ギブアンドテイク・ハッピータイム
・は特殊諜報課企画係情報整理班の班長として人狼局に勤めている。
局長を始めとするお上からすれば局内樹形図の一枝なれど、情報整理班の班長に与えられる権利にはいくつか目立つものがあった。
その内の一つは、誰にも明かしてはならず、奪われてはならず、有事にのみ開錠が許される扉と棚の向こうに『何かが保管されている』と教わることだ。
中身はおそらく、設定した本人しか知り得ない。
詮索も、遊び半分の当てずっぽうも禁じられる文字通りの命綱がそこに安置される事実は一部の人間の間でしか共有されぬ秘密事項である。情報整理班の中でも班長として働くは、大いなる権利によって耳打ちされ、その扉が『ある』と理解するのみならず、厳重に管理する為の第一の鍵を任せられていた。
そもそも本来はそれの存在すら秘匿されるべきだが、情報整理班は局に留められ流転する大量の情報と触れ合う仕事を任せられているため、万が一にも、億が一にも、誤って厳重な五重のロックと二重の暗証番号を突破してしまった誰かがそれらを跡形もなく廃棄してしまうとも限らない。だから誰か一人、信用の置ける者が選ばれる。
にとっては重すぎる話だったが、聞かなかったことにはできない。重要な話がある、と見極めを終え満を持した上層部から密かに呼び出され、すわ魔法関連かと行ってみたら気を重くさせられた。
それから月日は流れ、今のところ活躍した場面はない。平和と言うと違和感だらけだが、物騒な知識は役立たないほうが良いに決まっていた。
季節風がびゅうと吹き荒れた日に、青年は空を見上げながら歩いたせいでとあるものに気を取られ、目を丸くした拍子に段差で蹴躓き強く壁に頭をぶつけた。痛覚を遮断していたのかけろりとしているが、無防備だったからきっと痛いはずだ。
小鳥のようにバランス良く街灯の上にとまるチェインは、今の転倒未満を無かったことにして彼女に大きく手を振る青年を眼下に収めてそう思った。
昼休憩から帰る途中、局の出入口で明らかに直線のルートから外れてふらふらと歩く人影があるので誰かと思いきやである。午後の空に被写体を探す彼は、抜群のしなやかさを誇る女性を見つけて満面の笑みを浮かべたところで情けない姿を晒したのだった。
ここ数日は『ツケ』が軽いのか、少なくとも絆創膏まみれではなさそうだ。
「チェインー!久しぶりー!」
冷ややかな『慰め』を要求する頻度も低くなった。ようやく魔法と上手く付き合う方法を見つけたのかもしれない。脚にまとわりついていた厄介事を振り払えて爽快だ。
とん、と足場を蹴って降下する。綺麗な着地を見て、身体能力が並な青年は瞳に僅かな尊敬の色を浮かべた。闘いは嫌でも強くはなりたい。男心は難しい。
軽く挨拶を交わした二人の行き先は、途中まで同じだった。自然と並んで建物に入る。
話の種もなかったし話す気分でもなかったが、チェインに合わせて律儀に沈黙するを見ると、彼女は上司の言葉を思い出した。
「そういえば、貴方の作った目録。次長が褒めてた」
「マジで?どの目録?俺、六つは作ったよ」
「どれかは知らない」
評価される喜びはチェインも知っている。「そっかそっかー」と隣で小刻みに頷く青年の気持ちはわからないでもなかった。
「なあ、チェインって金曜空いてる?スペインとガオガオの創作料理の食堂があるんだけど、昼メシ一緒にどうかな」
彼女は頭の中でスケジュール帳を繰って、首を振った。金曜の昼には外せない用事がある。
否、昼の一時間程度は外しても良いとはわかる。けれど彼女個人の感情として、この金曜は一秒たりとも譲れなかった。
その日は丸一日、別の場所――秘密結社ライブラ――に詰める予定なのだ。
当然、忙殺されなければ昼食はあちらで摂る流れになるだろう。
理由を言わず端的に断ったチェインに、は、あー、と残念そうな声を出した。そっか、そうだよな、とわかったふうにしかつめらしい顔をしたのを見て、一瞬チェインはぎくりとする。身近な同僚や友人にはばれているこの感情に感づかれたかもしれないと焦った。
