ギブアンドテイク・ハッピータイム


年下にしても、許せるラインと許せないラインがある。これは『許せない』ほうだと思う。
元の位置に戻りたい彼女は、自分の膝に縋りついてしくしくと涙でスカートを濡らす青年を押しのけようとした。男女の差として一般的に見れば青年が勝つものの、今の彼はあちこちを怪我して全身痛くてたまらない。ちょっと押せば泣き声が引きつり、情けない声が喉に絡んだ。
「痛いよ……痛いよお……」
青年がぐすぐすと鼻をすすり始めた。
チェイン・皇は、ここでようやく事情を聴く気になった。
「また喧嘩売られたの?」
「うぐう……、うう……」
「何発やられたの?」
「おぼえてないよぉ……」
「血が服につくから……ちょっと離れてくれない?」
「チェインんうう、俺を見捨てないでえ」
「見捨ててないからこすりつけないで」
膝に顔を埋めて切なく泣き声を垂れ流す青年にはうんざりだ。見捨てない自分に努力賞を贈りたい。
再三のため息に憂鬱を混じらせる。
どうして青年の住むアパートに呼ばれてまでこんな面倒なことを続けるかといえば、それはチェインが彼に情けをかけてしまったためだ。
人狼局特殊諜報課と秘密結社の二股仕事は肉体を酷使する。頭を使うのはもちろん、朝から晩まで立ちっぱなしだったり、街中を飛び回ったり、悪い時は食事を抜く。
そんな緊張感はチェインの体力を奪い、激務でへとへとになって帰る時には気力も決意も生活能力もすぽんとどこかへ飛び去ってしまい、ベッドに飛び込んで泥のような眠りに落ちる。
極度の疲労に見舞われていなければ食事もできるが、仕事終わりに自宅で料理に勤しむよりおいしい店で駆けつけ一杯から深夜まで過ごす方が手軽なため、どうしても食費がかさみがちになる。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにする青年、は、そんな女性の助っ人だった。

は人狼局特殊諜報課企画係情報整理班の班長を務める青年だ。
情報整理班は明らかに不必要となった情報を完全に処分してしまう重要な仕事が主な業務となる。班長に就くは、企画係に求められた情報を上層部へ提示する権利が与えられ、膨大な数のデータから特定の分野の一部分を抜き出して見せる者の中でも特に優れた技量の持ち主だった。
チェインとは、ジャネットとオリガをきっかけに顔を合わせた。
同僚たちに――際立ってオリガには、本人にしか使えないスペシャル飲み放題クーポンが好まれて――可愛がられる青年は、彼女らから『面白い人物だから』とチェインに紹介されたのだ。この初対面も、チーム内で午後半休を取った一部の人狼たちが生きる割引券を引っ張って来て同席させた日だった。
どこがどう面白いのか、素朴な問いへはジャネットが答えた。
「あまり見ない能力と使いこなせていない所見が、少し」
憐れみを含んだ声音だった。

