ボーダー本部 外務営業部所属の彼女の病状


インフルエンザに罹った記録


 体温計がうるさく鳴いた。
 電源をつけたのは自分なのに、数分もせず眠りに落ちた気怠い体にはその電子音が異様に鬱陶しく思えてたまらず大きなため息をつく。
 熱っぽいため息は憂鬱に満ちていた。
 楽しい出来事のあとには必ず一山が待っているのが彼女のありがちルートだったがこんなトラブルは久しぶりだ。

――――会う予定だったのに、悪いことをした。

 朦朧とした口調で電話をかけた相手の顔を思い浮かべる。
 何と言ってドタキャンしたかも覚えていない。ちゃんと謝罪だけはした気がする。
 それから、いいよ、いいから、電話してる場合じゃないから病院行きな、と何度も何度も言われた、ような。

(ごめんね、迅くん……)

 こんなときばっかりしか会えないのに。デートと名付けて良さそうな時間なんか、捻出するのが難しいのに。
 最後に見た迅の頬は隠しきれずに嬉しそうに笑んでいたし、彼女だって目立って口にはしなくても楽しみだった。
 ごめんね、迅くん。
 ぽつりと呟いた。
 熱が頭をぼんやりさせる。関節が痛くて、寒くて苦しい。
 うまくいかないことばかりで無性につらくて、悲しくて、「迅くん」と呟いた。迅くんごめんね。
 いいよ、と何度も聞いた優しい声がする。
 そんな予感がした。


 着信音は切ったまま。
 枕元で這いずるようにスマホが唸った。
 仕事のそれと勘違いして、う、と震える指先で電話をとる。社畜に電話をとらない選択肢はない。

「はい、いつもお世話になっております」
「仕事の電話なら居留守しろー、って言ったのに」
「……じんくん」
「聞いてなかったでしょ。まあ、仕方ないか、具合げろげろだったもんね。まだ熱高い?」
「…………だれ」
「いやさっき言い当ててたよ。迅くんです」
「じんくんかあ……」
「ダメだこりゃ」
「なんででんわ」

 迅はこういうとき、病人をそっとしておくのに。治れば連絡があるとわかっているから催促をしてきたりはしないのだ。
 なのにどうして。

 スピーカーボタンを押すのももどかしく、かと言って腕を持ち上げて耳に本体を当てるほどの元気もなく、なかばスマホにのし掛かるように横顔をのせた。枕と耳元で押しつぶされたスマートホンは優秀で、迅の息づかいまで彼女の鼓膜に吹き込んだ。

「声が聞きたくなる頃かなと思って」
「……わたしが?」
「うん。だって、体温計とおしゃべりするのも飽きたでしょ。おれもそうだけど、篭ってるとたまには違う音も聞きたくなるもんだし、できればそれって……ほら、……気に入ってる人とかの声だったら良いかなとか? そーいう感じじゃん?」

 迅はちょっとだけ早口で言った。
 病人相手に話を長引かせるのは良くないから、歯切れよく大人じみた言葉を紡いでスマートな慰めを残すつもりだったのが、どうにも調子が狂ってしまってよくない。
 茶化してみても心配だし、感染力の強いウイルスだからそうそう見舞いにも出向けない。彼女だって出向いて欲しくないだろう。
 わかっている。
 けれど何か力になりたくて。
 せめて、隣に座って手を握れない代わりに、病床でも死ぬほど気に病んでいることだろうドタキャンについてもう一度、きちんと『いいよ』と正しく伝えるだけでもしたかったのに。
 うまく言葉が出ないなんて情けない。
 迅は苦笑した。
 これじゃあまるで恋する子どもみたいだ。
 ぼうっとした沈黙は、彼女が困惑するあかし。
 迅は、三階の窓を見上げながら首を振った。
 閉じられた窓の向こう、開かれたカーテンの向こう、ベッドの上で眠るひとへ向けて告げる。

「今のなし。あのさ、ホントは違うんだ」
「……なにが?」
「ほんとは、おれが声を聞きたかったから電話した」
「……そか。……でもわたしも聞きたかったような気がするような気がする……」
「熱あるね」
「うん……」
「……夜はちゃんとカーテン、閉めて寝ること。気力が出たら何でもいいから口に入れること。飲みものは飲むこと。吐きたくなったら吐くこと。汗かいたら服かえること」

 指折り数える手のひらを、冷たい風が撫でていく。冷えた風が舞い上げた髪の束をかきあげると、一つ先の曲がり角を灯油売りのトラックがのんびりと通り過ぎるのが見えた。

「それから、声が聞きたくなったら、時間気にせず電話をかけること」
「……迅くんも」
「……はい」

 格好がつかずしおれた声が可愛らしい。
 くすくすと笑うと、彼も笑った。
 電話口から漏れ聞こえるかすかな笑い声と小さな何かのメロディが、熱でうつろな頭に心地よかった。
 なんのメロディだろう。
 少し考えて思い出す。
 ああ、あれは月の砂漠だ。


 そういえば、なんでカーテンがあいてるって知ってたんだろ?
 不思議に思ったのは、『迅くんに言われたからカーテンを閉めなくちゃ』と身を起こしたときだった。



2019 0220