イカロスの翼


「その病気、病院に行った方が良いんじゃないですかね」
ジンジャーエールの炭酸が抜けきるまで、イルーゾォ氏は両手を握り合わせ俯いていた。私の提案にもまったく反応を見せない。威勢の良かった髪の毛もしおれている。
「病院じゃあ治らねえのはわかってる」
「じゃあ、どうするんですか?今まではどうしていたんです?」
発作が起こってから十数分以内に誰かを抱きしめなければ死んでしまう病気らしい。病名は教えてくれなかったし、手元の携帯電話で症状の概要を検索しようとしたら強い力で端末を奪われたので、事実かどうかは確かめられない。痴漢の口実だと踏んでいるが、軽く突いてみると血相を変えて否定された。世の中には私の知らないことが多くある。クレジットカードを融かしている暇があるのなら知識を増やすべきだった。食にならない智の財産など種にもならんと放置していたが、生ゴミの三角コーナーに肩までどっぷり浸かりきった今となっては形のない藁にも縋りたい気持ちだ。
「問題が起きたのは昨日からだから、今までも何も、ねえよ」
「突然の症状で病院にも行っていないのに対処法を知っているなんて、やっぱり有名な病気なんですか。私は学がないので知らなかったんですけど……」
携帯電話だって、サイン一筆でどうとでもなるカードと共に宜しくない業者から買い取ったものだ。こちらも同僚の男が手配してくれた。旧型から新型まで値段がすべて一律だった。支払いも使用した分だけと緩すぎる規約のもとで稚拙な契約を交わしたのも、間違いの一つである。
精巧かつ、いかにも合法な不正カードを作るのに元手は必要なかった。よくある、元本無しでうまい汁が吸えると謳われる危険極まりない話だ。どこにでも存在する怪しい釣り針にあえて引っかかりにいってしまうのが、追い詰められ混乱し背中を押されテンションが上がった魚の悲しいところである。言うまでもなく、その魚は現在生ゴミボックスに九割身体を飲み込まれている。盛大に振り込まれた給料の前金は月払いのローンに消えた。
イルーゾォは口ごもってから首を振った。
「これは……。……そう、うつされたんだ」
「はあ」
氷が溶けて薄まったジンジャーエールからは、死にかけと見まごう程度の泡しか立ち上らない。同じく沈鬱な表情で何かを決意したイルーゾォ氏は身を乗り出した。
「うつされたから、症状も対処法も知ってる。でも大事なところが抜けてるんで、俺はこれをうつしやがったクソ野郎を探し出して治療法を教わらなきゃあならねえ」
「うつるんですか」
「うつる」
私は男から距離を取った。どういった経緯で感染するのかはわからないが、得体のしれない病気を貰いたくはない。
そこまで考えて、気がついた。これは簡単に死ねる、もってこいの手段なのではないか。椅子に座り直す。
「それ、私にうつせません?」
イルーゾォがぽかんと口をあけた。喉の奥から一つの音が漏れ、素っ頓狂な響きが私に投げつけられる。
「は?」
懇切丁寧に事情を説明するのは面倒だったし、呆れられるのだろうなという諦念もあったが、どうせ私は死のうと思っている身だ。今更外聞を気にして何となる。
真っ二つに割って捨てたクレジットカードの形を思いだし、手で大きさを模って見せる。この程度の大きさの薄いプラスチックに振り回されて、私の人生は奈落へ転げていった。疑いようも否定しようもないほどに自業自得だ。
案の定、イルーゾォは気の毒そうにするより先に、靴底のないサンダルを見たような顔をした。
「お前さあ」
いつの間にか『あんた』から『お前』へと呼び名が変わっている。格下げだろうか。
「言っとくけどな、マジで死ぬんだぞ」
「『発作』ですよね」
「ああ。冗談じゃあないんだ。首を吊るより簡単に死んじまう」
イルーゾォは真剣な顔でジンジャーエールのグラスをテーブルの隅へ押しやった。
私が彼をからかったり、信じず冗談を言っているとでも思ったのだろうか。確かに全面的には信じていない。その点は否定しない。けれど、酔狂でたちの悪いジョークを口にするのとは違っている。
借金取りに捕まり、期限を一秒でも過ぎれば、私の脳梁が裏路地をデコレートすることになるだろう。皮膚も髪も臓器も切り売りされ、二束三文に換えられる。このイタリアに居る限り逃げ切れるはずもない。事態が好転したとしても、良くて馬車馬の一生だ。全身が擦り切れてなくなってしまうまで使い倒され、もしかすると、手っ取り早く花を売りに出されるかもしれない。今更金も返せないし、文句を言うにはあまりにも私に落ち度がありすぎる。原因となった男も上司も職場自体も、何もかもがグルだったと理解してももう遅い。哀れで愚かな金銭感覚の狂った羊は崖っぷちから八割身体を突き出している。どうしようもないので死ぬしかない。
「そんな簡単に諦めんなよ。逆に相手をぶっ殺すくらいの気概を持ちゃあいいだろ」
「どうやって?」
「殺しを頼む、とか」
言いづらそうだったが、イルーゾォの口調に迷いはなかった。顎を指で押さえた仕草が子供っぽく、私は無性に、炭酸のかけらも見当たらない水っぽいジュースをその口に押しつけたくなった。
「殺し屋なんて溢れてんだろ、その辺にさ。特に、お前がカードを作った界隈にはゴロゴロいるぜ」
「依頼するお金がないし、不毛な戦いを続けることになるのは目に見えてるじゃないですか」
「……だったら死ぬのか?」
「その『病気』でね。イルーゾォは私にうつして万々歳、私は死ねて万々歳。どちらも得をする良い取引だと思いますけど」
絶句した男は数十秒、こめかみを指で揉んでいた。
やおら立ち上がり、テーブルに触れたままひどく苦い顔をして大きな口をゆがませる。
「三分くれ」
「だから早く私にうつせと」
細くてあたたかい腕に抱きしめられ、私は中途半端に腰を浮かせたまま、じっと三分待っていた。