バンシーを知っているだろうか。メローネは知識としてならば知っていた。
バンシーは北欧に伝わる死の妖精である。何マイルも先まで伝わる泣き声を上げ、不幸を予言する。この妖精の鳴き声は一般的に不吉なものとされていた。少し違う場合もあるが、まあそれは置いておこう。本当はバンシーの詳細などどうでもいい。いや、ちょっぴりくらいは関係あるかも。メローネの枕元で盛大な悲鳴を上げ、すべての悲哀と怒りと絶望を混ぜ合わせた動物的な混沌たる目ざめをもたらしたのは、長い黒髪に緑色の服を着た、バンシーの特徴をもった女だったのだから。

寒い夜だった。メローネは薄い毛布を何枚も重ね、身を縮めて目を瞑っていた。いつもは体温の低下よりも興味を優先し遅くまでパソコンの画面を光らせているのだが、この日はやけに冷えていた。足元から背中へ駆け上がる得体のしれない悪寒は風邪の前兆にも似ていて、さすがにヤバいと苦い顔をして怠惰を振り払う。風邪をひいて看病をせびるよりも翌日の健康を優先したのだ。
今のメローネは『子供』の教育に注力していた。
適当な『父親』をひっつかまえ、それに対する最適な『母親』の組み合わせを探し出す。たくさんのデータを手に入れれば、ある程度の傾向は掴めるだろう。メローネのスタンド能力はまだまだ発展途上にあった。今日も数人、優良そうな『母親』の候補を探したばかりである。明日はその中から最適な一人を選び出す。その為には、風邪は邪魔なだけだ。
大人しく灯りを落としたメローネは事務的な眠りにつく。スッと湖に落ちていく感覚に近い。逸る好奇心を抑えての眠りは苦行に似ていた。
夜の湖に浸ってからしばらく、彼の睡眠は安定していた。寒さに震えることもない。
そんな青年が布団を蹴り上げベッドから転げ落ちるように、枕の下に潜ませた銃を掴む。奇遇にも、掛け時計の短針が2を示した時だった。
「きゃああああああああッ!!」
宵闇をつんざく悲鳴に、メローネは反射的に顔をしかめた。構えた拳銃は声の方に向けられているが、指に力は入らない。
「いやあっ!さいあく!呪われろ!最悪!最低!クズ!ゲロ以下!ああっ気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪いいいイヤアアア!!」
「……」
長い髪に手を突っ込み、頭を掻きむしり、女はじたばた暴れながら般若の形相でメローネを睨みつけていた。目が合うと宙をまろび後ずさった。宙を。
女は浮いていた。半透明で浮いていた。
「あー……」
さすがのメローネも黙るしかない。スタンド攻撃かと疑ったが、実はこういう場合、メローネは敵を迎撃するのに向いていない。口を閉ざしたまま、銃口を下ろした。賃貸の壁に風穴を開けると今後に障る。飽きずにメローネを罵る相手は明らかに実体ではなかった。
「滅びろ!敵!外道!ゲス!いやだ!いやあっ、こんな、最低、いやだ、う、うああああああッ、うぅ、ぐす、ぐすっ」
女は泣き始めた。今度はすすり泣きだ。
「なあ、あのさあ……。よそでやってくれねえかな。俺、寝たいんだよね。それともスタンドか何かかい?誰かに攻撃を命令されてる?」
「口きかないで」
「理不尽だろ、あんた」
「口きかないで」
「話を聞きたくねえなら出て行けよ」
「口きかないで」
話にならない。メローネは彼らしい仕草で肩を竦めた。この女を仮にバンシーと名付けよう。バンシーは壁に背をつけてメローネから距離を取り、忙しなく視線を彷徨わせている。メローネが近づくと、路地裏に追い詰められ今にも汚辱される少女のように脚を震わせた。服の襟を握りしめ、唇がわななく。恨みと屈辱と恐怖と怒りに燃える瞳を見ていると、目の裏でぱちんと何かが弾けた。メローネはバンシーの顔に見覚えがあった。
「あれ、あんた……どっかで会ったことある?」
バンシーの眦がつり上がった。
「ま、死人?スピリト?ファンタズマなんて見たの初めてだけどさあ」
これが止めになったらしい。バンシーはメローネに掴みかかった。バンシーの姿は透け、奥の壁がうっすら女の向こうに見えていた。妖精と呼ぶにはひどすぎる形相。どんな物好きでもしらけるに違いない。
「よく言ったもんね!会ったことがあるか、ですって?あるに決まってんでしょこの変態!出会いがしらにきったないマネして、私を……、私を……、殺したくせに……!」
あ、とメローネも指を鳴らした。そういえば、こんな顔立ちの女を『母親』に仕立てたことがあった気がする。酒も煙草もやっていない健全な女が優秀な『子供』を生み出せるのか実験したんだっけか。
透けた女は素早くメローネから手を離し、再び飛び退った。手のひらをこすり合わせ、何度も打ち鳴らす。汚れをこそげ落とす動きだった。
「きたない」
低い声だった。手のひらについた汚れが身体の隅々にまで行きわたってしまうと言いたげだった。自分から触っておいて何をのたまうのかとメローネは短く訊き返した。女は自分の手をできるだけ遠くへのばして苛立つ。いやいや、だからあんたが勝手にやったんだろ。メローネはよほど言い募りたかったが、彼より女の文句が早い。
「きたないって言ってんの!あんたに触ったところが!除菌!除菌ペーパーないの!?」
「潔癖症のバンシーかよ。面倒くせえなあ……」
拳銃を枕の下に戻し、ぼそりと呟く。この女が何の目的でメローネにとりついたのかは知らないが、夜中にキイキイと喚くのはやめてほしい。明日も早くに起きて、この女の言う『変態行為』に及ぶ予定なのだ。この『変態行為』に研究心を持ち真剣に取り組んでいるメローネには不愉快な呼び方だったが、何でもいいからさっさと出て行けというのが彼の本音。
「バンシーじゃないわよ!あんた私の学生証見てたでしょ!?」
「いちいち憶えてるワケないじゃん」
もちろん、パソコンに読み込ませたデータを参照すれば別だ。この女だけでなく、『母体』の基本的なプロフィールは日付と共に記録されている。ベッドに腰掛け胡坐をかくメローネがそうしないのは、あまりにも目の前の女が狂乱しているからだ。今は何を言っても無駄だろう。記録を呼び出したとしても罵られるに200リレ。
「なあ、俺寝ていい?明日も早えんだよ」
「永遠に寝てれば!?その前に除菌ペーパーどこよ!」
「カッカすんなよ。ペーパーは抽斗の中。ちなみに、開けられんの?」
女の手が空をかいた。唖然として、自分の指先を見つめている。
「じゃあ除菌もできなくね?」
「あああああああああああああッ!!」
メローネは耳を塞いだ。深夜2時に聞くべき騒音ではないように思えたし、この時間に相応しい嘆きのようにも感じられた。なにせこの女は、夜の似合う亡霊なのだから。それもたぶん、メローネが殺したタイプの。