵のスタンド使いが居る。
ああそういえば檻の中でエロ本を読むパフォーマンスがあるんだっけ。この船室だったのか。
「私はこの旅をした記憶がある。10年以上経っているが、忘れられるはずもない。だからわかる」
誰もここには近づけていない、とポルナレフは言った。
「あの少女はジョースターさんが面倒を見ているからまだ安心だ。しかし花京院とアヴドゥルは索敵と迎撃の構えに忙しいこともあり、君にまで手が回らないからな。好奇心を出して中に入り、そのまま人質にされては困る。偽船長の魔手が及ぶ前に少女を助け出す機転は、未来を知っている私と遜色のないものだった。賢明な君ならわかってくれるだろう。絶対に、入ってはいけない。……言っている意味がわかってもらえるか?」
「あの、賢明な私はこう見えても26歳だからそこまで言われなくてもわかるよ」
視線を逸らさないで。
指摘しようとした瞬間、薄暗い船内の空気の流れが歪んだ。床がぐにゃりと足を呑み込む。
ポルナレフがチャリオッツを具現化して振り返るよりも早く、天井のランプが落下して彼の頭を直撃した。うわ痛そう。屈強な肉体も船体の壁と床の中に引きずり込まれていく。さすが3部のヒロインと名高いポルナレフ。他人を気遣ったがゆえに一足早く気絶させられるとは。これって私のせいかな、なんかごめんね。ありがとうね。私、絶対にこの中には入らないからね。
「(そもそも入れないっていうのは置いといて……)」
床に倒れ伏すポルナレフを踏みつけ、檻から放たれたストレングスは煙をくゆらせた。片手に錠を持ち、見せびらかすようにする。ひょいと投げ捨てられたそれは船体にぶつからず、泥の中に石を落としたときのようにずぶりとどこかへ沈んでいった。このシステムは世の中の奇術師がこぞって欲しがりそうだ。瞬間移動のマジックが簡単にできてしまう。
ストレングスは壁に絡め取られ動けないこちらの胸を数回揉んでから、品のないやに下がった笑みを浮かべた。ぞわっと全身に鳥肌が立つ。抵抗しようと腕を引っ張ったが、完全に呑み込まれていた。悔しさと危機感に歯噛みする。まさかリアルに『かべのなかにいる』ことになるとは思わなかった。ちなみにこのことに感動したのはもう少し後だった。
ひとしきり揉まれて不快な思いがいよいよ顔に出始めると、ストレングスは本来の目的を思い出し、ジョースター一行を倒さんと外へ向かった。私とポルナレフは後回しですか。ハイ、おっぱいですね。すぐに殺されなくて良かったような、柱の男みたいな状況になっている自分の未来が切ないような、今すぐ熱いお風呂に入って何もかもを忘れてしまいたいような。鳥肌が引かなくて思考がぐるぐるしている。
「うえええ……」
承太郎くんやっちゃって。


黙って壁のアートになっていると、色々なことを考えてしまう。目を逸らしたい現実と向き合わねばならなくなる。できれば、動かなくては死んでしまう魚のように、難しいことを考えずに済むくらいじたばたと常に動いていたい。この旅は忙しいし、50日を最後までやり遂げるまでは特別なシチュエーションを楽しんでいられると思っていた。死にさえしなければ何とかなる、と。3部の怪異の原因は八割DIOにあるといっても過言ではないし、打倒DIOを果たせば事態が好転するのではないかと、人道に反するひどい考えすら持っている。
この世界が、私とポルナレフの生きていた時代を遡っただけのものなのか、まったく別の軸を走るものなのか、今の私には理解できない。いつか理解できるのかも、わからない。
ポルナレフは『逆行』だから問題はないとして(まあ、ありますけど)私はいったいどういう扱いなのだか。この世界に私は存在していなかったのか、それとももしかして今、イタリアには子供の私がいるのか。ヒィ、考えれば考えるほど寒気がする。前者だろうが後者だろうが、私が死ねばもちろん私の人生は消えてなくなる。さよならを教えてくれなくていいので、帰る方法を教えてほしい。
「帰れるのかなあー……」
考えたくない。一番考えたくない。このままずっと帰れないなんて、考えたくないぞ。
帰れなかったらどうなるのかな。うう、マジで考えたくない。この時間にトリップする寸前まで一緒にいたリゾットは、いったいどうしているんだろう。そもそもあの世界に私の存在は残っているんだろうか。ここにいることで、すべてリセットされて、あの未来自体がなかったことにされていたら。つらい。つらすぎる。どうしろっていうんだ。
帰りたい。
項垂れて呟く。帰りたい。おうちにかえりたい。あと、胃が痛い。最高に胃痛ってやつだ。ポルナレフ、早く起きて私の癒しになってくれ。
後頭部を電灯にやられてぐったりしていたポルナレフは、眠っているように穏やかな呼吸の中で気絶していた。巨人のうなじの中よろしく床に身体を半分固定されており、波紋の呼吸をしてくれェと叫びたくなる様相でもあるし、大きな船体はごとりとも揺れないので目覚めは遅そうだ。
どうでもいいが、私はこのおっぱいの魔法のおかげで救われたのか、壁にはりつけられて動けずにはあるものの苦しさはない。圧死はせずに済むだろう。思い出したらまた鳥肌が立った。優しく撫でさすって気持ちを落ち着かせてくれるジョルノを要求したい。あっ、今私ジョルノに助けを求めたわ。あんなに怖がってたのに時間がすべてを解決してくれた。ありがとう、よくわからないけどボスありがとう。
素数を数えて時間が過ぎるのを待つ。承太郎くんにはなるはやでオランウータンをやっつけちゃってもらいたい。どういう手法で倒すのかは憶えていないけど、ここはたぶん承太郎くんが一晩で何とかしてくれるんでしょう。空条ジェバンニ、ぜひ頑張って欲しい。

