イカロスの翼


待っているように言われ、不安を感じた。なにせあの黒髪の男は心臓だか脳みそだか、はたまた体全体だかに厄介な爆弾を抱えている。発作からどの程度の猶予が与えられるのかは語られなかったために知りようもないが、単独行動に危険が伴うことは、この短時間における延命処置の頻度からしても容易に察せられる。それとも、発作が発生するまでには片づけるという意思表示なのだろうか。
反論した私に、イルーゾォは腕を組んでからつんと顔を背けて言った。
「五分も要らねえよ」
それならば、なぜ一度目は病原菌を押し付けられて逃げ帰ったのか。イルーゾォは嫌そうな顔をした。一時的に特殊な能力が封じられたのだと、私にわかるはずもない。

数十メートルも離れていない場所で今にも殺人事件が起きようとしているのに、私は淡白な思考ばかりめぐらせていた。イルーゾォばかりを心配して、姿も知らぬ大本についてはどうとも思っていない。路地裏のゴミ捨て場で廃棄の食べ物を探す少女を見た時と同じ気持ちだ。
ただ、と塗装のはがれた壁に背をつけた。角が当たって痛かったので、しゃがみ込んでやり直す。
返済期限が刻一刻と迫っている。逃げ続けるのにも限界が訪れ、私はこのまま遠くから狙撃されて死ねやしないだろうかと辺りを見回した。スコープがきらりと夕陽を反射することはなかったし、狙撃主が窓から突き出す銃身も見えなかった。
上階から悲鳴は一切聞こえない。窓が閉め切られているからか、声もなく、どちらかがやられているからか。人が無意識にシーツを握りしめるように、眉間に自然と皺が寄った。
私は道でぶつかられれば文句も言うし、順番を抜かされても黙ってはいない。気も長くなかった。
立ち上がった勢いのまま、一段一段古びた階段をのぼる。もしもイルーゾォが倒れていたらと思うと、気が気でなかった。
三階の部屋の扉を開ける。
銃弾でも飛んできて死ぬかと思えば、意外なことに部屋には誰も居なかった。イルーゾォの姿も、敵の死体もない。見知らぬ靴の片方だけが一つ落ちていた。
殺風景な部屋というよりは、汚らしい部屋だった。私が暮らしている場所の方がよほど環境がいいと思わされる。
ベッドシーツは汚れて薄く染まり、壁と天井の境には蜘蛛の巣が張っている。窓はテープで補修され、トイレは隠されない。すぐ横の壁に取り付けられた洗面台にはかろうじて、砂埃が膜のようになり曇った鏡がついていた。持ち主の姿がおぼろげながら目の前に浮かんでくる一室だ。冷蔵庫どころか、換気扇ですらまともに稼働しているのかわからない有様だった。
「……イルーゾォ?」
自分の声がむなしく蜘蛛の巣に突き当たって消えた。
別の部屋に入ったのだろうか。それにしても、落ちた靴が気になる。抵抗感はあったが、カビの生えた革靴を爪先で蹴飛ばす。洗面台の前からトイレの方へ靴が転がった。
ぼやけた鏡に自分の姿が映り込む。その奥に、この数時間で見慣れた男がいた。
ささくれたテーブルの脚に凭れ、立てた片膝に額を押し付けて見えた。
咄嗟に振り返ったが、部屋には私以外の呼吸はない。テーブルの隣にも影は見当たらない。膝を抱えるイルーゾォなんていない。
混乱して頭が痛くなった。鏡に視線を戻すと、イルーゾォは消えていた。名前の通り、幻影にそっくりな男だと後ずさる。
理解できない事態が鏡の中で起きている。
鏡の中に世界などあるはずがないのに、私は自然とそう思った。極限の空腹状態で差し出された食べ物を手に取ろうとした直後、皿ごと床に料理を叩きつけられた男のように、頭が真っ白に凍る。目だけが絶え間なく動いていて、一場面一場面が記憶に焼き付いた。クレジットカードの明細を見た時だってここまで衝撃は受けなかった。借金取りが押しかけて来た時は、こうなったかもしれない。
あまりにも汚い鏡に手を触れるのは躊躇われたが、イルーゾォは苦しそうに見えた。もしかすると死にかけているのではなかろうか。指先がざらざらに触れる。
か細い声が私を呼んだ。
……」
鏡の中ではなく、後ろから急かされる。何一つとして現状は呑み込めない。ただイルーゾォが死にそうで、慌てて駆け寄って膝をついた。
「ちょっと、大丈夫なのイルーゾォ。病原菌はやっつけちゃったんじゃないの?失敗したんですか?」
「マジ無理……マジ……、マジ無理…………、マジ無理……」
息も絶え絶えだった。
イルーゾォが床に座り、私が膝をつくという中途半端な体勢で抱き合っていた私たちは、ゆっくり落ち着きやすい形に身体を動かす。イルーゾォはこちらにしがみつくばかりで動かず、私が彼の体重を支えていた。しかし、たかだか八つ裂き程度の借金の重みにすら耐えられない私が男一人を抱え切れるはずもない。
「大丈夫ですか」
繰り返し訊ねた。イルーゾォの呼吸が落ち着いていくのに合わせて私の気持ちも静まる。
