夜は短し目覚めよ乙女


すべてが膜を隔てた向こう側の出来事みたいだった。
痛みもなく、ぼんやりと目に映る光景だけをやり過ごす。本当なら雑念にまみれ、痛いよと叫ぶはずの口も動かなくて、頭もうまく働かない。何を考えればいいのかわからず、ただ突き動かされるままナイフを動かした。
腕から生ぬるい血がしたたり落ちる。誰かに抱きかかえられて場所を移り、がやがやと煩い声をBGMに、私はまるでお風呂の中で眠っているような気持ちでいた。
とても心地よい。色のないこの世界で、ずっとこのままで。
いや、ダメだよなそれ。
ふと割り込んだ鮮やかな思考に気を取られる。ダメだって、何が。疑問に思う間もすぐに消え、また私はふわふわとした頭のまま、視界に掛かるヴェールの向こうに赤い瞳をみつけた。
瞳は私を見下ろして、色々なところに暖かい指で触れた。首や、頬や、瞼や、傷口の血を確かめるようにぬるりとなぞられて、くすぐったいと思ったはずなのに身体は動かなかった。私は何かを待っている。そうだ、命令を待っているんだ。誰からの命令だろう。ていうかどうして私は命令を待っているんだろう。待っちゃいけないんじゃないか?思想の自由はどこに行った。
唇に瓶が押し付けられたけど、うまく液体を飲み込めない。とても少量なのに、薄く開いた唇を湿らせるだけだった。ただ心なしか、意識がはっきりしてきたような気がする。ここはどこで、私は誰だっけ。
飲んで、と少年の声が聞こえたけど、飲めと命令されていないから飲めないんだよ、と心の中で呟いた。
私の呟きを知ってか知らずか、赤い瞳は私から逸れた。すぐに戻って、頬をしっかりと手のひらが包んだ。されるがままに少し口を開かされて、柔らかい唇が触れる。本当に少ない量の薬品が流し込まれる。口内にじんわりと暖かさが広がって、それに引きずられるように、視界をぼやかしていた膜が破られた。
「……ん、ん?」
ようやく気付いた。あっ私、今薬を口移しされたんじゃね?
なにこれ意味が、いやわかるけど。わかるけどわからない。どういうことだ説明して苗木君。
ぬるい薬品と、たぶん薬品だけじゃないものを飲み込んだ私は、ぱしぱしと手近にあった腕をタップした。こんな状況なのに少し名残惜しげに音を立てて離れたリゾットは再び私の頬と目元に触れて、じっとこちらを見下ろした。
「目が覚めたか?」
「さ、……覚めたような気がする……リゾットちゃんのおかげかな……?あはは……」
開幕一発の冗談をぶちかましてから周囲の様子に気づいてメンタルの削れる音がした。やだみんな見てる。みんなというのはダンブルドアを始めとした教師陣、ソルジェラを筆頭とした身内陣、ハリー君を中心とした主人公勢だ。
ふぉふぉふぉと笑うお爺ちゃん。安心したような表情を苦渋で押し隠すスネイプ先生。呆れかえりつつも私の無事を喜ぶマクゴナガル先生。涙を浮かべるペッシたん。その涙を拭ってやるプロシュート。はいはいはいはい。あとなんか虚ろな顔した知らないオッサンがいるけどもしかして今回の黒幕?
みんなはそれぞれホッとした表情をしていた。ごめんな、私操られちゃったみたいで。ポート・キーで移動したと判った時には押さえつけられてインペリオだったからうまく説明できないけどなんかごめんな。殺されなくて良かったよマジで。
ハリー君たちは顔を赤くして私とリゾットから目を逸らしていた。よくわからないんですがね、リゾットさん。あんたがしたのってただの口移しだよね?14,5歳の少年の心に何か衝撃を残すようなことはしてないよね?
ただのマウストゥーマウスでここまで少年少女を恥じらわせるリゾットのスキルに改めて乾杯。それを人前で披露したあんたが凄い。なぜその手段を取ったし。恥ずかしすぎて私が死ぬわ。死なないけどね。
雑念を交える余裕も戻って来たよ。無敵のポルポさんの緩やかな復活だ。
意識の復活と共にずきずきと痛み始めた腕を押さえる。なにこれスゴイ痛い。意味が解らない。なんで私はリストカットしてるの。誰だよこんなことしたの学級裁判にかけるぞ。あっ私だった。インペリオ、ダメ絶対。