青年の特殊性は生まれつきではない。ヘルサレムズ・ロットがヘルサレムズ・ロットとして機能し始める前、無理やり宿されたものだ。
奇妙な伝説やあり得ない物体が知らずそこかしこに転がる世界で、彼はとある職場で働きながら、調査に同伴させてもらえるのを良いことに、写真家を目指して全国を旅していた。
ある日、辺鄙な街のうら寂しい街路を眺めたは不釣り合いな珍しい蝶に惹かれ、『この先入るべからず』の封印に気づかず、へんてこな領域に足を踏み入れて無作法に歩き回った。それが悪かったのだろう。
目がくらみ、意識を取り戻した時には何もかもが遅かった。
一見すると異常はない。だが、体内には知らない感覚が渦巻く。同行者に心配されながらホテルへ戻ってシャワーを浴び、ようやく嫌なそれと向き合って意識すると、青年のふくらはぎが突如としてぱっくり裂けた。
中指ほどの長さの傷が一直線に走り、ぬるい液体が肌を滑ってシャワー室のタイルに流れていく。目が釘づけになって、あ、と喉の奥から声が漏れた。
いつの間に切ったのか。どうして今まで痛くもかゆくもなかったのか。
ずきずきと痛む脚を引きずって訊くと、このあたりには近づくと身に禍が降りかかる墓地があるらしい。言われてみれば足元に墓石があったような、と思い出した彼は冷やりとする。
――魔法をかけられた。
はぶるりと震えた。
眉唾だと一笑に付すのは簡単だが、体験したら何も言えない。
恐ろしいことにこの『魔法』。オカルト方面に詳しい人物を以てしても解き方がまったく不明だった。今になって思うが、異界から滲む伝説的な超常現象が形になって襲いかかってきたに違いない。
狙って意識しなければ単なる人間。意識すれば、痛みを感じず怪我もしない。どんなに殴られても痣はできず、頬が腫れることも口の中に血の味が広がることもない。骨折が必至の大怪我でさえも無効化できる。最強無敵のネオヒューマンの誕生だ。
――怪我を負わない。
それがにまとわりついた『魔法』だった。
が、そんな上手い話があるわけがなく。
ただの『ツケ』である。現実の後回しだ。身体の内側に溜めこまれる傷や痛みは発散しなければならない。いつまでも抑えつけておけるとは思えないし、もしも抑えつけきれなくなった時、溜めこみ過ぎたそれらが一斉にやって来て全身ずたぼろ状態で痛みに悲鳴を上げ廃人となった挙句命を散らす未来だけは避けたかった。
だからは首が回らなくなる前に『ツケ』を返すことにしている。
だが小まめに返しても痛いものは痛い。いつも涙が眼に膜を張る。
どうしようもなく生きづらくなった彼にとって、ヘルサレムズ・ロットの誕生は願ってもない好機だった。
――あそこになら、なんとかできる人がいるかもしれない。
幸いにも、の職場は違う部署に異界方面の繋がりを持っていた。仕事ぶりの評価が高かった彼は、驚くべきことにあちらでの職も工面してもらえた。つらい魔法について泣きべそで問い合わせた直後に指令を受けた、『奪われてはならない』資料取扱い係への異動である。奪われてはならないということは、非常ベルを鳴らして助けが駆けつけるまで力尽きずに防衛装置を作動させておく必要があるということで。
深読みしないほうが誰にとっても幸福だ。
限定の飛行機に乗り込んでおよそ9時間の旅を終えたの受難はまだ続く。


