身体を動かした時、の頭には打算しかなかった。ジョルノを助けられる。義理を返せる。私は帰ることができる。一つの石で三羽の鳥を落とせるのだから、やるしかない。
ジョルノならば対処ができる。わかっていても、の手は少年を突き飛ばした。放たれた弾丸の前に身を躍らせる。帰れると思った。これでこの嫌な世界から脱して迷路を抜け、元のつまらなくて平穏な日常に戻ることができる。
しかしジョルノは突き飛ばされる刹那、の細い手首を掴んだ。強く引き、彼女の体勢を崩させる。ミスタのピストルズが弾丸を運び、ボスを狙った凶弾をはね飛ばす。高い音と火花が散った。
細い身体が二つ床を滑り、埃を立ててもつれあった。が失敗を悟るまであまり時間は必要なかった。
「……だから、言ったでしょう。自分を傷つけるような真似はやめてください、と」
少女がすりむいた手のひらを、ジョルノは優しく包み込んだ。すっかり静まった硝煙の中、ピストルズの勝利の快哉が響き渡る。

治療を受けながら思うのは、ぼんやりとしか思い出せない自宅の間取りのことだった。それほど長い時間ではないはずなのに、が家に抱く印象が薄すぎたのか、もううまくイメージできない。
それならばこの世界はどうか。
ジョルノに与えられた部屋は清濁さまざまな記憶となっての頭に焼き付いていた。何度も死を試み、何度もジョルノに止められた。時には怒りと企みに任せて少年の柔らかな頬を叩いたこともあった。ボスへの非礼を咎められ殺されはしないだろうかと思いついたのだが、ジョルノもミスタもポルナレフも、が名前を知る人はジョルノを笑うだけだった。避けもしないジョルノの何かを笑い、ジョルノもの意を読み取って微笑んだ。仕方がないですね、と言われ、の胸を羞恥が刺した。悔しさが滲み、は二度とジョルノに手を上げる無駄な抵抗はしなかった。初めて人に平手をぶつけた夜は、嫌な感触が手に残って眠りづらかった。
「痛みますか?可愛らしい顔が台無しですよ」
は何も言わない。大げさに包帯を巻かれた手をジョルノに握られたまま、さり気なく部屋を見まわして鋭利な瓦礫を探した。
「僕がこうして手を握っている限りは無理ですよ、
「振りほどけばいいでしょう」
「なるほど。では、どうぞ」
大した力も入れず手を取り返そうとする。やる気のない様子に、ジョルノが苦笑した。
「一生懸命やってくれれば、僕も力加減を間違えたふりをしてあなたを抱きしめられるのに」
「……そのまま刺し殺してくれますか?」
「僕はスマートではない殺し方は嫌いです」
「スマートな殺し方って、何?」
「さあ?唇で窒息死なんか、いいんじゃないですか。試してみますか?」
はまともな会話を諦めた。
白い包帯越しに触れているので、ジョルノの手のぬくもりはにうまく伝わらない。柔らかく、少し硬い少年の手のひらがの手を撫でた。
痛々しく見えるのはミスタが敵陣からかっぱらった治療道具がたくさん使われているからで、傷自体は大したものではない。そのことが理不尽で、の頬からはゆっくりと血の気が引いていく。壁の銃痕がの腹に焼き付いていれば、今頃は。
彼女の考えを見抜き、ジョルノは滑らせた手を止めた。手の甲をなぞるだけにとどめておく。
本当は腰を抱いて顔を近づけ、二度とこんなことはしないでほしいと、嘘でも肯定をもぎとりたい。なぜかといえば、それはジョルノがに並ならぬ想いを抱いているからだった。

怯えた顔で後ずさる少女を見た時、ジョルノの心には明確な変化が起こった。ごとりと音を立てて何かが傾いた。
できるだけ温和な笑みを向ける。少女はぎこちなくと名乗った。とてもとても良い響きだと思った。
組織に帰還したジョルノの表情に口を開いたポルナレフは、片目を悪戯っぽく細めて言ったものだ。
「私たちは春に会ったな。それから何度か季節は廻ったが、どうやらこの冬に限って、君にはまた新しい春がやって来たらしい」
俗っぽさに気を悪くしかけたが、ミスタにも同じようにからかわれては認めざるをえない。
三階の部屋から飛び降りんとするを慌てて室内へ連れ戻して気づく。ひどく身勝手で、帰りたいと強く願う彼女にとっては嫌悪の対象でしかない感情だ。
一目惚れだった。
積極的に死にたがる少女を見ていると放っておけないと思う。ずっとこの世界にいればいいのにと思う。もちろん、現実味のない願望だ。
短いながらも同じ空間で相手に気を配り、食事を共にするうちに、物わかりの良さそうな顔の下に押し込められていた弱い部分が見えた。苛烈な一面も読み取れた。世界を越えて元の場所へ戻りたいと全身で訴え、ここから抜け出すために、手を震わせることもなく躊躇わず包丁を握る覚悟も痛いほどに感じる。ジョルノはに怖くはないのか訊ねたことがあったが、の答えは簡潔で、ジョルノに寂寥をもたらした。
「この世界の方が怖いので」
本当に帰りたいのだ、この少女は。そしてジョルノは帰したくない。
道が交差しないので、ジョルノは彼女を殺さないために細心の注意を払い続けてきた。
限界が訪れたのだと知るのは、それから数か月後のことだ。

はもう、ジョルノを殴りも、庇いもしなかった。挨拶もしなかった。
「あのですね」
そう切り出されたのが前の晩で、ジョルノは小さなステーキを切り分けながら話を聞いた。
彼女にしては雄弁な夜だった。
「私はもう、諦めることにしました」
穏やかで感情ののった声だ。フォークを、つい、と振って微笑んで見せる。食事の味がわからないくらいに追い詰められていると思っていたが、少し気持ちの在り方が変わったのかもしれないと信じたくなる態度だった。
「『さようなら』は言わないことにしました。だって、もう、……ダメなんでしょう」
帰る手段をことごとく奪い取っているのは、ジョルノその人だ。隣に立つミスタが肩を竦めて舌を出した。だよな、とに同意する。この若きボスに目をつけられてしまっては、逃げようがない。
一度訊いてみたことがある。強制的に、スタンドを以て、この世界に留めようとは思わないのかと。そうするとジョルノはこう答えた。実に爽やかな笑顔だった。
――――そんなことをして、に嫌われたら嫌じゃないですか。
嫌われていないと思っていたのかと仰け反った記憶が懐かしい。ジョルノは裏を感じさせない唇から稚拙な愛を囁いた。いつのことだったか、日付は忘れた。
「あなたは一目惚れを信じますか?」
すべての会話の流れを断ち切って問いかけたジョルノに向けて、は心底理解できないという瞳で応えた。
「いえ、まったく信じていません」
「でしょうね」
そして翌日、は死体も残さずに消えてしまった。