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彼氏持ちの女審神者の話×魔法
クィレルは立ちふさがる壁に慄いたように、一歩、後ずさっていた。
目の前にいるのはただの女だ。
たったひとりで、傍に控える男もおらず、手に武器もない。彼女が魔法を使えないことはとうに知っていた。杖を持つクィリナス・クィレルにとって、これほど御しやすい相手はなかった。
一撃でいい。
死の呪文を行使すれば立場が危うくなるだろうが、気絶させ、記憶を奪ってしまえばそれで片がつく。偶然にもこの空き教室を通りかかり、中で倒れ伏す彼女に気がつきあわをくった教師のふりをすればいい。
クィレルに小さく語り掛ける、もうひとつの顔もそう言った。
「放て……。気絶させろ……。記憶を奪うのだ……」
杖を握り直したが、彼の手は汗でじっとりと濡れていた。
女はスカートの裾がめくれていないか、確かめるように下を見た。防御の構えも見せない。逃げようともしない。圧倒的に不利な状況にあるくせに、恐怖も浮かべず淡々と、美意識に導かれるまま自分の恰好を整える。
その異常さに、杖先が震える。
審神者とクィレルの間には、目に見えない壁があるようだった。
それはいつか、『政府』の人間が彼女に感じ、冷汗を流したもの。
刀剣たちが彼女と接し、目を細めるもの。
正体を知らぬ相手に躊躇いと、得体のしれぬ圧力を与えるもの。
人はこれを何と呼ぶだろうか。審神者自身にも、わからない。
そもそも自分からそういった神的な空気が放たれていると、彼女はいまいち上手く理解できていなかった。勉強不足は後にたたる。
刀剣は審神者を喜ばせようと厨房へゆき、今ごろクッキーを焼くよう屋敷しもべ妖精に言いつけているだろう。
それを待ち、集めたカエルチョコレートのカードを並べて暇つぶしに興じる彼女は、薄く開けたドアの向こうに黒いローブの裾を見つけた。
声をかけたのは、暇だったからに他ならない。正義感に突き動かされたわけでも、一発脅かしてやろうと考えたわけでもなく、ただなんとなく口を開いて呼び止めた。
びくりと肩を揺らし、身をすくませた――ふりをした――男を教室の中に手招きして、審神者はじろじろと上から下まで彼を矯めつ眇めつ観察し、こう言った。
「ねえ、今どんな気持ち?」
クィレルは首を傾げる。
この時はまだ、穏当な空気があった。
「……な、な、なにが、ですかね?」
彼女の、脈絡のない問いかけはいつものことだとホグワーツじゅうがなんとなく理解しかけていたから、クィレルは不審がらなかった。
いつも通り、奇妙な質問でも投げられるのだろうと予想する。
だが審神者は、リップグロスでぷるりと潤った唇から散弾を放つ。
「重くないの? っていうか。……ほら、頭? だっけ? どっかにあるんでしょ、テイオウサマの……なんかが」
弾はクィレルの口を刹那、ぱかりと開けさせた。
笑い飛ばすか、驚くか、何にせよ反応しなければならないと頭が警鐘を打ち鳴らす。だがクィレルは動けなかった。秘密の核心を突かれ、咄嗟に吐き出せたのは空気の塊だけだ。
その空白は、明らかな肯定を示す。
どういった経緯で彼女がそれを知ったのかは、もうどうでもいい。とにかく黙らせねばならない、と手が勝手に動いた。腰元のホルダーから長細い杖を取り出すと、冷えた汗を拭いもせず鋭く突きつける。
審神者は目を丸くして、「あれ?」と言った。
「もしかして殺されちゃう系?」
「殺しはしない。どこでそれを知ったのか、少し苦しい思いはしてもらうが」
「え、やばすぎ」
「トウケン……だったか? 供のいない女をひとり黙らせるのは簡単だ。今のうちに、質問に答えるんだ」
「『どこで知ったか』? 『誰かに話したか』?」
「ああ、その通り」
女は恐れや怯えなどとは無縁な様子で、机の上のカードを指でさすった。
「ダンブルドアに言っちゃった、とかだったらどうすんの?」
「言ったのか?」
「言っちゃったかもかも」
「……ハッタリは賢明ではないぞ」
「でも一瞬、『ンッ』て思ったでしょ。ダンブルドアなら放置しそうだな、的なー」
確かに、と内心で頷きかけて慌ててやめる。この女のペースに乗せられてはいけない。
後頭部の帝王はひたすらに、女を黙らせろとクィレルに命じた。
「今は頼みの『刀剣』もいない。時間稼ぎをするつもりなら――」
その時。
黒々としたまつ毛の下の瞳が、クィレルを見た。
気分転換、と言ってつけられた青色のレンズが入っているはずなのに、クィレルにはその眼が深淵に見えた。
何もかもを吸い取り、喰らう色に。
クィレルは立ちふさがる壁に慄いたように、一歩、後ずさっていた。
審神者はちょっと上目づかいで可愛さを演出したつもりだったのだが、身を引かれたので不満げに唇を尖らせる。そのグロスの色がクィレルの目に焼き付いた。彼の主人よりも淡い、苺のような赤だった。
「私は別に、そっちと敵対しようとは思ってなくて。ただ気になっただけなのよね。それがナニ? 記憶を奪うだのなんだのって物騒過ぎじゃね?」
「……誰にも話すつもりはないと? ダンブルドアにも?」
「話したところでどうにもならないっていうか、話せないっていうかぁ」
「どういう意味だ」
審神者は疲れたのか、手近な机に腰掛けた。
そんな高いヒール靴を履くからそうなるのだ。
クィレルは女の足元を見て、無性にそう言いたくなった。
そう言って、笑い合いたくなった。
帰りたい、と思う。
どこかへ帰ることができれば、あるいは何もかもがクィレルの自由になり、この女のマイペースさに苛立たずに済むのかもしれない。
でも、どこに?
