イカロスの翼


人生がどう転ぶかなんて、生きている本人には予想が立てられないのかもしれない。
膨れ上がり破裂した札束の残骸に埋もれていた私は、細くも力強い手によって光の当たる場所まで引き上げられた。彼の高潔な態度は一生忘れられない。
当人あるいは仲介人と貸し業者が顔を突き合わせ調停を図る。
彼がとった方法はそれで、私はスーツの男たちに挟まれ世を儚んだ。案の定事態はどうしようもなく、彼の知識と顔の広さがなければ見合った時点で脳天を撃ち抜かれていたかもしれない。
いやな時間は二週間にわたった。その間、力添えをくれた男は私にも厳しかった。ダイダロスの言いつけを守らなかったイカロスも、生還していたらひどく叱られたことだろう。骨の髄までしみこむような、客観的で冷静で思いやりに満ちた説教だった。

借金の整理が終わった今、私は制服を着て、数か月前まで働いていた合法な宅配業者に努め直していた。思い返しても濃密な時間だ。二度と体験したくない。
家計は圧迫されていたし、一連の出来事で金目のものもほとんど失っている。しかし、最悪からは脱していた。めまぐるしい変化についていけず一週間寝込んだ時も親切な彼が一度きりで、他は誰も見舞いに来なかったし、私の背中を押して地獄への花道をつくってくれた男たちも職場ごとどこかへ撤退していて足取りがつかめないが、最悪からは脱している。生ゴミの三角コーナーから身体を抜き、熱い湯を浴びようとシャワールームへ向かっているところだ。あまりにも人生の糸がまつりを起こしているので、いまだに現実を現実と理解できていない部分もある。起きればまた明細の赤字が枕元に散らばっているのではないかと思い悪夢に跳ね起きる日もなくはない。イカロスだって、生き残れば太陽恐怖症になったはずだ。
そんな私は小包を抱えてアパートメントのチャイムを鳴らす。
「宅配便です」
部屋番号まで指定された住所だけで、宛名も差出人も無記名の荷物だ。軽いし、この近くには小さな食品店もある。昼食前に済ませるにはうってつけの届け先だった。
制服の帽子を軽くかぶり直すと、部屋のドアチェーンが外れる音がして、すぐに家主が顔を見せた。
「ペン持ってねえから、悪ィけど……」
「あ、はい。こちらをどうぞ」
胸ポケットからボールペンを出し荷物と一緒に押し付けてから、ようやく受取人の顔を見る。昼寝でもしていたのか、特徴的な髪形が少し崩れていた。
お互いに何も言えない。片手でつかめる大きさの荷物を持ったまま、私は黒髪の男と目を合わせていた。
「……そ、……その後病気はどうですか」
苦し紛れに口火を切る。イルーゾォ氏は私の肩に手を置いた。勢いが余りすぎて叩かれたかと思い身体をびくつかせたが、彼にはうまく伝わらなかったらしい。
「お前なあああ!生きてんのかよ!!」
「え!?」
「何だかんだ言って寝覚めが悪かったんだよ!さっさと言いに来いよ!」
あまりにも理不尽な言い分に憤慨も忘れてしまう。住居も連絡先も知らないと正論を告げる間もなかった。
、お前」
イルーゾォは口ごもる。
「あー……、うつってねえ、……よな?」
唐突な話題で横面を殴られた気分だったが、何を言っているのかは理解できた。私は咳払いをする。
片手におさまる小包とペンをまとめて持ち、軽く背を逸らした。
「うつってないですよ」
「お前、ほんっとに可愛くねえな!」
再会の意味か、他の意図があったのか。懐かしいかたさを全身で感じ、私はそれを落ち着いた心で受け入れる。
三分経っても身体は離れず、本当にお互いに生きているのだと、ようやく自分の時計が回っていくような気がした。
イルーゾォはそのまま言った。
「……何で俺たちハグしてんだ?」
「さあ……」
本当に情緒のない男だ。それが、ひと月ぶりに抱いた明確な感想だった。