警戒したチェインの空気をどう読んだか、彼は訳知り顔で彼女の想像を百八十度半周した。
「チェインは忙しいもんな……」
合っているのだが合っていない、素晴らしい外し具合だ。
「でも無理しちゃダメだぜ。腹減ったからキャンディ一個ー、とかやってたら低血糖でぶっ倒れるから気をつけて、……って知ってるか。チェインはだいたい何でも知ってるもんな。あとは周りの人にちゃんと頼ったり……、も、できるよなあ。俺もチェインみたいに自己管理できるようになりたいよ」
一部の自己管理が困難なチェイン・皇に対するの信頼と期待値が高い。
話が長引いて面倒になりそうだと判断し、チェインはあえて否定することなくエレベーターの前で彼と別れた。
はコンピュータールームに向かおうと階数を指定して、扉が閉まった箱の中でがっくりと肩を落とす。
彼女は忙しいのだ。は週休二日が望める職だが、彼女はきっと不定休。一度だけ彼と休みが重なって、慰めを求める電話をかけたら私服で応じてくれた時があったが、は申し訳なくて痛みよりも己の情けなさに泣いた。ちなみに私服で現れたチェインには、青年の胸をどきりとさせる可愛らしさがあった。
そんな彼女にお願いして縋りついて泣き濡れる自分が恥ずかしい。
しかしながら、へとへとに弱りきったが彼女を見つけてしまった時。はチェインに感じてしまった。
(チェイン……)
こんな考えを知られると、もう来てもらえなくなってしまうかもしれない。
青年は服の胸元をぎゅうっと握りしめた。
金曜の朝から秘密結社ライブラに向かったチェインは、慣れた床に靴の爪先をつけて音もなく降り立った。
既に出社済みのクラウス・V・ラインヘルツ、ギルベルト・F・アルトシュタイン、スティーブン・A・スターフェイズ、ツェッド・オブライエン、レオナルド・ウォッチを見まわして、五人の中に細身の青年がいないことを確かめる。着地点――踏むべき場所――を間違えてはいなさそうだ。
「おはようございます」
「おはよう、チェイン」
「おはようございます、チェインさん」
驚きも減った声で挨拶を受ける。レオナルドが立ち上がり、チェインのマグカップに飲み物をそそごうとした。今日は長居するため、善意に甘えて礼を言う。
人狼局から持参した資料を手渡すと、結社の番頭役は彼女に微笑みかけた。紐で封のされた茶封筒一組で手に入れられる表情としては最上の価値があろう。
お茶を、ふぅ、と吹き冷ます。頬の熱が湯気で覆い隠されるよう、できるだけ顔を近づけた。
ぐるぐるに巻きつけられた紐をほどき、頭を開く。何かが引っかかってうまく引き出せなかったため、ちょっとだけひっくり返してこうべを垂れさせれば、紙が数枚滑り出た。紙を留めるホチキスの針が出っ張っていたらしい。それに指で触れたスティーブンは、何よりも先に書類を裏返して下部のサインを確かめた。
「やっぱりか」
「え?」
ここで知り合いの名前が出るとは思いもしなかったチェインである。気の抜けた声とともに顔を上げた。男の手が紙の向きを正す。一枚目にざっと目を通してから、首を傾げる同僚にそれを軽く掲げてみせた。
「・。知ってるかい?」
「はい。たまに顔を見ます」
七割は涙でぐちゃぐちゃの顔を。
「こっちも名前を覚える程度には、彼のまとめた資料の世話になってるんだ。ただ、ホチキスが苦手なんだろうな。『封筒に引っかかったらを疑え』。――たまに針が浮く」
「……言っておきますね」
「ありがとう。最近はここに回されるまでに直されるんだが、今回は急だったからな」
朝一番に受け取った資料だ。封筒にも『開封厳禁』の他に『優先』の判子が目立つ。
それにしても、ライブラの一員、それもこの人がの名前を知っているとは。蚊帳の外に置かれたような気がして少々不可解な気持ちが湧き起こる。
そんな心には気づかず、スティーブンはちらりと、彼はまとめるのがうまい、とを褒めた。