またしてもクィレルは頭を振る。答えのない自問だった。
女の口調は間延びして、頭の奥から滲み出るような小さな焦れがクィレルを焼いた。
気づいているのかいないのか、いやきっと気づいていないのだろうけど、審神者は視界に入る杖先がうっとうしいと言わんばかりに手を振った。
「私は『ここ』にあんまし干渉できないから」
歴史を変えるかもしれないことはできない。
少し疑問に思ったことを質問する程度ならば許されるだろう。これもぎりぎりグレーゾーンといったところだが。
しかし彼の正体を『誰か』に告げ口することはかなわない。
なぜならそれは、この世界の誰もが、まだ知ってはいけない話だからだ。
人はそれをネタバレと呼ぶ。
「それを信じろと?」
言いながらも、クィレルは確信していた。させられた、というべきだろう。
彼女の気配は嘘をついていない。
心に語りかけられたように理解できた。
「信じなくてもいいけど、ホントのことだし」
自分が醸し出す空気には頓着せず、審神者はさらさらにまとまるヘアスプレーの指通りを何度か楽しんだあと、興がそがれた顔でしっしと手を動かした。
「いいよ、行って。オツカレ。会話する気がないんだったら呼んだ意味ないし。世間話くらい穏やかにやろうよ」
お前の世間話の枠組みはどうなっているんだ?
襟首を掴んで問いかけたそうな顔で奥歯を噛み締めたクィレルは、杖を下ろした。なぜだかものすごく毒気を抜かれた気がする。
頭に直接、ヴォルデモートの声が響く。なぜ呪文をかけないのかとクィレルを糾弾する。
だがこの時、クィレルは初めて帝王の言葉に逆らった。
(我が君。この女には供が居ります。やがて戻って来るでしょう。奴がこの女の異常に気づかない筈がありません)
(クィレル! それは愚かな選択だ。お前の呪いなら、あの男どもの目を欺くことはたやすい)
(ですが……、……ですが、彼らの力はもうご覧になったでしょう! 私が敵う相手ではありません!)
帝王は半ば懇願に近づいたクィレルの言葉に、沈黙を返した。
確かに、その通りだ。あの男――刀剣たち――の能力には帝王でさえ舌を巻く。
非魔法族であるにも関わらず、『欲しい』と思うほどに、彼らの力は強かった。
クィレルは敵対すら許されないだろう。杖を構えた瞬間、神速の刃が飛ぶに違いない。
それよりはこの女を懐柔し、むしろ自分たちの配下に加わるよう誘導したほうが楽かもしれない。
(そう、随分と――)
クィレルと帝王の思考が重なった。
(頭の軽そうな女であるし)
つい先ほど感じた威圧感が嘘のように消えた今、目の前で足をぶらつかせる女はただの凡人にしか見えなかった。
警戒はするが、同時に新たな道が拓けた気がして、ヴォルデモートはひきつる口元に薄い笑みを浮かべた。
クィレルが手近な椅子を引く。
そこに腰掛けた彼を見て、審神者は目を丸くした。
「ナニ?」
きょとんとした顔は随分と若く見える。
化粧のせいだろうか。
そういえば年齢すら訊いたことがなかったと気づく。
彼女の情報は少なすぎた。
まず何から話そうかと考えながら、クィレルは杖のひと振りで教室の扉を閉めた。
おどおどした表情を取り去り、冷静な眼差しで女を見つめる。彼女は気味悪そうに肩を竦めた。
「穏やかな世間話をしようじゃないか」
「……え、マジで急になに?」
「そうしたかったのだろう」
「まあ、うん、暇だったし」
「彼が――……、キヨミツだったか。あの青年が戻るまで、君の暇に付き合おうと言っているんだ」
審神者はしばらく中空を見つめた。
それから「まあいっか」と疑問をすべて投げ捨てる。
一触即発を乗り越えて、清光が戻るまでの、短い談話が始まった。
20150530