丑三つ時を迎えたネアポリスは静かなものだった。
男の追跡を命じられたメローネは、背中に半透明の邪魔なものをくっつけたまま、あらかじめ叩き込んだ道順を逆さに辿っていく。
期待はしなかったが、なにか見つけたら教えるようにも言いつけておく。メローネ以外には声も姿も感知されない幽霊少女は小一時間ほど憤ってから、せめてメローネの損になることをしてやろうと心に決めたらしい。空が闇に染まってからずっと口を閉ざしているので、死角から敵が襲いかかろうとも沈黙を貫くだろう。騒がれるよりはずっといい。
目標を目で捕捉する。メローネは冷えた空気を掻くように素早く行動を開始した。すれ違いざま、青年のアクセサリーの端が相手の手に引っかかり、鋭利な先端が男の皮膚をわずかに切り裂く。舌打ちした男に謝罪した彼は、そのまま通り過ぎて安ホテルの方角へ立ち去った。
「何をしたの?」
「血を採ったのさ。これであとは『母体』を探すだけだ」
「……」
ぽつぽつと見られるようになった人影の中に異性の姿を探す。不自然に黙ったは、「ちょっと」と道の真ん中でメローネを呼び止めた。青年は立ち止まらなかったが、聞いていると判断した彼女は喋り出した。
「私にしたみたいに誰かを殺すってこと?あんな気持ち悪い方法で?このままやめさせなかったら私の目の前で誰かがあんたに殺されるってわけ?」
「そうだぜ。そしてあんたは俺を止められない。あの男は少々短気だから、間抜けなくらいのんびりした性格の女性がいいだろうな。相性が悪ければ悪いほど『合う』んだ」
メローネは一人の女性に声をかけた。煙草を差し出し、喫うかい?と訊ねる。女性は優しい声で「いいえ、ありがとう」と青年の誘いを断った。
「家に帰る途中?俺とお茶でもしないかい?退屈させないぜ。楽しい話をしよう。人生で一番記憶に残る時間を過ごさせるって約束するよ」
「あらあら、ありがとう。だけど、家で食べようと思ってアイスクリームを買ってしまったの」
「ダメ。ダメだから逃げて。今すぐ逃げないと襲われちゃうってば」
「道端で食べるってのも乙だ。なあ、いいだろ?すぐに終わるから」
「そう?そうかしら。それじゃあ三十分だけね」
「グラッツェ!」
「ねえ!もう!」
口を挟んでもメローネにしか聞こえない。肩を揺さぶっても伝わらない。は唇を噛んだ。
「私はどうしたらいいの……」
メローネは視線一つ投げかけず、貼り付けた笑みの裏で呟く。
(どうにもできないんだから、黙っていりゃあいいのにな)
わかりきっていることだ。は幽霊で、声と姿を感じられるメローネにだって触れられない。実体はなく、浮遊して、霧すら浴びられないし自由にも動けないし、誰かに影響を及ぼす力だけが空の向こうへ消えてしまった。アイスクリームの蓋を開ける女性が三十分以内に悪夢に見舞われるとしても、最後に見るものが星の美しい夜空になるだろうとしても、には何もできない。

気を失った女性の抵抗の証をきちんと直す手つきを見ていられず、は顔を背けた。
メローネから最大限離れて蹲り、耳を塞いで額を膝に押しつけていたが、ぽやんとしていた女性の声が恐怖に引きつっていく忌まわしい音色が離れない。
「でも最後は落ち着いてた。そうだろ、。良い夢を見て眠って、目が醒める前に終わるんだぜ。なあ、今回は良い子が産まれる予感がするんだ」
「私にはそうは思えない。同じように背後霊が増えるかもね」
「穏やかな背後霊だとイイんだけどな。あんたよりは話が通じそうだし」
「自分を気色悪く殺したやつと穏やかにお話できる人がいるなら見てみたいわ!近寄らないで!!」
「冷静になれよ。近寄らないとここから出られないだろ」
何事もなかったかのようにてくてくと歩いての身体をすり抜ける。全身に触れられた――ような気がした――は甲高い悲鳴でメローネの鼓膜を攻撃した。
街灯の影を何本も踏み越える。自宅へ帰りながら、言葉を隠して電話をかける。経過報告は順調に終わり、明日の夕食の話までした。朝からアジトに集って時間を潰す予定だ。誰かは酒も持ち込むだろう。
背後霊が付きまとっていることは秘密にした。誰に言う必要もないとハッキリ感じる。
「楽しそうね」
「楽しいぜ。きっと良い結果を出せるし、仲間とも会える」
「そう。仲間ね。あんたの仲間ならさぞ素晴らしい人たちなんでしょうね」
階段を踏み外したように気分が落ちる。任務達成に向けての気勢と、明日の集まりへのささやかな楽しみを邪魔されたと感じた。
「俺だけじゃあなく周りにも当り散らさなきゃあ正気が保てないのかい?」
立ち止まって振り返ると、が怯んだ。自分の発言が不適切なものだったと自覚したのか、さっと顔色が悪くなる。半透明のフィルムじみた幽霊の顔色がわかるというのはおかしな笑い話だが、笑えるような機嫌ではなかった。
「どうせついてくるんだろうけど、つまらないことで話しかけてくんなよ。素晴らしいやつらとの会話を邪魔されたくない」
「……私は……」
「あ。どうせだし今から黙ってる練習でもしたらどうだい?」
踵を返してまた家へ向かい始めたメローネは、立ち止まったままのを無視して歩き続けた。
幽霊は俯いて歯を食いしばり、『母体』が眠る場所を見た。そのうちに踵が浮き、見えない何かに引きずられて、滑るようにメローネの後を追いかけた。