ジョルノの手が包丁を叩き落とした。刃物はうるさく音を立てて椅子にぶつかり、少女は瞳の奥に燃えた憤りを瞼で隠す。動揺を見せまいと、しかめたい眉に理性を集める。
「やめてください、。自分を傷つけるような真似は」
この懇願に対する返事は決まり切っていた。は家に帰りたいのだ。

死ねば戻ると知っていた。なぜ知っているかと言えば、そう告げられたからだ。
は大いなる存在によって無作為に選ばれ、この世界に落とされた。本当は誰であっても良かったし、大いなる存在に個体の区別はついていない。
彼女は人生の絶頂にいたわけではない。誰とも変わらぬ日常を送り、社会への不満を抱いて生きてきた。諦めを覚えた速度は速すぎるほどだった。家計が苦しくなり、通いたいと心から思った学校に通えなくなっても静かに諦めたし、笑顔で気にしないでと言ってみせた。必要もないのに、本当はそこまで行きたくなかったと嘘まで吐いた。ずっと昔、面倒を見ていた鳥が死んでしまっても、仕方のないことだと割り切った。いつからこうなったのか、自身憶えてない。人生は自分の好きにならないことばかりが起きて、誰かに文句をつけるのはおかしなことだ。は大人しく儚く、困ったような笑みを浮かべる。そういうことばかりうまくなっていた。
そんな彼女にも諦められないものがある。
理不尽だと胸の奥が凝っても、どんなに苦しくても、生まれ馴染んだ世界に戻りたい。
大いなる存在が神だとして、は神に選ばれたのだとして、彼女は何のありがたみも得られなかった。は立ち上がらなければいけなかった。今までずっと後ろを向いたままだったのに、突然現実の逆風に強く吹かれる。髪がなびき、頬にかかり、スカートが風を孕む。どれほど進みづらくても、は元の世界に帰りたかった。
知らない人だらけだ。ここは嫌いだ。言葉は通じるけれど、明らかに異国だったし、理解の及ばない力が跋扈している。は精神のビジョンを視ることができた。言葉と同様に、これも大いなる存在の『優しさ』のおかげだった。
大いなる存在は言った。君はいつでも元の世界に帰っていい。
示された方法は『死』だった。この世界で死を迎えれば、は親しんだ日本の空気に触れられる。非現実的な知らない世界で、自分の戸籍もない世界で不安定に生きる必要なんてない。怖い思いをする必要なんてない。
は帰りたかった。

誰にとも知れない存在に教わった方法を信じるんですか。
ジョルノに言われ、は初めて気がついた。真理として受け入れていたけれど、確かにその通りだ。
しかし指摘されたその晩に与えられた個室の窓を開け放ち、下から煽るような風に吹かれベランダの柵を乗り越えた瞬間、の胸に明確な予感が射し込んだ。このまま飛び降りれば帰れる。
事実、その通りだった。本当ならば、はその時点で帰れるはずだった。ジョルノがの様子を見に部屋へやって来なければ、この不可思議な話は一日と持たずに終わりを迎えた。
硬質な顔をしたビジョンに羽交い絞めにされ、は部屋の中へ引きずり戻された。
「あなたは危ない人だ。三階に部屋を用意したのは間違いでした」
は黙ったままでいた。
「そんな顔をしないでください」
この歳若いボスが側近とともに乗り込んだ敵地に、はいた。制服のスカートが威嚇の射撃で打ち抜かれ、足には擦り傷があった。殴られた顔の腫れはもう引いているけれど、数日前はひどく痛んだ。大いなる存在による彼女への気遣いは皆無に等しかった。知らない場所へ放り出され、なぜか通じる言葉を頼りに助けを求めた男は、品性のある人間ではなかった。ただそれだけだ。
を救出したジョルノは彼女の事情を受け入れ、パッショーネでの保護を申し出た。亀の中で精神体として生きる男が、長旅の間に似たような事象を目にしていたのが幸いした。大いなる存在は何度かこのような事態を引き起こしていたし、そのたびに誰かが誰かの死を止めてきた。あるいは、無残に殺され元の世界へ戻っていた。
酷いシステムだとは思う。今だ、この世界で生き続ける選ばれし者もいるらしい。彼らの精神の強さが羨ましかった。
は帰りたいのだ。こんな怖い世界には居たくない。あの日本ならば平和なはずだと、強迫的に感じていた。
「帰りたいんです」
一瞬、弱弱しい声が出た。ジョルノが驚き、は転がる包丁を見た。椅子の脚に傷をつけて、にぶく光を反射していた。
「帰りたいんですよ、ジョルノさん。私はこの世界が好きじゃない」
「ええ、それは……わかっています」
躊躇いを多分に含んだ、囁くような同意だった。
「僕も本来なら、見逃す立場にあります。死体も残らないと言いますし、こちらに不利益はない」
「むしろ荷物が減って良いでしょう」
「そうですね。ですが、僕にはあなたを帰したくない事情がある」
「研究対象ですか?」
ジョルノは答えなかった。の指に触れた両手があたたかかったので、は慌てて手を腹の前で組んだ。相手が人間だと理解したくない気持ちがあった。
、くだらない理由なんです。たぶんあなたは凄く気持ち悪く思うでしょう。だから僕は言いません。僕自身、こんなことがあるなんて、実は信じていなかった」
何を言っているのかがわからなかったので、は口を閉ざしてもう一度包丁に目をやった。もう刃物にもロープにも触らせてもらえないだろうことは明白だった。