数日前、自分を昼食に誘った青年の顔を思い浮かべた彼女は、前にも資料作りに関する褒め言葉を伝えたなと思い出して彼に興味を持った。局地的なれど重要な分野だ。誰かに大きく評価される様と、チェインの膝に縋って泣く喚き声は、彼女の中でちぐはぐに噛み合った。
これ以上この話題を続けるのはよそう、と彼女は顔をそらした。彼女は青年の話が膨らみ、必要以上に自分たちの仲が良いと誤解されるのはまっぴらだった。というか、必要も何も、事実、チェインはと特別仲良くしているつもりはないのだが。
それぞれがそれぞれの盛り上がりを取り戻す中、ちょうど良い具合にギルベルトが言った。
「チェインさんに一つ、頼みごとがあるのですがよろしいですかな」
「なんですか?」
包帯の巻かれた手が動く。執事は窓際を指さした。
「花瓶を買ってきていただきたいのです」
そこに置きたいのだそうだ。
チェインは「わかりました」と請け負った。
そんなチューリップの葉に似た形が、無味な曲線に変わりゆくころ。
・は情報保管室のブザーに飛びついた。
「緊急救助規約、って、それ」
引っくり返って掠れた声で復唱する。通信相手は唖然と立ち尽くす彼を見透かした。
「そうだ。いいから言うんだ」
眩暈が起きそうな混乱の中、は真っ白に吹っ飛んだ頭の中から必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
特殊諜報課企画係情報整理班の班長として、は以前、特殊諜報課における必須機密事項を打ち明けられた。当時は、大変なものを知ってしまった、と肩に鉛が圧し掛かった気分で落ち込んだものだが、幸いにも活用する場面は一度も訪れず、彼本人もあの時の重圧と緊張感を忘れかけていたのだ。
こうなることを予測していた誰かは居よう。だからこそ救助規約は存在する。
はそうではなかった。それだけだ。
頭に光が流れるのは一瞬だった。
重要性への理解がとてつもなく正しかったとは言い難く、問われるまま、特殊諜報課企画係情報整理班を取り仕切る立場として求められた選択に答えただけだ。記録は取られたが、打てば響けと命じられる。
教わったシステムのどこかに関わる話なのだろう。それはわかる。だが何を意味し、どう作用するか、青年は知らなかった。
ただ言われたとおり、頭に思い浮かび、決して忘れないだろうワードを二秒で決めた。あたふたと告げた羅列。
「Chain、――そう、チェイン! チェインです!」
「よし!」
今再び口にした名前を言い終わる前に通信が切れた。当然だが、言われずとも準備済みである。
は稼働する回路を急き立てた。
実存帰還符牒のどの部分にでも良い。
早くすべてが済めば良い。
怪我も痛みも今日はないのに、青年は泣いてしまいそうに眉根を寄せた。
今この瞬間、オリガか、ジャネットか、チェインか、誰かに危機が迫っているのだ。
誰かが鍵を必要としているのだ。
ああ、とはうめいてしゃがみ込んだ。
こんな時は電話をかけて、声を聞きたい。
慰めてもらいたい。
一刻も早く立ち直れるように誰かの手で頭を撫でてもらって、怪我がないのに呼ばないでと誰かに呆れられて、酒を、クーポンを、ああそうだ、とは焦りの中でぼんやりと考える。
久しぶりにツケを払いきったんだった。ひどく痛んだのに、俺もよく耐えられたよなあ。これからもずっと一人で耐えていくのか。いやまったく、こんな時に自分の心配なんて場違いだ。なぜ急に思いついてしまったのか。
が立ち上がって見た通信機器に履歴はなかった。
あるはずなのに、と椅子に腰を下ろして意味のわからない違和感を覚えたところでハッとする。
「ああああー!!」
化け物でも見たような顔でデスクから離れた青年は、事態の片鱗を把握して椅子の上でバランスを崩した。そのまま背中から転倒。肩と背中と腰を強打し、肘掛けが脇腹に強く食い込み、肘が身体の下敷きになる。羽毛布団の上に倒れ込んだがごとき衝撃しか感じなかった彼はそれらを無視し、立ち上がると、履歴から通信を試み、繋がった内線に向かって支離滅裂に問いかけた。
