イカロスの翼


胸の高鳴りは一瞬で治まった。バルを出る頃にはすっかり元通り、金に困り死を選び、空を見上げて高所を探していた女に戻る。隣を歩くのはイルーゾォだ。病原の居場所と思われる場所へ向かう男に、私はくっついて歩いていた。もちろん、感染を狙ってのことだ。
イルーゾォは当然渋ったが、彼の『発作』を盾にとるとたじろいだ。街中で死の予感に襲われた時、道行く人間に男女構わず抱きついていては、それこそ通報されかねない。話を聞けば、彼は身内にもあまり異常事態を報せていないという。大笑いされるからだとぼやいていたが、それこそ命と嘲笑のどちらに重きを置くのか問いかけたい気持ちでいっぱいだ。しかし渡りに船といえる。事情を知る私が居た方がいいはずだと押し切れば、論争が得意ではなさそうな男は不承不承頷いた。

帽子をかぶり忘れていたと気づいたのは、どん、とわざと通行人に肩をぶつけられた時だった。今日は厄日だと思いつつ、こみ上げた憤りに任せようとして失敗した。有無を言わせぬ力で腕を掴まれ、すぐ近くの横道に連れ込まれかける。咄嗟にイルーゾォが男の手首を掴んだので、不可思議な一方的トライアングルが完成し、私たちはさながら川の水にぶつかり流れを逸らす石のように往来のど真ん中で固まり合った。
男は嫌な笑みを浮かべる。一見気さくだったが、見慣れた色があった。目はちらとも笑わず、私の脳髄を凍りつかせる。
「俺とは初めましてかな、
睨みつけるだけの余裕もなかった。毒入りのワインを飲めと口元にグラスを押しつけられる亡国の王女にでもなった気分だ。
「今日は友達と一緒かい。ところでね、いい天気だと思わないか。お茶を奢るから、テラスで少し話でもしよう」
同じ他人払いでも、イルーゾォとはまったく違う。ときめきのかけらも感じない。弱った心は無差別に反応していたのではなかったらしい。安心すると同時に寒気が背筋を素早く駆け上がった。喉の奥にまで鳥肌が立った気がする。声は痺れ、手を振りほどいて逃げることも忘れていた。
「誰だよ、お前?人違いだろ。悪いけど、俺たちこれから用事があるから。ナンパなら別を当たれよ」
イルーゾォは男の腕を強く払いのけた。抵抗せず手を離した蛇のような借金取りは、上から下まで、善意ある病人を眺めまわした。
「彼氏かな?」
「さあ。どうでもいいだろ、あんたには関係のないことだ。……行こうぜ、……『メローネ』」
わざとらしく時計を見た彼に知らない名前で呼ばれたが、考えている暇はなかった。突然、このひょろい男がたくましく思えた。
差し出された手を急いで握ると、イルーゾォはすたすたと歩き出す。ちらりとまた時計を見て、一度も振り返らずに角を曲がった。
凍りついていた呼吸を取り戻す暇もなかった。
曲がった途端に引き寄せられた私は、かたい鎖骨に顎をぶつけるところだった。激しく心臓が脈打つ鼓動が肌を通して伝わるようだ。心なしか、触れ合うほど近くにある首が冷たく濡れている。ふいに、先ほどの時計を見る仕草を思い出した。
「……あっぶねえええ……」
情けないとは思わなかった。死が目前まで迫った状況で、あれほど冷静に言葉を発し、自然な足取りで震え一つ起こさず道を歩ききったイルーゾォに尊敬の念すら抱く。なりふり構わず出会いがしらに私を抱きしめた時とは大違いだ。
私は自然とイルーゾォにハグを返していた。心外なことに、私の方が震えていた。シャツをねじって細くしドアノブに引っ掛けた時ですら、ここまで恐れてはいなかったのに。
「ほんとに、ありがとう」
ぽつりと、このままずっとイルーゾォの『治療薬』でいられたら楽しいだろうなと思った。
ただ、そうもいかないので、やはり死ぬしかないのだろう。こんな恐怖はもうご免だ。