やる気だってなくなるさ
密航の少年が海に飛び込んだ時、アヴドゥルは、確かに華奢な腕がそれを追いかけたのを見た。追って飛び込み死ぬつもりか、と踏み出すより前に、彼女は少年の伸びあがった腕をつかんだ。一人分の体重を支えきれない無力な肢体が船のヘリに押し付けられ、くるりと回転するように海へ落ちる。
(いや、……“支えきれない”とはなんだ?彼女は海に飛び込み、死のうとした、……そのはずだ)
おかしな錯覚だった。かの一瞬、誰もが反応に遅れたあの場面で、が少年を助けようと手を伸ばしたなんて。
しぶきを上げて着水した二人はハイエロファントと承太郎によって引き上げられ、特に勢いよく承太郎に助けられた密航者がゲホゲホとむせている。はうずくまる少年に手を伸ばそうとして止め、自分の服を絞った。
「お、お、俺の妖刀が、340人目の血を吸いてえって……」
花京院が思わず笑ってしまうほどの可愛らしい脅しに、もちろん屈するものは誰もいない。どう手を付けたものかとアヴドゥルが思案していると、無造作にが少女に近寄った。「あ」と、誰のものか声が上がる。
躊躇して後ずさった密航者のナイフにが身を捧げると、彼女ら以外の誰もがそう思った。
しかしはごそごそとポケットからハンカチを取り出すと、黙ったまま少女の頭にそれをかぶせた。
「……え?」
「若い子が危ないこと、しない」
そんな長いセリフをきいたのはほとんど初めてだった。
ぽかん、と自分より少し背の高い彼女の顔を見た少女は、手からナイフが抜き取られても抵抗しなかった。彼女の表情は少女以外の誰にも見えず、が仕方なさそうに笑ったのを見たのはびしょ濡れの小娘だけだった。
敵意がないならナイフの刃を人に向けてはいけない、とは言うが、にはこういったナイフの持ち方がわからなかった。果物ナイフとは違って両刃だし、水に濡れて滑ってしまいそうだ。だから切っ先を爪先に向け、適当に握りしめて持っていたのだが、それはあまりよくないようだった。近寄ってきたジョセフが、アヴドゥルやポルナレフの制止もきかず、直接両手でナイフを取り去っていく。そのまなざしにはどこか憐みがあり、は内心首をかしげた。
(まったくよくわからないけど、私はジョセフに何か憐れまれるようなことがあったっけ)
中学受験に成功。高校受験に成功。大学受験に成功。就活に成功。突き詰めていた研究も論文も完ぺきに提出し、ささやかながら結果も出した。今よりも上層のチームに組み込まれる内定も決まって、大親友は素晴らしい縁に恵まれ幸せな結婚を果たし、両親には念願の外国旅行をプレゼントした。自分だって行く予定だった。チケットを予約し、奮発したホテルで休暇をのんびり過ごそうとたくらんでいた。素晴らしい人生だ。苦労と努力が奇跡的に実を結んだ、最高の時期だった。
それが。
そのはずなのに。
人生の絶頂期から一転どん底、右も左もわからぬ物語の中に放り込まれた衝撃で、の心には重い諦念が沈んでいた。そのために表情を動かすのが億劫で、誰にもなにも言われない、行きずりの関係であることをいいことに、不愛想な態度を貫いている。希望は穏便に死ぬことだが、さてこの旅に穏便な死などあるのだろうか。
人並みに人生を送ってきた経験から、“主人公たち”から向けられる感情がなんであるかの察しはつく。敵意、警戒、そして一抹の悲しみだ。いったい何がどうなってそういうことになっているのかさっぱりわからなかったが、所詮五十日未満の付き合いである。“知っている”とは言っても見知らぬ男たちに自分の事情をつまびらかにしてどうしようもない状況に同情を引く気にはなれなかったし、なにより面倒くさかった。
