なんでついてくるんだよ。
メローネの困惑と不満は『とりつかれたもの』としては正しかったが、少女のお気に召す質問ではなかった。彼女も同じことを訊きたかったのだ。

深夜2時をとっくに超えた未明のこと。幽霊の金切り声を無理矢理振り切って眠りについたメローネは、今度は部屋の隅に放り投げてやった除菌ペーパーにすかすかと物を掴めぬ手をかざし、宙を何度も掻く少女のすすり泣きに悩まされる羽目になった。メローネはプロとして『仕事』の質を高めようとしただけなのに。彼にとっては、災難以外の何物でもない。
太陽が昇り南イタリアの通りが賑々しくなる頃、一晩泣き明かした幽霊はそれなりに気が済んだらしく、鳥のさえずりに耳を傾ける座り方でメローネに目覚めの言葉をかけた。
「おはよう、永遠に寝てればよかったのに」
呪詛に近いが。
あんまりな挨拶に、メローネは奇妙な眼差しを向けた。言うなれば、おやこんなところにこんな置物があったっけな、とでも思っているような胡乱な視線だ。
「私だってあんたのところで暢気にオハヨウなんて言いたくなかったわよ!悪い!?悪くないわ。私は悪くない」
「誰が悪いとか、どうでもいいからさ。出て行ってくれる?」
「どうでもいいとはよく言えたもんね。あんたが悪いのよ」
「はあ……」
幽霊に似つかわしい寒い夜は通り過ぎたけれど、この喧しい少女に時間は関係なかった。いつだって憤りを感じているし、いつだって半透明だし、いつだって長い髪を振り乱し、いつだって会話が通じない。せっかくイタリア語が話せるのだからせめて意志疎通くらいは図ろうぜ。
呆れ、視線を外す。射し込む日差しはとても清廉だった。仕方のない空腹を感じてベッドから降り、メローネの一日は始まった。よくわからないおまけ付きで。

甘いパンを食べながらの調べ物は、背後からひたすらに「行儀が悪い。信じられない」と罵倒されつつも、問題なくメローネに手がかりを与えた。
この世に未練があり、閉ざされた時間の箱に存在を切り取られてしまった精神のかたち。スタンドと似ている部分がなくもない。制御が効かなければ周囲に害を及ぼすという意味でも、だ。
メローネは善行で人生を満たした死者があまねく天の国へ導かれるとは思っていなかったし、地獄へ堕ちる苦しみにも信憑性を感じられずにいたが、産まれた国柄もあってか、一瞬だけ幽霊の背後に得体の知れない不安を見た。精神に依存する特殊な能力を持つ彼だったが、『死』と『精神』に関わる未知の世界に触れた畏れに似た気持ちは失われてはいなかった。
メローネの価値観を覆しかねない存在には、どんな未練があるのだろう。理由が判れば彼はすぐにでもキイキイとうるさいバンシーを除けられるのに。未練は解消させてやればいい。
「……ってことでさ、いわゆる……『この世』? ここに何の未練があんのか教えてくれよ。俺が憎くて殺しに来たとか?」
もしもそうだとしたら、教会に飛び込むか。
挑戦的な色を横に向ける。
ひとしきり文句を付けて満足したのか、奥まった暗いキッチンで冷蔵庫に張り付くようにして距離を取っていた少女は、メローネの問いかけに答えあぐねた。確かにこの男は何万回憎んでも足りないほどだが、殺しに来たわけではない。潔癖な少女にとって(あるいはそうでなくとも)言うも聞くも見るもおぞましい行為を働き、恐怖ののちに殺害した犯人だ。恨みは募らせど、近寄りたいとは思わない。
少女自身、自分がなぜここにいるのかわからずにいた。
「わ……」
「わ」
「……わからない」
青年は顔をしかめた。眉の線が歪み、少女の方も負けじと歯を食いしばる。緑色のスカートは握りしめられるのに、冷蔵庫に触れることも、壁に寄りかかることもできない身体で怒りを表す。
「自分が死ぬ瞬間に何を考えていたか、冷静に思い出せるわけないじゃない。私は死んだのよ。あんたのせいで」
「俺のせいって、ずっとそればっかり言ってるよな。いい加減にすれば?」
「バアアアアッカじゃないのぉ!?加害者が言う台詞じゃないでしょ!?紛うことなくあんたのせいよ!」
「確かに殺したのは俺だぜ。でも、あんた、幽霊やめたくねえの?」
時計の針がマーケットの開店時間を示している。もう、こんなにも朝が進んでいる。
「なんで昨夜俺の部屋に現れて、なんでこんな明るい時間になっても消えたり弱ったりしないのか。っつーか、どうやったらお互い解放されるのか。俺は知りたい」
「う……」
確かに。
少女は勢いを失ってしまう。憤りと嫌悪と悔しさからメローネの言葉をすべて否定してかかっていた彼女だけれど、言われてみれば、離れたいのは自分も同じだ。彼女は壁に触れられないのに、壁をすり抜けることはできなかった。外に飛び出したいのに、ノブを握れない手はドアを開けることも能わない。おかげで聞きたくない寝息にまとわりつかれて大変だった。
「これ食い終わったら出かけたいから、それまでに思い出しといて」
「……うぅ……」
すっかりしおれた長い髪を肩から垂らし、少女は膝を抱えてうずくまる。深夜の勢いはどこへ行ったのか。最初からこうして黙らせておけばよかった。


「……」
出かける準備をすっかり済ませても、幽霊はじっと固まったまま動かない。よほど深く考え込んでいるのか、メローネの声も無視する。うん、いや、もしかしたら考え込んでいなくっても無視したかもしれないけど。メローネは冷蔵庫を開けるふりをして幽霊を蹴ってみた。すか、と爪先が半透明をすり抜ける。
「出かける」
ついでにチョコレートをひとかけら。暫定的バンシーは眉根を寄せた。
「わ、私は……出かけないけど……」
「知らねーよ」
そして冒頭に戻る。
両者にとって恐ろしいことに、部屋を出た瞬間、置き去りにしたはずの幽霊はメローネのすぐ後ろに現れた。服の上からメローネに思い切り接触してしまった半透明の少女は、気配のない寒気を甲高い悲鳴で切り裂いた。
「な、なんで私があんたについてきてんのよお!気持ち悪いぃ!いやあっ!離れて!」
メローネは眉間を揉んだ。奇っ怪かつ愉快な事態は興味深い。自分が殺した少女が幽霊になって現れる。素晴らしく面白い出来事ではないか。それは認める。この幽霊がじっとりと黙ってメローネを恨みがましく睨みつけているだけであれば、諸手を挙げて歓迎したことだろう。
しかしこうしてキャンキャンと喚かれては、面倒くささが先に立つ。誰にとっての不幸なことやら、今のメローネには、まだ慣れず、日々を懸けて熱中できる『仕事』があった。やらねばならない『実験』があった。そしてとても若かった。チームの中で、最年少の記録を刻む程度には。
騒がしい幽霊にわくわくと対応できるような興味の糸が余裕を持って張りのばされるには、もう少しの時間が必要だった。