除菌スプレーは何の効果ももたらさなかった。幽霊は幽霊のまま、メローネの背後で紐つき風船のようにふわふわ漂っていたし、できる限り遠くへ行こうと必死で空を蹴って距離を取っては引き戻されて目障りな動きを繰り返す。
不揃いに長い髪を肩に滑らせ、カーテン代わりに視界を狭める。
空き地から街の中心に戻る最中に電話が鳴った。
リーダーからの指令には、ルーチン通り丑三つ時にどこそこを散歩する男を追跡するようにとあり、打ち込む仕事が用意されたことにほっと息を吐く。仕事に取りかかる前にこの女を何とかしてしまいたい気持ちは衰えていなかったが、頼みの綱だった除菌グッズが効かないとなると、すぐには別の手段が思いつかない。市街地には戻らなければならないのだし、これから送られてくる情報を噛み砕いて頭に叩き込む必要もある。一旦、保留としよう。
窓から見上げた月の、冴え冴えとした明るさを思い出す。胸のうちには何もない。どんな葛藤も後悔もメローネからは遠かった。うるさい背後霊からの文句と罵倒も耳をすり抜ける。リーダー、と話しかけ、どうした、と訊ねられ、頑張るよ、と言って、信頼している、と認められるだけでいい。どうせ給料安いんだろうなー、と笑って電話を切った。
後ろから時速40kmに引きずられてくっついてくる女は、「金が少ないなんてね」と鬼の首を取ったような顔をした。何かにつけてメローネの生活に劣った部分を見つけたいらしい。自分を殺した相手が悠悠自適な生活を送っていると思うと怒りが込み上げるのだろう。メローネにしてみれば、どうだっていいし関係のない話だった。
「あろうがなかろうが俺はあんたを殺した。やっすい金を稼ぐための礎にね」
「ほんッ…………とに最低」
早く切り離したい幽霊は、ブレーキのタイミングでメローネの背中にぶつかったようだった。真後ろから悲鳴が聞こえる。人を汚物扱いするのは個人の自由だが、どうしようもないこの状況でいつまでその意地が続くやらと肩を竦める。
「いい加減に慣れたらどうだい?身体なんてないんだからさ」
「身体がなくても心があるのよ!」
「本当に?それは本当にあんたの心かい?記憶をなぞっているだけなんじゃあないか?心だと思い込んでいるのかもよ」
「だったとしても嫌なものは嫌だわ」
「ごもっともだね」
がたついた道を走り抜ける。
「それで?他に昇天できそうな心当たりはねえの?」
死の間際に思ったことを叶えてやるのが手っ取り早いと考えている。
は見慣れない街並みを見まわした。高い建物と店頭の菓子に興味を惹かれた様子だったが、移動可能範囲の外だったため、近づけなかった。
バイクを停めてそちらに歩いて行くメローネに、驚いた声をあげる。
どういう風の吹き回しか、どんな企みがあるのかと胡乱な目で睨みつけていたが、彼はに構わずくしゃくしゃの紙幣で菓子を買った。
「供えてでもくれるっていうの?」
「や、俺が食う」
「ザ・ベスト・オブ・最低ね」
「この時間は小腹が空くだろ。考えようによっちゃあ、もうひとつ目ができたみてえで便利かもな」
「冗談じゃない。ジョークにもならない話はやめてよ。ていうか二度と喋らないでよ。菓子を喉に詰まらせて呼吸困難になったらいいのに」
包装紙を雑に剥いたメローネは、素知らぬ顔で菓子を頬張った。柔らかいクッキーの生地は、よほど頑張らなければ呼吸を阻害しそうにない。
世界への未練とは何か。
食べたいものも飲みたいものも行ってみたい場所も、思い浮かべてもぴんとは来ない。
「刺し違えてでもあんたを殺したい、とは思った気がする」
「おお怖い。物騒なことを言うなよ。呪われるんじゃあないかって震えちまう」
「暗闇を恐れて眠れなくなればいいのに。……ねえ、これって本当にあんたが死ななきゃ私は天国へ行けないの?」
「え?なにあんた、自分で自分は天国に行けるって思ってんの?」
「あんたって狂うほどムカつく男ね!!」
バイクを蹴飛ばしてやりたいような顔をしたので、メローネはからからと笑った。大方、メローネに触ると嫌な気持ちになるからモノに当たろうとしたのだろうが、できないと知っているのにやる意味が理解できない。
「俺は簡単には死なないぜ。死にたくないからね。ま、偶然自動車事故に巻き込まれたり、任務の最中にぐさりとやられちまう可能性は否定しねえけど」
「へえ、そう。それじゃあお仕事に励んでくださる?この、奇妙で……きもっちわるい、わけのわからない能力は使わないようにしながらね」
「ベイビィ・フェイスも嫌われたもんだ」
好かれる要素はどこにもないが、徹底的に否定され続けるとつまらない気分になる。スタンドは彼の一部なのだから。
怒鳴られ、きんきんうるさくなると覚悟した上で注釈を入れる。
「あんたもメシは食っただろ?メシからすりゃあ、あんたもベイビィ・フェイスとおんなじレベルだと思うけどなあ。ありふれてるのさ、そういうことって」
はぴっと眉を跳ねあげた。
何か言おうとして、やめたのを見る。
「黙ってんの?」
「どうやればあんたを殺せるか考えてたのよ」
「やれやれだね」
「私に身体があったら刺し殺してるのに……」
「それで返り血は消毒用アルコールのシャワーで流す、ってか」
「バカにしてるの?」
「下手な潔癖症は生きづれえだろうなと心配しただけだぜ」
「しらっじらしい」
低くうなられたが無視をして、メローネは菓子を食べきった。