話は戻る。
新たな職場で下っ端の下っ端として働き、二年目を目前としたころに、はオリガの紹介でチェインに出会った。
初対面から何度か――からすれば上層部の――人狼局特殊諜報課の面々とテーブルを囲み、やがての能力が明らかになると、チェインは過去のジャネットと同じような表情で青年を見た。
どうりで、元気でぴんぴんしていた翌日にふらふらで歩く姿をよく目にすると思った。ちまちまと『ツケ』を払うためだ。
事情を聞いたチェインから、いやそれ自業自得でしょ、と冷静な言葉の刃で切りつけられたはさめざめと心で泣いた。
彼も彼女もお互いに踏み込むつもりはなく、境界線で分けられた仕事の世界で、たまに飲み食いして遊びながら『知り合い』として過ごしていくはずだった。
チェインが自宅の前でしゃがみ込むをうっかり見つけなければそれで終わっただろう。
存在を希釈してすうっと消えるには一歩遅かった。彼女を見つけた青年は飛び上がって、チェイン、と名前を呼んだ。チェイン、頼むから慰めて、と言った。絶対にご免である。厄介事でしかない。
しかし、相手はオリガやジャネットが可愛がる弟分のような存在なのだし、いつもクーポン券代わりにして世話にもなっている。義理がないわけでもなかった。
女性として、友人未満の男を自分の家に入れるのは抵抗がある。
道端で三分間話し合い、彼女は青年の家に招かれることにした。
玄関から入るは、彼女がついて来ているのかいないのか確かめようと何度も後ろを振り返った。視線を向けて存在を認識できるかは別として、不安でいっぱいなのだ。出会いがしらに選択されかけたように、彼女ならすうっと消えたまま立ち去ってしまっても納得できる。あ、こいつ今私のこと疑ったわ、と察しても、チェインはきちんと青年の後ろからついて部屋に入ってぐるりと内装を見まわした。どうやらは私生活でも片づけが得意らしいと知る。
チェイン、と情けなく名前を呼ばれ、姿を現す。はたしてこの青年はどんな慰め方を期待しているのか。チェインは己の身の安全についてはそれほど心配していなかった。もしも邪な魂胆がむき出され、傷と痛みを『ツケ』られるのを良いことに無体を働こうとされても、不可視の人狼はの観測から逃れ魔手を回避できる。
はチェインに椅子を勧め、彼女の好みばっちりのお茶とそれに合うお茶請けを充分すぎるほど出した。空調の温度は適切に設定され、奥の部屋からひざ掛けまで持ってくる。彼は綺麗な手にテレビのリモコンを預けた。ごめん、と言う。ゆっくりしていて、と続ける。そして、チェインの足元にしゃがみ込んだ。
自分で自分を抱く両手が震えだす。ひきつる悲鳴は、押し殺されてくぐもった。
?」
一分と経たないうちに震えが止まる。呼吸すらやめてしまった静けさが不気味で、チェインは青年に囁きかけた。
それを皮切りに、名前を呼ばれて初めて生まれた子供のように、青年がすすり泣き始める。
「俺さ……、こんなの……、嫌でさ……、でも……、チェインが言ったとおりだろ、だって……、自業自得で……。だからってあんまりだ……。ちがうかな……。俺って……、なんでこうなっちゃうのか……、やけに絡まれるんだ……。昨日は酒瓶でがつん、だし……、ここ……、切った……。今朝も事故りかけて……、すげえ痛いんだ……。く、く、車に当たったから……、ひび入ってたらどうしよう……」
「酒瓶?車にも当たったの?どこ?」
「酒瓶はカノンってバーで……、車は、局の食堂に行った時に近くで……」
「身体のほう」
「こめかみと肩……、左……」
先日はバイクの後輪が滑って転びかけた。殺人的な速さで高速回転する丸い足とは相性が悪そうだ。
顔を上向かせて診れば、は額の横からたらりと血を流していた。出血部分の形状からして、鋭利なガラスの細かい部分が引っかかったのだろう。
同じく顔に傷――痕跡だが――を持つ男性を知っているチェインは、の崩れた表情と溢れそうな涙に微かな不快感を覚えた。を見て、あの彼を思い浮かべてしまった自分が嫌だった。彼らの共通点は性別くらいだ。
わかりやすくため息をつく。の一挙手一投足を嫌わないため、彼女は怪我のほうに意識をやった。
「いつもはどう治療してるの?」
「びょういん」
「じゃあ今回も病院行けば?私、手当てしないから」
「行く前に慰められたかった……」
「だったらもう良い?」
「ううう、チェインんう……」
「血まみれの手で触らないでくれるかな……」
濡れた髪の上から傷口を押さえたせいで、手には血のスタンプがついている。
だいたい、絡まれるにしてもどうしてここまでやられるのか。どんな絡まれ方なのか訊ねる。
「よく、『粋がってる』って言われる。態度が気に食わないとかナメてるとか、『きょろきょろして目障り』もあった」
きょろきょろするのは写真家志望時代の名残りとして。
である。
なまじっか痛みやつらさに慣れてしまったものだから嫌になって、どうせ痛いなら心の準備をしたい、と日頃から感覚を遮断する癖がついて、些細な痛みもツケている。車のサイドミラーが肩に直撃しようが急に身体をぶつけられようが平手で打たれようが蹴られようがナイフで脅されようが平気な顔だ。この程度なら痛くないんで大丈夫ですよ、と言葉だけ掬えば挑発とも取れる発言すら飛び出る。相手はカッとなって、事態は深刻な方角へ走り出す。
自分でもちょっとだけ『痛みに屈しない俺カッコイイ……』と子供のような遊び心を忘れられずにいるのも悪循環を生む。『カッコイイ俺』を演じる役者気分で、やけに強気に出てしまう。
クールに立ち去ってから、痛みの合計を想像して鼻の奥がつんとなるであった。
上手く聞き取れなかったが、総括するとつまりは。
「格好つけね」
「うううぅ」
はテーブルの脚に背をもたせ掛け、三角座りで小さくなった。
匙を投げて冷めた紅茶を飲んだチェインに、の声が追いすがる。
「でもチェインと話せて嬉しかった」
ずっと一人で耐えていたから。
迷惑だったが、チェインはを好きでも嫌いでもない。『同僚の知り合い』というちょうど好感度の真ん中に置いている。だから感謝は素直に受け取れた。
ティッシュボックスを手渡しておしまいだ。チェインが帰ったあと、タクシーで病院へ行ったらしい。
翌週、職場ですれ違った人狼局特殊諜報課企画係情報整理班班長はチェインに笑ってそう説明した。
「ひび入ってなかった!」
「あ、そう」
八割くらいどうでもいい。