死にそうな声が力を取り戻した。
「死ぬかと思った……息ができねえし……。お前、マジで、よく来たな……。来るなっつったのに……」
「すみません、どうしても心配になって。どう考えても無謀でしたんで」
「お前の行動の方が無謀だろ」
「いや、どっちもどっちでしょ」
ところで、と話を変える。水掛け論になっては意味がない。私には時間がないし、この様子だとイルーゾォも失敗したのではないかと思ったのだ。
しかし予想に反し、イルーゾォはのろのろと私の背後を指さした。見たくないので顔は動かさなかった。
「なら、どうして発作が起きたんです?」
「あるだろ、最後の悪あがきっつうやつが」
イルーゾォが大きく息をついた。気を抜いた様子に不覚にもときめきを感じたので、私は借金取りの顔を思い浮かべた。即座に我に返る。
「もう大丈夫なんですか?」
「ああ。スタンド……、……大本は死んだからな」
「呪いみたいに残ったりはしないんですかね」
「最悪なこと言うなよ」
男は私を置いて身体をのばす。手を差し伸べられ、そのひょろい身体で私を引っ張り上げられるのかと疑ってから、命の危機に瀕しがむしゃらに抱きついてきた力の強さを思い出して考えを振り払った。男女ではやはり肉体の造りが違うのだろう。
「身体は軽くなってる。明らかに状態が違うから、もう大丈夫だろ」
「そうですか」
改めて気が重くなる。どうやら、『大丈夫』と程遠いのは私だけになったらしい。
私の気も知らず、イルーゾォは窓の外を見てから私に視線を戻し、わざと難しい顔をして唸るように言った。
「ちなみに、まだもうちっと効果が残ってるかも……っつったら……」
「は?」
意図が理解できずかなり本気で困惑した声が出る。
イルーゾォは慌てて自分の言葉を切り上げると、なんでもないと嘯いて両手をポケットに突っ込んだ。
私たちは不自然に沈黙を漂わせる。口を開こうとしない男を見ていると死にたくない気持ちが顔を出した。とはいえ、そういうわけにはいかない。私は自由に、自分の意思を尊重して生きていきたい。借金で首が回らず先も真っ暗な場所で立ち尽くしているのは、生きたまま頭の上からコンクリートを流し込まれているに等しい。
彼が何を言いたかったのかを遅ればせながら理解した私は、目を合わせてこないイルーゾォ氏に向けて冗談めかして首を傾げた。
「ちなみに、その病気が今私にうつったって言ったら、延命してくれます?」
イルーゾォは引き結んでいた唇をむずむずと動かす。
「お、俺だってお前に助けられたんだし……しねえわけにはいかねえ、だろ、……
融けきったカードから滴り落ちた蝋が足元に固まり、小さな火を点された気がした。とてもあたたかくて気持ちが良かった。
「ありがとう。うつってないんですけどね」
「お前なあ!!知ってるよ!倒したのは俺だよ!!」
口角泡を飛ばさんばかりに怒鳴られたが、借金取りの恫喝とは程遠い。
どこからどう見ても私の人生は行き詰っている。これがオセロなら、どこにも空きのない盤のど真ん中で立ち往生している駒が私だ。
帰り道はわかっていた。くねり路は複雑でも、建物をよく見ていたから憶えていられている。今度は左右を逆にしてゆけばいい。
私は汚い部屋でイルーゾォに背を向けた。並び歩いて帰るのもおかしいだろう。お互いに用事は終わったのだから。
「それじゃあ」
後ろから抱きすくめて最後の別れでも告げてこないかと期待する気持ちもあったが、氏にそれほどの気遣いはなかった。私の背中に、おそらく両手をポケットに突っ込んでぶっきらぼうな顔をしたままの『さようなら』がたたきつけられる。
「お前、死ぬなよ」
返事はしなかったが、少なくともシャワーホースで首を吊るのはやめておこう、と思った。



数百万におよぶ借金は一人きりの私の肩にのしかかり息苦しいほどだったが、何度となく「死ぬな」と言われた記憶が蘇り、死に場所を探す眼にも力が入らない。ひっくり返された自宅へ戻る前に、傷心をたとえて空でも見上げよう。
信号に差し掛かる。ちょうど停止の色が光ったのを確認して、あ、と自然に一歩踏み出していた。奇妙なほど凪いだ夕暮れの心境ならば飛び込める気がした。
後ろから強く腕を掴まれたのはその時だった。一瞬で視界がはっきりし、息を呑む。全身の血が凍りついた。私は数時間前にも、この程度の力で腕に手をかけられた。嫌な姿と蛇のような顔が瞼の裏の光のように明滅した。
振り向けずにかたまっている私に、怒ったような声がかかる。蛇のような借金取りのものでも、情緒のない元病人のものでもなかった。
「危ないぞ、前を見て歩かなくちゃあな。……何か事情があるのか?俺で良ければ話を聞かせてくれないか」
つやのある黒髪を顎のラインで切りそろえ、ぴしりとスーツを着こなした長身の男が、誠実そうな瞳を細めていた。