何の邪魔もなく食事を楽しむと、少し離れた自宅まで戻る手間が惜しくなる。
ソファに横になってわざと寝たふりをすれば、仲間は呆れ顔でブランケットを投げてよこした。
誰が使ったとも知れないそれが目の前を横切っても、背後霊は避けようとしない。一部に過激な潔癖症が治ったのではなく、他に気にかかることがあって動けなかったのである。
黙る練習は実を結び、昨夜から今夜まで、メローネとはひと言も交わしていない。メローネは自宅でを居ないモノのように扱ったし、彼女も反抗しなかった。部屋の隅で彫像のように立ち尽くしたままだ。朝にはしゃがみ込んでいたが、眠った様子はない。幽霊は睡眠をとらなくても良いようだ。
明かりが消え、二日目の夜が終わろうとする。片づけはある程度終了した。メローネ以外のメンバーのおかげだ。メローネはソファに横たわって様子を見て、たまに茶々を入れて笑い合うのみで家事を手伝おうとはしなかった。年下の特権か、やり方がうまいのか、冗談であてこすられるだけで済む。
青年は目元の布を引き下げて首にかけた。
誰もいない静かな大部屋で、細く開いたままのカーテンから射し込む月光の影を感じる。目を閉じると、それは容易くかき消えた。
「……悪かった、と、思ってる。ごめんなさい」
声がひとつ響く。のものだ。死んだ者が喋っているからだろうか。不思議なことに部屋はしんとした静寂を保ち、誰の気配も感じられなかった。
「何が?」
「……言い過ぎたから。あんたの……知り合いのこと」
「仲直りしようって?」
「……そうじゃないけど……」
細い声だ。
大きなため息に酒気がまじる。幽霊は酔わないのかな、と違うことを考えた。
「もう何も思っちゃあいない」
予想外にすんなりと話が進んだせいで、正反対の意味があると誤解したの顔がこわばった。
メローネは本当に何も思わなくなっていた。食べて飲んで笑ううちにどうでも良くなったのだ。誰に何を言われようが自分たちの仕事はそれなのだし、それでしか生きられない。のように普通に生まれて普通に生きている人から見れば、何もかもが最低最悪だろう。それが改めて浮き彫りになっただけだ。
簡単に言うと、『どうでもいい』のである。
「何言われても俺には関係ないっつうかさあ」
どうでもよくなってしまった。は、あとは方法さえ見つかれば消えるだけのスピリット。ファンタズマ。ゴーストかつ幽霊なのだから。
薄く目を開くと、月明かりに幽霊が透けていた。
「仲良くしようぜ」
「……嫌」
「あっははは!」
誰もいないのをいいことに、メローネは声を出して笑った。
「俺も嫌。なんだ、俺たち気が合うじゃん」
が「……ホントにね」と苦い顔で呟いた。


それから、の口数がかなり減ったとメローネは感じた。どう行動しても、物を食べるだけでも怒りと憎しみと罵倒をぶつけた一日目の彼女とは大違いで、解決策を探す間もじっとしている。
つま先で地を蹴って青年の背中を追うのにも慣れ、相変わらず接触は嫌がって、触れた部分をこそげ落とそうとはするものの、良好な、割り切った関係を築けたように感じられた。
解決の糸口が見えない現状には辟易するが、煩わしくないのは助かる。は半透明だし、普段はメローネの背後にいるし、『何か』を見てえずいても幽霊だからか嘔吐しない。信号が切り替わってもメローネがぼうっとして気づかない時などには声をかけて知らせることもあって、たまに便利だ。
「急にしおらしくなったのは反省してるつもりなのかい?」
「そう言われるといいえって言いづらいけど、私はあんたが嫌いだから話さないほうが楽だって気づいただけ」
「成仏したらもっと楽だと思わねえ?」
「私だってしたいわよ!!したいからこうして自分が死んだ場所に来てるんじゃない!!」
「来たのは俺だぜ」
サンタルチア港に、びゅう、と一陣の風が吹く。メローネの髪がなびき、の髪はなびかなかった。
痕跡が残らず掃除された場所を見下ろすと、はひどく嫌がった。
ここで荷物を取り落とし、ここで襲いかかられ、ここで恐怖におびえ、ここで意識を失ったのだ。
死に際にトラウマでも負ったのか。
メローネは躊躇なく、かつての現場に踏み込んだ。彼がここを忌避する理由はない。
しゃがみ込んで目を皿にする。手がかりになりそうなものは何もない。
「なんもナシ、か」
「これだけ綺麗に元どおりになってるんだから当たり前でしょ。ねえ、戻ろうって」
「自分が死んだ場所は好きじゃあない?」
「他人を殺した場所で平然としていられるあんたとは違うの」
さあ、あんたホントは俺と喧嘩したいんじゃねえの?ちょっぴりイラッとしたぜ」
「あっそう。ごめんなさい。私もイラッとしたのよ」
服の布を軽く叩き、陽ざしの下に出る。視界に青が広がって眩しかった。
「どうしてあんたはこんな場所で、その……『母体』を探そうとしたわけ?」
突然の質問に、メローネは面食らった。脈絡はどこかへ飛んで行って見えなくなった。
どうしてだったか、不真面目な態度で記憶を辿る。思い出そうとしたのは、多少なりともこの背後霊との関係に折り合いをつけ、お互いのペースを守れるようになったからだ。落ち着いた会話が可能になって、だいぶ余裕が増えた。
散歩の間の暇つぶしとも言えたが、メローネは善良で前向きなほうの理由を採用した。
晴れた天気だが、広い道に観光客は少なかった。
メローネは一人で歩き、メローネから拳二つ、三つぶんの空間を置いた横で、が歩く真似をして浮遊した。
「海が見たかったんだと思うぜ」
空と海と、青色にひたりたかったような気がする。
が首を傾げた。
「海、って?」
「え?あんた海を知らねえの?今ここから見えてるアレが海って言って……」
「知ってるわよ!!」
手に石があったら振りかぶって殴りつけそうな剣幕で怒鳴る。カッカすんなよ、と青年がおどけるように逃げた。
気ままにここまでやって来て、この少女を母体に選んでしまったのは不幸だったけれど、あの日も悪い天気ではなかったはずだ。
「生まれたベイビィが優秀だったらまだ良かったのになあ」
「喧嘩売ってるの?突き落としてやりたい」
「あんたと俺が同じ地区で死んでもいいのかい?」
がハッとして口を噤んだ。前にも感じたが、彼女にはいささか想像力に欠けた部分がある。
悩む彼女に近寄ると悲鳴を上げて飛び退る。道路に飛び出してもメローネは心配しなかった。轢死は試したことがなかったな、と目から鱗が落ちる思いで見つめるだけだ。結局、道路の真ん中で鳥肌を必死にこすっていたが、は吹っ飛ばされなかった。