相手は平静を保とうと声を抑える。
「もう大丈夫だ。キャスパー……、――チェイン・皇は帰還した。もはや君が関与する余地はない。ご苦労だったね」
無情にも聞こえる台詞だったが、は、そうですか、と安堵の息をついた。脱力した身体を椅子に預けようと膝の力を抜く。そして、椅子を蹴倒していたと気づいてゾッとしながら横倒しの椅子にぶつかってうるさい音を立て、床に尻餅をついた。
関与の余地はないが、特殊諜報課まで出頭はせよと言われたは、通信が切れたあとすぐに通話履歴と壊れかけの椅子を処理して、上着を羽織ると業務室を飛び出した。一心不乱に廊下を走る。会えなくても、何にもならなくても、とにかく身体を動かして『行動している』と錯覚する間は落ち着きを取り戻せた。
お偉方の執務室にまで異例の入室を赦された彼であったが、一時浮かべた神妙な面持ちは乾いた音と悲鳴にかき消されて消えた。なにがなんだか、流れを察するのが難しい。困惑でいっぱいの目がぐるぐると室内を彷徨う。めでたさを喜び緩んだ空気と、目立つ長身の――少しぼろぼろの――男と、オリガたち人狼部隊の面々がそれぞれの到着を迎えた。
捜していた姿はエメリナの腕の中にあった。
彼女の胸に顔を埋める女性の後姿を見つけ、の涙腺は総崩れした。
「チェ、チェインううぅああぁ!」
駆け出した拍子に足をもつれさせて転ぶ。結構痛い音がして、頬にもみじを貼りつかせる男が、うわ、と首をすくめた。もちろん、今のに痛みは届かない。チェインの足元で、恥も外聞も捨ててぼろぼろと泣き始める。
「間に合ってよかったああ」
即座に対応できないくらいつらい思いをしたチェインは涙声で言った。
「ほっといて」
「な、泣いてる?チェイン?痛かったのか?もう大丈夫だよ、みんな一緒だし、チェインもここにいるし、大丈夫だって局長も……、大丈夫ですよね!?」
「大丈夫だよ、班長くん」
「ほら、大丈夫だって!な、チェイン、なあなあ」
エメリナは優しく苦笑し、のことを慰めた。
「涙の理由も成敗したから大丈夫よ」
「涙の理由?」
全員の視線が、一人の男に向けられた。も遅れて彼を見る。
へらりと曖昧な笑みを作った男は、論より証拠と自分の頬を指した。青年が顔色を変える。
「この人に泣かされたってことですか!?」
「いや、いやいやいや、確かに俺は原因の一つだが、語弊が。ものっすごく語弊がある」
しかし詳細に説明するのはまずい。スティーブンはこう否定することしかできず、青年から胡乱な目つきで眺めまわされた。
「でもビンタされてますよね」
「……まあ……」
「エメリナさんたちが意味なく叩くなんてありえないですもん。ってことはあなたがチェインに何かしたってことじゃないですか?成敗されてても泣かしたのは泣かしたんですよね?自分でも『原因』って言ってましたし、心当たりはあるんですよね!?」
「いや、うん、そうだな。心当たりはある。あるんだけど」
「『だけど』」
「自分を弁護するつもりじゃないんだが、たぶん君の想像とは少し違っていると思うんだ」
「どう違うんですか?俺がどんな想像をしてるか、あなたにわかるんですか?」
「そう言われると答えられないな……」
一方的に膠着した二人に、チェインが「」と潤んだ声で低く訴えた。彼女にとっては迷惑極まりない。
「、やめて。もういいから」
「……あっ」
それを聞き、は弾かれたように口を開いた。
「……俺は・です」
「?……とりあえず、スティーブンと呼んでくれ」
「わかりました。それでですね。俺はいつもとてもチェインにお世話になっていて」
オリガがこっそりジャネットに、なにこれ、と囁いた。ジャネットは、さあ、と答えた。
「チェインがスティーブンさんに泣かされた……と思って、かなり失礼な態度を取ってしまいました。すみません。カッとなっちゃって、よくなかったです。……すみませんでした」
「気にしていないよ。えーと、こちらこそ誤解させて悪かった」
