目が勝手に天井の小さなヒビに焦点を絞る。ここがどこだか一瞬わからず、答えを求めて、習慣で視線を彷徨わせた。頭にかかる霞が徐々に晴れる。
痺れる身体で紡ごうとした名前は音にならず、喉から空気だけがあふれた。
枕の上で緩慢に頭を動かしたメローネは、自分が知らない寝台に寝かせられていると気づく。
最後の記憶はローマの駅で、鋭い痛みと鈍い脈動が舌先から全身に走った。気道が詰まったように酸素が足りなくなり、全身が震えて倒れ伏した。
は?)
手の届く範囲にはいなかった。窓枠に腰掛けてもいない。ドアをすり抜けてどこかへ出かけているのだろうか。
いや、違う。
潮が押し寄せるように思い出していく。

ああ死んだな、と彼は自覚した。どんな毒蛇かは知らないが、強烈な寒気に襲われ、呼吸が引きつり、止まりかけなのだ。というか、実際に止まったのだろう。
メローネは、床に伏した自分の肉体を客観的に眺めていた。触れようとしても肩を揺さぶろうとしても無駄だった。
死ぬにしてもこんな死に方だとは予期できなかった。悔しさと虚しさがない交ぜになり、悪態が口をついて出る。
命が尽きると誰もがこんなふうに世界を視るのか。
死体に集まる人々は、抜け殻になった肉体に治療を施そうとするばかりでメローネを知覚しない。これは混乱する。
耳に残った甲高い悲鳴が誰のものだったか、ちょっとよくわからなかったが、目的を達成できなかった以上、あとは残りの仲間に任せるしかない。メローネはなぜか自分の死体から離れられなかった。どんなに力任せに走り抜けようとしても、壁にぶつかってしまうのである。自由度の高かった背後霊を知っているせいで理不尽な感じがした。
もっとも、あの幽霊もとりつき先のメローネから離れられなかったわけだから、条件は同じと言えるが。縛られる対象が他人か自分かの差だ。
その幽霊は、耳を塞いでいた。おそらく、毒でのたうち回るメローネの苦悶の呻きを遮断したかったのだ。
すべて終わって安らかに死んじまったぜ、と教えるつもりで手を伸ばす。触れるかと思いきや、幽霊同士も接触できないらしい。指先は空を引っ掻いた。は表情を歪めた。
。宿主が死んじまったあんたはどうなるんだい?」
「……知らない。すごく……心地いいけど……どうやってその心地よさについていったらいいのか……。目を瞑れば眠れるような気がする。だけど、寝方を忘れたみたいで全然ダメ」
「目を瞑ると……」
確かに彼も心地よさは感じていた。うっとりするような、たゆたうような恍惚とした何かが身体の奥からじわりじわりと湧き出てくるのだ。身を委ねてしまいたいと強く思う。そして身を委ねられれば、消えることができるのだろう。
彼は試しに寝転んで目を閉じた。疲労満点の夜に勢いよくベッドに飛び込んでアラームも掛けず、何もかもを放り出して深呼吸をした時に似た脱力感がある。すべての倦怠が溶けていく。
「あああああッ!!ダメ!メローネ!!起きて!ふざっけないで!!」
「はあ!?」
ブチ切れた声で邪魔された。意味不明な罵倒で鞭打たれ、喧嘩を買う気満々で跳ね起きる。
「今わかった!これ一人用なんじゃないの!?」
「ナニがだよ?」
「『あの世行き』の権利よ!私はあの世に行く前にあんたみたいな最低男に恨みを持っちゃったせいでこっちに来ちゃって、その権利を放棄したことになってるんじゃない!?」
「……はあああ?」
一幽霊につき一チケット、と言いたいのか。本来ならば昇天に使うはずの移動チケット――便宜上――をメローネを祟り殺す――便宜上――ために使って彼のもとへ移動してしまったから、は天国――便宜上――へ行けないと。
「で?」
「寝ようとしたら、あんたの身体はもっと透けていった。それで、私の眠気はどんどんなくなって、危うく赤血球にカフェインを含ませたみたいにギンギンよ」
「つまりあんたはこう言いたいのかい?今、ここには俺の分のチケットが一枚存在する。だがそれはあんたにも使う権利があって、使ったほうしか成仏できない」
「そうよ」
「俺が使うに決まってるだろ」
なぜ譲ってやらなければならない。権利を失って地上に置き去りにされたくないのはメローネも同じである。どちらかが残る必要があって、そして、これはメローネが産まれた時から握りしめていたらしいチケットだ。
はメローネの肩を掴んだ。何故かぎくりとした彼が彼女の腕を見ると、彼女は自分の行動に驚いて身体を引いた。手をぱんぱんと打ち合わせてこする。とメローネのどちらが人間としてヤバいのか問いかけたくなる動きだ。
彼女はスカートを広げて膝をつき、メローネと死体を指さした。
「戻って」
「え?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
「戻ってって言ってるの。私の旅路を邪魔しないで」
「戻るってどこに……」
「ここよ!このいけ好かないイタリアーノのいけ好かない肉体に戻って生き返れって言ってるのよ!!」
「無茶言うなよ!それで生き返れたら世の中が引っくり返るぜ」
「あんたなら無茶できるでしょ!?スタンド……とかいうやつは強いんじゃないの!?生命エネルギーだかなんだか知らないけど、一般人とは違うんだから試してみなさいよ!早くしないと死亡確認が取られて私みたいに土葬されるわよ!!身分証明書持ってるの?無縁仏になっても知らないから」
「免許があるし……」
そういう話ではないが、メローネは口を挟んでおいた。百倍鋭い目つきで睨まれる。
「一回死ぬにつき一回チケットを貰えるって考えておけば大丈夫よ。さあ、問題解決ね。早く戻って、二度と私があんたの顔を見なくて良いようにして」
眉尻を下げたメローネをが早く早くと急かす。
「じゃあ仮に俺が生き返るとしよう。チケットはあんたにやるよ」
「はい言質取った」
いちいち癇に障る。
「でもどうやれば肉体に戻れるんだい?」
は走り寄る救命士を見て目を細めた。
「キスを試してから考えましょう」
「自分で自分にかい?面白そうだね。笑えねえけど」
「笑ってくださらなくて結構よ。さっさとやって!」
汚れても構わないと諦めたのか、の手がメローネを激して叩こうとした。
男は床に手を当て、自分の死体にのしかかる。おかしな絵面だ。遠巻きな通行人が誰も気づかないことが唯一の救いだろう。
こんな些細な行動で命が戻るなんて、もちろん彼は信じていなかった。
救命士に仰向けにされた死体に顔を近づけ、そのままに囁きかける。
「サンプルはないけど、あんたはどのやり方を選んだか憶えてるかい?」
「こんな言い方もおかしいけど言うわ。二度と死なないで」


そして気がつくと、メローネは病院の寝台に横たわっていた。
いない。
では、本当には眠りについたのか。
仲間と同時に、ずっと彼を見ていた存在も消えた。一度に失ったものが多すぎて涙も出ない。今までの生活こそが嘘だったのではないかと疑ってしまう。
誰も残らないだろうと頭のどこかでわかっていたメローネは、どこかから監視されている気がして顔を背けた。
(あー、馬鹿らしい。これで俺が死ねなくなったらどうすんだよ)
生き延びる機会があるのに死を選ぶと、仲間に呆れられそうだった。だからの要求に乗ってみた、という部分もある。決して彼女を解放してやりたかったわけではないのだ。
(マジで馬鹿らしいよな、
唇をとがらせた時、病室のドアが開いて、かつて敵だった青年たちがぞろぞろと姿を現した。