ただ、密航者という関係から始まる少女と承太郎の関係にはちょっと興味があった。作品を読んでいた時から、無鉄砲さとがさつに見えて繊細な表情を可愛いなと思っていたし、実際に見てみると、歳の離れた妹のように思えた。
ただ、それだけだった。
後にも先にも引けない状況にあるのなら、なぜか若返った肉体に任せてがんばって痛くない死に方を探そう。硬質なまなざしの下で、は一人ため息をついた。
何の因果か、人質に選ばれたのはだった。
煙を吸い込んだら鼻に血管が浮き出るウソだろ承太郎、そのやりとりを眺めていた少女は、ジョセフにナイフを奪われた拍子に場所をうつったのか、とても偽の船長に近い位置にいたのだ。屈強な肉体を持つ悪人が、己の隣に自分より二回りは小柄そうな少女がいたらどうするだろうか。もちろんその展開の通りになった。
承太郎はチッと舌打ちをして、饒舌にくだらない口上を述べる男を見る。その太い腕で首を圧迫され、僅かに顎を上げたを見る。
音も立てず静かに合致した視線は、承太郎に何の温度ももたらさなかった。の瞳は、晴れ渡った海の傍にあっても僅かに光るのみで、助けを求める様子も混乱する様子もない。
「この子を助けに飛び込んでくるか!?予言しよう、そうすれば貴様は私のダークブルームーンで……ッ!」
男が不自然に言葉を切った。腕の中の少女が、強く彼の足を踏みつけたのだ。その隙を突いてスタープラチナの拳をふるえば、男は少女ごと船べりから転落した。スタープラチナの手が、落ちる少女の前襟をつかむ。彼女は手を伸ばさなかったから、不自然な形に吊れて揺れる。
死にたいのだろうか。承太郎はスタンドに代わって少女の体重を支えて、そう思った。
「ちゃん!手を伸ばすんじゃ!」
ジョセフの声に、は少し考えてから腕を上げた。恐らく、ダークブルームーンというスタンドによって死ぬことのできる可能性と、海に沈んでも救助されてしまう可能性とを考えたのだろう。ジョセフが「よし!」と頷くのが視界の端に見える。
「テメェ、何やってやが……、ッ!?」
「どうした承太郎、早く引き上げんか!」
「さっきあたいを持ち上げたんだ、その姉ちゃんくらい簡単だろ!?」
の手のひらは承太郎の腕をこすった。制服越しに伝わる感覚に承太郎が口を開くのと、彼自身の異常に気が付くのはほぼ同時だった。彼女の手は、びっしりと腕に張り付くフジツボをこそげ落とそうとする動きだった。
スタンドでできたフジツボは当然取れず、承太郎は加えられていく重みに冷や汗をかきながら耐える。少女だけなら簡単だったが、海中から響く笑い声に圧されるように、承太郎の上体はへりを滑った。
「クソッ!」
ドボン。
引きずられるように海に落ちても、は承太郎に手を伸ばさなかった。
承太郎は旋回する鋭い鱗から少女を守るよう、強く胸に抱き寄せる。敵だとか、味方だとか、そういうことは関係なかった。ただ無力なものを守り、へどの出るような悪を砕く。それだけだ。
敵だった男がごぼごぼと水泡を吐きだして水に浮く。
海底を蹴って水面を目指す承太郎は、緩慢に足を揺らす腕の中の少女をちらりと見下ろした。
(チッ、泳ぐ気はありません、ってか。今ここで死んだって構わねぇような目をしてやがる)
ごぼごぼと不規則に吐きだされる空気はのものだ。承太郎のは、泳ぎに長けた人間の整ったリズムの呼気だ。
少女の息が続くのかと懸念した承太郎は、腕の力を緩め、バタ足を続けながら強くの腰を掴んだ。そのまま持ち上げ、最後に尻を押し上げて水面に近づけてやる。びっくりしたように見開かれた瞳に、思わず微かな笑みが浮かんだ。敵の意表を突くことをするのは、戦略上優位に立っているようで安心があった。
*
泳げないんだよなあ……。