イカロスの翼


恋をしても借金は消えない。
真っただ中にある人生の危機にスパイスを加える出来事の後、私たちは三回も街中でハグを繰り返した。そのたびに不思議な気持ちが、ぬくもりをより心地よくさせた。人生で二度目を数える恋心の発露だったのかもしれない。一度目は幼い頃、近所のハンサムな青年に捧げた。彼は空き巣の常習犯で、油断した我が家から貴重品という貴重品をすべて盗んでいった。最低な記憶はこびりついて離れない。
次に恋した相手が奇抜なヘアスタイルの犯罪者とは、自分を疑いたくなる。一杯のジュース代にぐらつく安い女と笑わば笑え。痴漢行為じみた出会いから数時間、想像もできない心境の変化だ。飛び降り自殺を暗に断られ続け、よほど弱っていたらしい。
「イルーゾォはどうやって病気をうつされたんです?」
死にたくない気持ちが心の中で強烈に主張を始めたが、あえて無視をし続けた。現実的に考えて、恋に走ったところで何も解決しない。
「あー、……例えば、ビンタ一発でうつるような変な病気なんだよ」
「馬鹿にしてます?」
「してねえよ。説明しづらいっつうか、してもお前にはわからねえっつうか」
心底困っていたので追及はやめた。私もなぜ自分がこうなるまで豪遊し続けたのか訊ねられても、精神的な抑圧を打ち明けねばならないので端的に誤魔化す。触れられたくない部分は誰にでもある。
「けど、ホントにやめとけ」
目的地を目指す歩みに迷いはない。一度通った道なのだろう。だんだん人けがなくなってゆく。家から離れた場所へ来てしまったので、日が暮れると帰り道が面倒だなとぼんやり思い、唇だけで自嘲した。
私の寝床がまだ無事なのかも疑わしい。借金取りはあの街路でわざと接触してきたが、それ以前からずっと私をつけてきていただろう。寝泊りしている小さな部屋も突き止めているはずだ。無遠慮に家探しする男たちによって金目の物は一つ残らず押収され、家じゅうが引っくり返っているに違いない。毒には毒をぶつけるし、違法には違法をぶつける。他の住人たちも後ろ暗い人間ばかりだ。誰も手を出しはしない。
「でも、どうしようもないんですよね。死にたくないと言ったところで、このまま生きていてもどうせいつか『死んだ方がよかった』と思う出来事にぶち当たるのはわかりきっています」
私の表情には気づかず、イルーゾォは前を見たままぶっきらぼうに吐き捨てた。
「けどな、俺だってお前に目の前で死なれると寝覚めがワリィし、ここまで来て見過ごすってのもおかしいだろ。俺はお前に助けられてるんだ」
「結局は私も、全部自分の為ですけどね」
無理やり同行を申し出た根本には自殺願望がある。厳密に言えば願っているわけではないが、やむを得ない手段として、私に残された選択肢はそれしかない。
そういえばここには人の気配が少なく、怠惰な管理人も居なさそうな高い建物がいくつかある。見上げて、夕暮れに近い空を見る。ここで死ぬ気にはなれなかった。
「それでも、マジにヤバかったんだよ。枕抱きしめても意味はねえし、吐き気を堪えて同僚に抱きついて時間稼いで、さっさとクソ野郎を殺しに行こうとしたら急に発作。死ぬかと思った……」
言葉の最後は私の耳元で話された。抱きつかれるのにも、この男の体型にも慣れてしまった自分が切ない。
「ついてきてもらってるのは助かるよ」
イルーゾォの声は、ジンジャーエールを注文した時とあまり変わらなかった。
「だけどたぶん、スタンドがお前を攻撃する前に俺がクソ野郎をぶち殺すから、お前の願いは無駄」
「スタンドとは?」
「あ、……あー……、ウイルスの名前みてーな……」
かなり苦しい言い訳だった。この男は話題が調子に乗って来ると口が軽くなるタイプだ。
問い詰めないと決めていた私は、イルーゾォが離れてスッと風の通った腹の前で手を組んだ。
得体のしれない何かがイルーゾォの命を蝕もうとしているし、私はそれを肩代わりしたい。蝋にまみれた手を洗い流して、できるなら葬送の白い花びらにでも埋めたい。同じ白色なら花の方がずっといい。本当は花よりも心地よいベッドに身を投げ出したかったが、何度も言うように、どうしようもなかった。
「大本の宿主が死んだら、病気はどうなるんです?」
イルーゾォはまた歩き出した。
「消えるはずだ」
「イルーゾォにうつっているものも?」
「だから殺しに行くんだろ」
誰かが聞きとがめる心配もない道中、私たちは物騒な単語を並べて脚を動かす。
くねった道を一度通り過ぎたあと、三階相当の高さでそびえる建物の前で彼は立ち止まった。
くい、と紳士的に手を引かれた。
「あのさ、……いいか?」
切羽詰った状態でない時は、イルーゾォはこうして私に許可をとる。ぞっとしたりしない相手なので、断る理由もなく顎を少し上げた。
いわゆる敵陣の目の前で男女が命をかけて抱き合うとは、まるで映画のワンシーンのようだった。