01
そのとき青年は、天使を見た、と確かに思った。
日本列島の北東、とある県に位置する一つの町、それが杜王町である。
決してさびれていることはなく、かといって栄えすぎて雑多なわけでもなく、ぴゅうと吹き付ける風が時たま冷たいことを除けば非常に住みやすい町だ。
一時期は不気味で凶悪な犯罪が横行するマイナスイメージも付きまとっていたが最近は悪い鳥肌も少なくなった。あるといえばあるのだが、多くの人にとっての平穏はここに存在する。
奇妙な甥っ子が仗助に連絡を取ってきたのはそんな日常のある日のことだった。
事情はこうだ。杜王近辺で仕事をする運びとなったのだが、それにくっついて『とある人物』がやってくる。詳しく聞くと『そいつ』は甥っ子殿にいたく執心していて再会するとつきまとわれるのだとか。それで甥っ子は、仕事を邪魔されると面倒だから『そいつ』の観光にでも付き合っておいてくれないかと頼んできた。要は厄介払いである。
はあ、まあ、と青年はぼんやりした相槌を打った。『この人』にこれほど言わせる人物を自分なんかが相手どれるのかは不安だったが、他ならぬこの甥の頼みであっては断れない。バイト代も出すと言われれば断る気は完全に消えた。
一週間後。
杜王町の駅で白い帽子をかぶった偉丈夫を見つけるのはたやすかった。
「じょうたろうさ……」
改札の向こうに手を振ろうとして、振り上げた腕が力をなくす。
仗助の甥、空条承太郎は見知らぬ女性と肩を並べて歩いていた。
かなり体格に差があるため、文字通りの意味ではないけれど、彼の歩くスピードはいつもよりゆっくりに思えたし顔も相手にきちんと向けて話を聞いている。破格の対応だ。初対面の無邪気な女子高生軍団に『やかましい』と怒鳴りつけたことのある大人と同一人物には到底見えない。
当然興味の先は女性に移り、彼女を見た瞬間、仗助は自分のあごの筋肉がゆるゆるになるのを感じた。ぽかんと口があいていく。
彼女は編み込んだ髪を片方の耳の下でくくって肩に流す。淡くふわふわと風を孕む毛束を彩るのは鮮烈な青色のリボンの飾りで、それは小さな耳たぶで光る小粒の石とよく合った。
細い首筋から肩へ、どこか硬質な線が伸びる。禁欲的なブラウスと風に広がるひざ丈のスカートは彼女の年齢を不確かにさせた。
青年が茫然とするうちに、あちらも仗助を見つけたらしい。承太郎が、今度はすたすたと女性の手を引いて近づいてきた。
「仗助。急なことで悪かったな」
「おはようございます!や、気にしないでください。仕事っスもんね」
仗助は歯を見せて笑った。
すると、甘ったるい、けれど後の残らないコロンの香りが鼻腔をくすぐった。ぎょっとして視線を下ろす。
美女が、仗助の顔を間近から覗き込んでいた。
細いフレームの眼鏡に、仗助の顔が歪んで反射する。やけに度のきつい眼鏡なんだなと彼は思った。
「君が仗助?」
頷けば、アルトの持ち主はじろじろと無遠慮に仗助の顔を眺めまわし、ほっそりした指先で顎先をつまんでみさえした。
「僕は。承太郎とは子供の頃からの付き合いだ。どうやら君もスタンドを使えるようだけれど、怪我だけはしないで欲しいね。僕は契約外での負傷に責任は負わないからな」
容姿とはかけ離れたとんでも台詞が飛び出した気がする。
「契約内の負傷でも負わなかったことがあるヤツの台詞とは思えないな」
「命に関わらなけりゃあ唾でもつけとけば治る」
承太郎はやれやれと肩をすくめて帽子を引き下げた。
「というわけだ。すまないが三日ほど相手を頼む。黙らせるコツはない」
「『あのとき』のことを言ってるんだとしたらお門違いだ。僕は何一つ間違ってない。花京院だってこっちについた。そもそもは承太郎が人に何の許可も取らず勝手に女と付き合って結婚してあまつさえ……」
「はぇ!?承太郎さんって結婚してましたっけ!?あれ!?」
さらに衝撃の情報が飛び出した気がする。そうだったっけかと記憶をたどるも激動の期間は大人の色恋沙汰に踏み入っている場合ではなかったのでよく覚えていない。
承太郎はうんざりしたように一度手を動かしてきびすを返した。コートの裾をひらひらさせて立ち去っていく。
上品な靴は苛立たしげに地面を蹴りつけたがそれ以上は動かず、彼女は薄い胸の前でえらそうに腕を組んで顔の向きを仗助のほうへ戻した。
何度見ても、彼女――の立ち姿は、雑踏の中に燦然と輝く宝石のようにしか思えない。
小さな耳たぶで存在感を主張する一ミリのきらめき。
あの石がダイヤモンドだったなら。――――理屈などなく焦がれてしまう。
喋る機能を失った仗助に、はこてりと首をかしげて問いかけた。
「トイレどこ?」
「え……あ、あっちっス」
はぐれないようにゆっくりと先導する。広い背中を追いかけるは、仗助の歩き方がぎこちないことに気がついた。僕に見惚れたんだなと自己完結して堂々と青いマーク――男子トイレの扉をくぐる。
「ちょおおおおっとさん!!!」
仗助は細い手首を思いっきりつかんでそこから彼女をひっぱり出した。突然の美女の闖入に利用客がぎょっとして身を引いたところまで見えてしまってへこへこと頭を下げながら、気まずさを殺して小声で伝える。
「こっち!男子トイレっス!!」
「見りゃあわかる」
「だったらなんでこっちに入ろうとするんスか……!!」
の顔が盛大にしかめられた。
「聞いてないの?」
「何をですか」
仗助は、眼鏡の奥の瞳のあやしいきらめきに絡めとられて動けない。
「勘弁してよ。……こんな可愛い女がいるわけないだろ?」
「はぇ」
「わかったら離しなよ。あ、これ持ってて」
ハンドバッグを押し付けられ、落とさないよう反射的に抱えなおしながら翻るスカートと青いリボンを無言で見送る。
ほっそりした体躯は、自分が世界の理であると疑いもしない傲慢な神に似た堂々たる態度で男子トイレに踏み込んだ。
中から、数人の男性の心臓が止まる音が聞こえた。――気がした。