咎とは一体、と意味合いが異次元へ冒険に旅立つ温和な発言だ。
何はともあれ平和におさまった。
チェインも赤くなった目元をハンカチで押さえ、エメリナから身を離した。
義憤に駆られて喧嘩腰になられなくて良かった。痛みを忘れる青年から強気な発言が出たら面倒が発生する。
冷静な意思疎通ができるようになったと判断したスティーブンは、先ほどの続きのようにへ水を向けた。
「はチェインと仲が良いんだな」
・は照れくさそうに頬を掻いた。
乾いた涙の筋がこすれる。
「はい!俺、チェインを姉さんみたいに思ってるんです!」
こんな考えを知られるともう来てもらえなくなってしまうかもしれない、と懸念を抱く時もある。
だが思い切って白状した彼を飾るのは、きらきら輝く笑顔であった。
チェインには涙も引っ込む衝撃だ。
「引くわ」
「ご、ごめんな!でももし俺に姉さんがいたらチェインみたいな感じだろうなっていうか、チェインが姉さんだったら良いのになっていうか!ずっと思ってて」
「ずっと思ってたの?信じられない。本当に無理」
「無理って、そ……、そんなに嫌?」
「年下の知り合いに『姉みたい』って思われてたら引くでしょ……」
「チェインううう、ごめんんん、言わなかったことにするから嫌いにならないでえ」
「ちょっと泣かないで、あとこっち来ないで」
それを見て、今度はジャネットがオリガに、いつも通り、と耳打ちした。
その後、どうにかこうにか拝み倒してまた慰めてもらう権利を得たは、本人の口から実存帰還符牒の内容を断片的に知った。同じ符牒を二度使うことは珍しく、彼女ももう少し深度の深いものにするか類を異ならせるかの調節をするつもりで、ほんの少しだけ、差し障りのない部分なら話すことができた。つまり、曰く、掃除をしていない部屋を人に見られるのが嫌だった、と。
彼は痛みも傷も出血も放り出して、二人きりの時分、自宅で「部屋!!」と叫んだ。切れた唇の端から血がにじんだ。
「そんなの、俺が片づけのコツ教えたのに!そういうの得意なんだ!そしたらそれにしなくて良かったのに!だってそれチェインのダメージデカいじゃん!」
だから選んだのである。
「それに、スティーブンさんって男だぜ!どっからどう見ても男だ!掃除してない部屋を見られるのが嫌なら他にも……、あっ、同僚だから!?同僚には確かに抵抗あるよな、わかる、そうだよな、うん……。それも男に……。泣いちゃうはずだよな……」
青痣のできたの眉山がしょんぼりしてくる。
「好きな相手にだって見せたくないのに、同じ職場で働く同僚になんて気まずいし……」
縋りつく先の膝がぴくりと反応したのを感じ、は疑問を感じた。
「……好きな相手?」
間抜けな声がチェインに揺さぶりをかけた。
「ごめん、俺が間違えてるかもしれないけどもしかして、好きな人に見られたくなかった、とか?」
否定するべきか。その場合、巧みに間隙を突いて口を挟む必要がある。
「掃除してない部屋を見られることに抵抗があるという『鍵』ができていた、ってだけで充分でしょ。誰に、とかは貴方にとってはどうでもいいよね」
集中したチェインに、はしばらく何事かを考えたが、稲妻に撃たれたような顔で「部屋!!」とまた叫んだ。
「じゃあなおさら別のやつにすればよかったのに!俺、本当にチェインの助けになれたと思う!」
まだ『好きな人』を引きずっている。
だから、と彼女は話の通じない青年の眉を指で押した。ぎゃあ、と悲鳴が上がる。
好きな人だろうが好きな人でなかろうが、この場合はが掃除でチェインの助けにならないことが、チェインの帰還に繋がるのである。
「なあチェイン、俺、応援するから!!」
「全然ありがたくない。これからも慰められたいなら永遠に黙ってて」
「もちろん誰にも言わない――」
「物理的に口を閉ざしててって意味」
「えっ、それは無理だよチェイン」
「知ってる。拒絶の意思を籠めてるの」
「冷たいよチェインおねえちゃあん」
チェインは姿を消した。
の腕が空をかき、椅子に胸を強打した。