これで終幕かと思いきや、チェインはまたを見つけてしまった。資料室の隅、棚の折り返し『D』列の足元に既視感を覚える体勢で蹲っていたのだ。三百六十度、どこから見ても鬱々とした様子だった。
今度こそチェインはすーっと消えた。彼の自宅でご馳走になった至れり尽くせりのひと時は休憩になったが、もう二度と泣きつかれたくない。
しかし、こんな時に限って資料室への届け物を頼まれる。これは自分の仕事だろうか、と手に持つデータ媒体を見下ろしても、任されたのはチェイン・皇だ。
昼休みとは打って変わって「はあいどうぞー」と局員を明るく歓迎したは、来訪した人物を見てびっくりしたあと、チェイン、と名前を呼んだ。
籠められる懇願の響きには気づかなかったふりをした。
「これ、課長が借りてた物」
「どうもありがとう。ここに日付けと返却者のサインをお願いします」
流されたと気づいたは捨てられた仔犬さながらに瞳を陰らせたが、事務手続きは抜け目なく行った。
「チェイン。俺さ、俺、さっき……」
聞いてもいないのに、彼は手短に説明した。彼は昼前、本棚の上にあった段ボール箱を取ろうとしたら予想外に重くてバランスを崩し、脚立ごとけたたましく倒れ込んだ。背中をしたたかに打ち付けた。その時は感覚を遮断していたから痛くなかったが、確実に青痣になる落ち方だった。
それで完全に気分が萎え、後片付けをしてから昼休みの間はずっと自己嫌悪に陥っていたと。
「だから?」
「なぐさめて……」
「友達いないの?」
「チェインがいいよぉ。なんでもするからぁ」
なんでもするならこのまま戻らせて、と踵を返したチェインの腕をがつかまえる。
「いい加減にして」
「なんでもするから。なんでも。ご飯も奢る。メロンパン……とかそういうのも買いに行く。ケーキ出す。チェインが見たいDVDも借りてくる。食べたい手料理も……炊事洗濯掃除……なんでも!」
反応しかかったのは、『掃除』の一言だった。
招かれて入ったの部屋は整然として見映えが良い。
はチェインの顔を覗き込んだ。大きくぱっちりした瞳が、照れてはにかむ年下の青年を映した。
「でもチェインには必要ないか!ごめんな、チェインだったらなんでもできるよな」
反論を紡がせない信用しきった笑顔に、彼女はむしろ打ち明けても良いような気がした。は仕事柄、情報の扱いには慎重で、軽そうに見えて口は堅い。友人と友人の間に立ち両者の話を聞く時も、『伝えて』と仄めかされなければ伝えない。脳をハッキングしたら秘密がボロボロ出てくるだろうと笑われる。
しかしすぐに思い直した。これはチェインの根幹にも関わる問題だ。
人狼局と提携する研究機関が出した結果でも、精神の侵害まで『ツケ』られるかどうかは未知だった。
はあ、とため息をつく。彼の持つクーポンやコネで格安の外食をしているのは確かだ。椅子に座って、泣く彼の頭上から「病院行ったほうが早いよ」とたまに提案するだけで彼は満足するのだから、短い時間なら我慢しよう。
チェインは了承の合図として目を伏せ顔を横向ける。
「チェインー!」
「やめて」
彼女の諦めを敏感に感じ取ったは顔を輝かせてチェインに勢いの強いハグを求め、能力を惜しみなく無駄遣いした彼女をすり抜けてPCラックに顔面をぶつけた。痛みはない。赤くもならない。
ただひたすら悲しそうだった。


こういうわけで、チェインはしくしく泣く青年をおざなりに励ましている。
「今日はなんで?」
「顔が粋がってるって……」
「どうりで顔面を集中的に」
「ひどいよな……」
「でもどうせまた自分も大見得切ったんでしょ?」
「強いほうがいいもん……」
強制的に変えられた体質が生来の負けず嫌いな性格を引き出してしまったのか、は威圧されると演劇気分で対抗して大きく出る。自分に酔う最中は痛みとも傷とも無縁だからボルテージはどんどん高まってゆき、いつしか後戻りできない高さに到達する。その高さを基準に攻撃されると、『普通の』はひとたまりもない。
「カッコよかったよ、俺……。チェインにも見せたかったなあ……」
「女の膝に縋りついて泣いてるのは死ぬほどカッコ悪いと思う」
「うええぅ」
「痛いの?」
「チェインが冷たいの」
「うんざりして殴らないだけいいわ」
投げる匙のストックもとっくに切れた。
「粋がるのやめなよ」
「わかってるんだよお。でも俺カッコイイかも、って思っちゃうんだ……。だってそんときは痛くねんだもん……」
「呆れて何も言えない」
「チェインー。頼むよー、ヨシヨシしてよー。中華だよー、たんたんめんー、みんなで行こうよぉー」
「痛いんじゃないの?」
応急手当の消毒液くさい青年は、鼻をすすって身を乗り出した。膝立ちで背を丸め、チェインのみぞおちに額を押しつける。
「いたいよぉ……」
このまま自分を薄めたらこの青年の顔面は椅子でバウンドして身体ごと床に倒れ込み激痛にのたうちまわるのだろうなと考えながらチェインは耐えた。片手で同僚に今夜の予定を訊くメールを打つ。
だって、撫でるだけでいいのなら、担々麺は捨てがたい。




2016 0403
Designed by Pepe