空条承バンニは違わず頑張ってくれた。
ぼろりと壁が崩れ、床に投げ出される。
「うおあッ!」
ストッキングが破れる、と危険信号に突き動かされ、悲鳴モドキを上げて床に手をつき、ごろんと体勢を崩した。今、私はいったいナニをしたんだ。受け身ってやつか。初めて挑戦して初めて成功したぞ。
ばくばくと脈を打っている胸を服の上から押さえる。ストッキングが破れたら次にホテルを取るまで替えがないのだ。履く時にうっかり指で穴をあけてしまう事案が多発したため、これがなくなると生足という苦行を強いられることになる。おかげで新しいスキルを手に入れた。きっと、二度と再現できない。
「う……」
呻き声に顔を上げる。
「ポルポ……、大丈夫か……」
目覚めの開口一番に、ポルナレフは倒れたまま私を案じた。修飾も無駄口もなく無事を伝えると、彼は安堵からか微笑んだ。そんなに心配してくれていたのか、ありがとう。今度肩でも揉むね。
「君に何かあっては、元の世界に戻った時にリゾットの顔を見られないからな」
あぁ。
相槌を打とうとして、諦念と感動に染まった声が漏れた。
戻れるのか、戻れないのか。ハッキリしないことを議論したり、ツッコミを入れたりする時は今ではない。なぜこんな事態に陥ったのかも、また同じだ。起き上がったポルナレフと顔を見合わせ、ニコリと笑った。そうだね、元の世界に戻った私が心も身体もズタボロだったら大変だね。他人事みたいに言っているけど、手汗が滲んじゃうね。私もポルナレフも無事でいないと。目下、めっちゃ大事なのは、死なないことだ。次に大事なのは、無事でいることだ。だって私とポルナレフが元の時代に戻ってお互いぼろくずみたいな姿でやつれきっていたら、こりゃあもう絶対にありもしない敵対組織が潰れることになる。なぜなら私は一組織をまとめる立場で、ポルナレフはネアポリスを牛耳る天下のパッショーネのナンバーツーだから。どっちもやばい。
「おおい!大丈夫か、二人とも!」
「ジョースターさん!」
扉を開け顔を覗かせたおじいちゃんが私たちの生存を喜んだ。ぐらぐらと船の内部が揺らいでいくのも感じ、ストレングスが倒されたのだと悟る。
ポルナレフは頭に衝撃を受けたので、急に立つのは身体に良くないかもしれないと思い、できるだけ優しい動きで手を差し伸べてみた。漫画本の詰まった段ボールを持ち上げて家中を歩き回るだけで精一杯な肉体で、台車2台分くらい余裕で集荷できそうな筋肉もりもりの若い男を助けられるわけもなかったけれど、彼は私の手を取り、すっくと立ち上がった。力強く一度握り、ジョースターさんに従って私を引く。
「まさか二度もこの船と"仲良く"することになるとは……。一度殴ってやりたかった……」
喧騒に紛れてうまく聞き取れなかったが、無事を喜んでいたのだと思う。……思いたい。

「いやあ、しかし二人が無事でよかった」
船から逃げ出し、救命ボートに再び乗り込んだ私たちのしんがりをつとめたジョースターさんは、しみじみと私の目を見て言った。私もそう思います。さすがファンタスティックおっぱいパワーですね。
「それってどういう意味?」
私の陰で着替えをし、急場しのぎに使ったバスタオルを膝に掛ける。家出少女は一連の動きをぎこちなく終えると、話に混ざって私の服の裾を引っ張った。気を惹く仕草に振り返って、自分の胸を指で示す。視界の端で巨大な船が消滅し、かの乗り物が連れて来た暗雲は綺麗に晴れる。空は透き通った夜を取り戻した。
「おっぱいを揉まれただけで放置されたから、たぶん戻ってくるつもりだったんじゃないかなあ」
「……そ……」
家出少女、アヴドゥルさん、花京院くん、ジョースターさんとポルナレフが絶句する。承太郎くんは知らん。
アヴドゥルさんは私の保護者として、ボートが傾く勢いで私に詰め寄った。少女も私のシャツを皺が寄るほど握りしめる。
「ポルポッ!それは無事とは言わないぞ!」
「だ、大丈夫なの、ポルポ!?」
「誇りも何もあったものじゃあない敵だった……」
「それ以外は何もされとらんか!?」
「君というやつは……」
私は聖徳太子ではないので、ごちゃごちゃになった反応には対応できない。ひとりひとり改めて言ってくれと懇願すると、子供と大人が5人集まり、順繰りに私に常識を説いた。わかってるんだって。ただの冗談だってば。本当にヤバかったら笑い話にはしてないって。マジで。鳥肌くらいなら笑い飛ばせるんだよ私は。大丈夫だって。くっ、こんなことならこんなジョークは使うんじゃなかった。
私が激しく後悔しているうちに生き残っていた船乗りたちまでがジョースターさんから事情を聴き私を叱り始めたのだけは、本当に解せなかった。