イカロスの翼


どうしようもないので死ぬことにした。

違法につくったカードを使いすぎて借金で首が回らない。誰に話しても自業自得と呆れられる話だ。
健全な仕事から後ろ暗い仕事まで、さまざま手を出してきた。裕福とは決して言えないがカツカツではない。そんな長年の苦労が実ったか、仕事場で話をした一人の男が私にいい会社を紹介してくれたのがきっかけだった。身分もあやふやな私でも、信頼のおけるカードを作ることができる。専用の口座を用意するところまで口添えをしてもらえると知り、ぱっと目の前に薔薇が咲いた。そんなうまい話があるわけがなかろう。なぜか勤務先の上司までが私に味方し、そういうことならと大盤振る舞いで信じられないほど給料を前払いしてくれたことも不審に思うべきだった。
明るい日差しの下で何の躊躇いもなく豪遊する日々は何と楽しかったことか。家計簿という名の風船でぱつんぱつんに圧迫されていた道が一気に花開いたかのようだった。私に降り注ぐ太陽の光はまっすぐ伸びる道を照らし、これからの人生を祝福していた。初めて手にしたクレジットカードは手のひらに収まるサイズなのに、ずっと大きく、吹きすさぶ風から私を守ってくれる気がした。
しかし今、私はどうしようもない現実に直面し、死を決意している。
初めて空を飛んだイカロスは忠告されていたにも関わらず、あまりの解放感と喜び、そして自らを高めたい気持ちから天へ天へと昇り、やがては翼を失って墜落したというではないか。さながら私はイカロスだ。蝋のクレジットカードを手に入れ、どろどろになるまで気づかず使い続けた。手元に残ったのはワックス・エステルの残滓のみだ。死ぬしかない、と思った。
首を吊ろうと決意したが、縄を買うお金もない。仕方なくシャツを脱いで細く絞りドアノブに掛けた。長さが足りず首に引っかけられなかった。諦めた。
自分一人の力で死ぬのは無理だ。車の前に飛び出そう。
飛び出そうとしたら止められた。危ないだろと怒られて萎縮し、すみませんと言ってしまった自分が悔しい。
ならば飛び降り、と高い場所を探したが、今日び高所までノーチェックで通してくれる建物は少ない。大らかな国柄があっても何かと物騒な世の中になったのだろう。あるいは高い場所でトマトを食べて汁が飛んだ苦情が相次いだのかもしれない。

ちょっと見学撮影を、などという見え透いた名目で周った三軒目も断られ、私はとぼとぼと道を歩いていた。照りつける午後の日光が肌を焼く。びくびくしているのは借金取りに見つからないか心配で仕方がないからだ。街中で追いかけられ恫喝されては、これから街で生きてゆきづらい。
そこまで考えて笑い出しそうになった。私はもう死ぬことにしたのに、明日の為に身を隠すなんて馬鹿らしい。
開き直りはしたものの、やはり威圧的なイタリア語の嵐に晒されるのは恐ろしいので、私は変わらず帽子で顔に影を落としながら歩いた。
人にぶつかったのはその時だ。これは明らかに、横から飛び出してきた相手が悪い。すわ当たり屋かと物騒な考えすら浮かんだが、今の私からもぎ取れるのはとっくに融解した蝋仕立てのクレカのみである。取り立て屋以外に恐ろしいものなど、あまりない。
私は生来大人しい性格ではないのでうっかり文句を言いかけたが、喉元まで出かかった言葉は驚きのせいで胸まで転げ落ちた。私は当たり屋に抱きしめられていた。
「……あの……」
か細い声しか出なかった。戸惑いをシャボン玉にして空へ吹かせたら、シャボンが弾ける時にこんな音が立つに違いない。人に強く腰を抱かれたのは数年ぶりだ。
魔法のカードを手に入れるまでは干からびたリーゾのような生活をしていたが、金に換えられないプライドと嫌悪感があり、べったりした潤いに身を任せることはしなかった。正直なところを言ってしまえば、自分に嘘をついてそういった暮らしを選んでいれば、このような最悪の事態には陥らなかっただろう。今更な話であるし、私はそこまで強くなれなかった。よって、死に方を探して彷徨う羽目になっている。
男は壁に背をつけ姿が目立たないようにし、私の顔を自分の胸に強く押しつけると、そのままぼそぼそと私に囁きかけた。
「悪い、……三分待ってくれ」
どうやら当たり屋ではないらしい。
気味は悪かったが、この後に何かがあるわけでもなし。私は黙って男の背中に腕を回した。
抱き合っているふりをしてしばらく待っていると、おそらくきっかり三分後に男は手を離した。
この時初めて私は男の顔を見たのだが、私よりも少し高い位置にある目は気まずそうに動いて忙しなかった。特徴的なヘアスタイルだし、行動からしておかしなイタリア人だ。
「ホントに悪かった。あんたにぶつかったし……、急に、意味がわかんなかったよな」
「ええ」
「だよな」
そこについてはまともな感性を持っているようだ。
男の黒髪はいくつも小分けにして結わかれ、肩に当たって毛先が跳ねている。男が頭を動かすと、きつねの尾がごときまとまりが釣られて愉快に揺れた。
「何か事件でも起こしたんですか?アジェンテに追われているとか?」
「追われるようなヘマはしねえよ」
何かしら疚しいところはあるらしい。素直な男だと感心した。犯罪者がこうも簡単に自分の正体を明かして良いとは思えないのだが、自分に絶対の自信があるのか、この後に私のことを消すつもりであるのか、彼は腰に手を当てて私を見下ろした。背丈には多少の差しかないものの、必要以上に顔をつんとさせるから随分と身長が違うような気がしてしまう。
「ちょっとした……、あー……、発作……みてえな」
「はい?」
「あ、ああ、誤解すんなよ。別に、誰彼構わず抱きついてるわけじゃあなくて。いや、狙ってあんたにしたわけでもないんだけどな。おかしい意味には取らないでもらいてえっつうか」
男は非常に慌てた様子で私から距離を取った。すぐ後ろにアパートメントの外壁があるので、思い切り頭をぶつけて苦しんでいた。距離を取りたいのは私の方だ。この人物は当たり屋ではなく痴漢だったのか。
どういうことか訊ねたが、男は言葉を濁して答えない。「ああ」やら「うう」やら呻きつつ、じりじりと右方向に足をずらしてゆく。
「とにかく、わざとじゃなくて。ただそこにあんたがいたから、ついやっちまっただけで」
男の手を握れば、きっと冷たい汗を感じたはずだ。
「つまり、やり逃げをしようとしている?」
私が冷徹なことを言うと、男は水をかけられ尻尾を踏まれ、漏電したドライヤーを目の前に突き付けられた時に相応しい顔をした。
「お、俺は悪くねえんだよ!あのクソ野郎がやりやがって」
男はそれ以上は言わなかった。歯を食いしばり、踵を返して逃げようとした。
しかし、手を伸ばし捕まえる間もなく駆け出した黒髪の痴漢は、ここから三メートルも走らないうちに再びかかとで地面をえぐった。ぐるりと方向を変え、青白い顔に焦燥と怖気をのせて私の方へ戻って来る。
半ば衝突される形で男の肩口に顔を埋めることとなった私は、舌の根も乾かぬ痴漢に再び抱きしめられていた。