イカロスの翼


どうしてもうつすことはできないと言われてしまった。一度抱きしめた人間には優しくしてしまうたちなのかもしれない。彼は昨日から今日まで生き延びる間に、いったい何人の『放っておけない人物』を生み出したのだろうか。
違法に違法を重ねた結果がこれであり、裁判所に申し立てねばならない自己破産もままならない私は、イルーゾォ氏に協力することにした。楽に死ねる方法が目の前にあって、それが『病気』という自分にはどうにもならない事態ならば、誰の文句もなくころりと昇天できそうだと、そう私は考えている。
ジンジャーエールを飲み干した男は、まずそうに眉根を寄せ私に苦言を呈した。
「マジで死ぬんだっつうのに」
自らの告白はなくとも、この男が犯罪者であることは私の中で確定している。彼はクレジットカードを違法に製造したと知ってまともな反応を見せるでもなく、逆にその界隈の事情に精通していると言葉の端々からにおわせた。身体つきはひょろっこく、物理的に相手を倒すタイプではなさそうだったが、何かの方法で他人を傷つけた経験もありそうだ。状況打開の策として取り立て屋の暗殺を提示してくるところも怪しい。
イルーゾォは『死』については消極的だった。私にうつしてしまえばお互いに得をすると説明したはずだが、一向に受け入れる気配はない。それどころか、とんでもないことを言い出した。
「俺は葉っぱなんだよ」
普段から口数は多いが、他人と会話するのはあまり好きではない。そんな性格が痛いほど伝わってくる、あぐねた喋り方だった。必死な努力が、グラスの表面から落ちきった水滴の水たまりを震えさせた。
「俺は葉っぱで、大本の樹じゃねえとこの病気はうつせねえんだ。えーっと……種を生むのは」
一般的には実ではないだろうか。林檎を割れば種が出てくる。私が口を挟むと、イルーゾォは苛々してテーブルを叩いた。
「ああああ、そうじゃねえんだよ!実は大本にしか生らないだろ。葉っぱにはどうにもできねえっつうのが言いてえんだよ」
「大本の正体はわかっているんですか?」
光合成やら養分の循環やら、ちまちました作業とは無縁そうな男は苦い顔で腕を組む。動きは落ち着かなかった。
「わかってる。どこにいるのかもな。俺はそこに行ってそいつをぶっ……」
男は途中で咳ばらいをして言い換えた。
「……そいつが二度と誰かに病気をうつせねえようにしてやるつもりだった」
私は男のステータスメモにひと言書き加える。彼はやはりかたぎではなく、調子に乗ると口が滑るタイプだ。
主が死ねば病原菌も打尽されてしまうようだと知り、私はいささか焦っていた。イルーゾォが病気を譲渡できないのなら、私は大本に頼るしかない。
私はどうしようもないので死ぬことにしたが、せっかくなので知らない世界に足を踏み入れてみたかった。
生まれてこの方、悪辣な環境に居たにも拘らず私は大病にかかったことも夏風邪で死にかけたこともない。イタリアで風邪が大流行し、街ゆくいかつい男たちが咳とくしゃみに悩まされていた時も、けろりと宅配の搬送作業に勤しんでいた。人手の足りないあの時は稼ぎ時だった。もちろんそのリラはすべて露と消えている。私がこぎれいな恰好をしていられるのは日々の努力と散財のおかげなのだ。
「お前、真面目に生きた方が良いよ。まだ引き返せるだろ」
「900万の借金があっても?」
「逆に何したらその短期間だけでそこまで金を使えるんだよ」
「色々あるんですよね」
あれは本当に楽しかった。
胸を満たした喜びを思い出すと、心臓が締め付けられてきゅうと痛む。本当に、楽しいひと時だった。もちろん、今となっては達観した後悔しかない。あの時あんなことをしなければ、私は今頃細々とつつましすぎる生活を送っていられただろう。
だが逆に言えば、終わる時がきたのだ。もう食費に悩むことも、新しい靴を買えずに悲しむこともない。葬儀だけが心配だったが、参列者のいない無縁葬も悪くない。道端に死体が転がっているのを見たことがあるので、それよりはましだと思えた。あの躯は不法な業者に骨の髄までむしりとられてしまったに違いない。おぞましくえげつない行為が、まだこの世紀のどこかで横行している。非人道的な商売もある、というだけの話だが、私は仲間入りを果たしたくなかった。誰かに発見されやすい場所で死に、仕方なく埋葬される方がまだましである。
「どっかに保護を求める、とか」
「私自身、違法なことをしていますから。ムショ暮らしは嫌ですし」
「お前さあ……、わがまま言ってられる立場かよ?生きていたくねえの?」
「生きていたいですよ、自由に」
借金取りから逃げ切ったとしても、運よく倒し切れたとしても、私の生活がカツカツであることに変わりはない。生きる希望とは何だろうか。私にとって砂漠のオアシスにも等しかったカードが砂塵を生む悪夢と化した今、項垂れる私には気力が湧かなかった。どうしようもないので死ぬしかない。
なぜかイルーゾォに人生を諭されることとなったが、この間に私は二度彼とハグを交わしている。バルの客から向けられる生暖かい視線も湿っぽくなってくる頃合いだ。
店を出ようと伝票を手に取ると、イルーゾォが白い紙を私から奪った。
「いいよ。金がなくて死にかけてる女に払わせるほど、俺は落ちてねえ。お前は待ってろ」
不覚にも弱った心がぐらついてしまい、私はひどく焦燥した。
会計へ向かったイタリア人の横顔を見送って、席の横で呆然と立ち尽くす。視線を一身に集め居心地悪そうにするその彼がひょいと振り向いて、血の気の失せた顔で早足になり私にハグを要求しても、以前よりずっと気楽に受け入れられた。
三分間じっと待ち、離れる。これだけの単純な動きが難しかった。金と言い、男と言い、実に容易く転びかける女である。金については躓いてそのまま沼に飛び込んでしまったが、これから死ぬ身で恋に目覚めるというのも笑えない。
そもそも、バルの支払いを引き受けられた程度で人に惚れていてはホルモンも持つまい。