ボーダー本部 外務営業部所属の彼女の駄々
過度な出張が社会人に及ぼす影響の記録
短い文章で呼び出されたから何かと思って走って向かったアパートの三階は、カーテンを理由にできないくらい真っ暗だった。
息急き切って合鍵を使い、「さん!」と暗闇に呼びかける。
返事はない。
開きっぱなしの画面には、確かに『あいたい』の四文字が並んでいるのに。『どこにいるの』と訊いたら『うち』と返事があったから走ってきたのだ。
部屋の電気をつけると、フローリングの上に人がうずくまっていた。
「うわぁ!!」
まずそのごめん寝にびっくりし、次に彼女が着替え途中の姿だと気づいて飛び上がった。
「風邪ひくよ!?」
「ひきたい」
「インフルエンザから快復したばっかりでしょ!! ……って、なんで暖房もつけてないの。ああもうこんなに冷えてるのに」
むき出しの首筋や足の裏に触れるととても冷たくて焦りが増した。反射的に言っただけだったが、は本当についこの間まで重篤な症状に苦しんでいたのだ。失った体力が戻るには想像以上に時間がかかる。迅はそれを知っているから余計に、まるで無頓着ながもどかしくてならなかった。
手早く暖房の電源を入れ、のんびり屋な家電があくびのような音を立てて起動したのを横目で確認する。
を引きずってこたつもどきに突っ込もうとしたけれども、本人が頑として動こうとせず床に爪すら立てたため、諦めて寝室のベッドから毛布をひっぺがし、ごめん寝レディに覆いかぶせた。
迅が風圧で乱れた黒髪を撫でつけてやると、はようやく身じろぎした。じんくん、とくぐもった、弱々しい声がする。
迅はこれを守りたい、といつも強く思うのだ。
か細い声を聞くと、が、このひとが、迅悠一よりも歳上なだけの、一人の女性だと思い知らされる気がして。
うん、と迅はに寄り添った。毛布ごとを抱きしめて、彼女の心をここまでさせた何かを知ろうと耳を傾ける。
促す声は低くやさしくに届き、こんなとき、は彼が、迅悠一が、一人の男性だと思い出す。
「……あのね」
「うん」
「……わたし」
「うん」
「出張いきたくなーい!!」
が勢いよく跳ね起きた。迅は巻き添えを食らって毛布の津波にのまれた。
「……はぁ!? 出張!?」
「行けって!!」
理解が追いつかない。
「……え!? それでこんな感じになってたの!? 出張ってそんなキツい!? 何回も行ってるよね!?」
「前は前!! 今は今!! やなの! いきたくなーい!! 迅くんー!」
「えええ!!」
今度は迅が床に寝そべる番だった。倒れた身体に馬乗りになられて動けない。
迅の上でうずくまったの肢体の、ちょっとそれなりに豊満な部分が迅の胸にやわらかく押しつけられる如何ともしがたい体勢に、青年は高鳴る鼓動を必死で抑えた。
無我の境地へ至ろうと頑張る彼はが切々と説く出張の憂鬱さを半分以上聞き流したが、も反応が欲しいわけではなかったのが幸いだった。
ひたすら首筋のあたりにぐりぐりと額をこすりつけられ、迅悠一の繊細な琴線は脳裏でハードロックを奏で始める。
(なんだっけこの曲。あー思い出せねー。ていうか思い出してどうすんの。いやなにこれ。あーいいにおいする。なんだっけこれ。さんいいにおいする。あー……いやなんかどうすんのこれ。あー……さんがコーヒー飲んで……いや、これ誰が淹れ……あっおれ? おれだね? おれしかいないね? えーと何の話だ?)
混乱しても迅悠一の身体は正直である。
えーんと嘆く恋人を慰めるため、両手でぎゅっとを抱きしめた。
「出張から帰ってきたら、なんでもいうこと一つ聞く。……っていうのは?」
「……、なんでも?」
「そー。なんでも」
「……ぼんち揚げを断てって言ったら断つ?」
「それでさんが安心するならがんばる」
やさしく背中をたたく手に、はささくれた心が落ち着くのを感じた。
「……がんばらなくていい。大人げなかった。ごめん」
「大人げないさんも好きだよ」
「出張いきたくないさんも好き?」
「おれを呼んでくれたからね」
の顔をあげさせる。
迅悠一はいたずらっぽく視線を流してみせた。
「一人で抱え込んで我慢してるさんより、おれに頼ってくれるさんのほうが好き」
「迅くん」
「だから出張いきたくないさんも好き。呼んでくれなかったら拗ねたけど?」
「……うん」
撫でられるがままのには、愛しむような眼差しが眩しく見えた。
大切で、好きで、たまらない。
わがままを言いたくなる相手が、無条件で受け入れてくれる。
迅からの口づけは蜜のようで、このまま琥珀になれたらいいのになぁ、とはぼんやり考えた。
そしてふと気がついた。
「わたし、迅くんと会えなくなるのが寂しかったのかも」
「……へ?」
今回は特に、さびしくなるタイミングに重なったのかも。
答えに辿り着いた彼女は幾分かすっきりして、情けないところを見せちゃったな、と反省する余裕まで生まれたものだが。
「さみ、しい?」
呆然とした顔がある。どこか幼くなった表情を見て、ちょっと情けなさすぎたかも、と恥ずかしくなるのは歳上ゆえか。
「おれに会えなくなるのがさみしかったの?」
「たぶん」
ごめんね迅くんと言おうとしたは、思いっきり起き上がった迅に押されて床に転がり落ちた。フローリングを冷たいと感じたのは、抱きついていた迅の体温を借りたからだろう。
目を丸くするを洋画もかくやと抱きしめて、迅悠一はめっちゃ叫んだ。
「出張いかないで!!!!」
「ええええ!!?」
2019 0620