ペッシたんから話を聞いて事情を把握した私は、チョコレートを食べながら頷いた。つまり三行で言えば、ヴォルデモートはリゾットを釣るエサを間違えたのだ。うっかりさんだなあ。バカめそっちは残像だ。本当のエサは私を懐柔し、私自ら闇においでよとみんなを誘わせることだったというのに、わざわざ傷をつけたりするからこうなる。
腕には包帯が巻かれ、痛み止めは飲んでいるけどまだ動きがぎこちない。こんなに深く手首を切ったことはないから(ジョジョ世界でのアレは切ったのとは違うだろうし)新鮮な気持ちでいっぱいだ。痛くなければ見ていて面白いんだけど実際にガチで痛いから困る。
バーテミウス・クラウチ・ジュニアはディメンターのキスを執行されたらしい。ディメンターのキスを受けた者は後にディメンターになるという通説があるが、それが本当だとしたら、バーテミウス・クラウチ・ジュニアはいずれ、かつての仲間に刑を執行することになる……のかもしれない。それは皮肉なことだけど、循環という意味では非常に興味深くもある。
トライ・ウィザード・トーナメントの終幕は意外とあっけなく、ハリー・ポッターは優勝と同時に再び大切な信頼というものを失うことになった。
ヴォルデモートが復活したという信じがたい事実を突きつけられて、人は信じないことを選んだ。まあ魔法大臣もうっかりさんだよね。護衛のディメンターがクラウチ君の魂を吸っちゃってから尋問したんでしょ?順番逆逆。志村ー逆逆ー。
しかしクラウチ君も、自分の力で服従の呪文を打ち破るなんてすごい。あんな魔法びぃえる界三大役立つ呪文を克服する気力は、さすがの闇の陣営と言ったところか。闇の陣営は文字通りブラックな企業だ。
「課題、頑張ったね。ギアッチョが無事で、本当に良かった」
ギアッチョは私と同じく医務室に運び込まれた。麻痺呪文を直撃させられたらしいから、しばらく手先の動きがぎこちなくなるかもしれないとのことで、副作用の低い解呪の薬を飲んでいる。
そんなギアッチョの無事を心から喜ぶと、ギアッチョは物凄い表情をした。オメーが一番無事じゃねえだろと言わんばかりに顔をしかめて包帯を睨まれたので、これは死ぬほどじゃなかったし大丈夫なんだよと言い添えた。私は死ななかっただろうけど、ギアッチョは死んでいたかもしれないのだ。どちらの方が危険だったかなんて考えるまでもない。 闇の帝王だぞ。セドリックだったら死んでいたぞ。
誰かがギアッチョを庇う発言をしたようだったとハリー君は言っていたけれど、それは誰だったんだろう。
少し考えたが、思い当る人物は一人しかいない。ルシウスさんだ。
アトマの少年が有用だから、だろうか。
なんとなくだけど、私にはそう思えなかった。もしかすると、だけど。すごく自分に都合よく考えると、ギアッチョは、ドラコ君の友人である私の大切な人だから助けられたのだ。
危険を冒してまで私の心を尊重したと仮定すると、どうやら私は結構ルシウスさんに気に入られていたらしい。まあ、どうでもいい相手にあんな人生の深い悩みを打ち明けたりはしないか。
この出来事で、ルシウスさんはどうするのだろう。ソルベとジェラートは、物事が動くためには『切っ掛け』が必要だと言っていた。私も同意している。じゃあこれはルシウスさんの『切っ掛け』に成り得るのかな。息子の友人が傷つけられ、もしかすると自分の息子や妻にも危害が及ぶかもしれないと危惧した彼は、私が血を流したことを切っ掛けに闇から離反するのだろうか。えええ?それってどうなんだ。出来るの?ダンブルドアは悔やむものを受け入れるタイプだけど、ルシウスさんってダンブルドアと致命的に合わないだろ。
私が考えていても仕方がないか。
チョコレートを食べきってしまう。
ギアッチョは賞金を放棄した。せっかく努力したのにいらないのかいと驚くと、もういい、と端的に首を振られた。あれほど勝利を狙っていたのにどういう心境の変化だろうね。だけど、いらないと言っているのに私が食い下がるのも変だ。
「一緒にお疲れ様会をしようね。いっぱい美味しいもの食べよう。私も作るよ」
言うと、ギアッチョは小さく頷いた。


闇の時代は再来したわけだが、私たちのやることは変わらない。
学期末の試験を乗り越えたギアッチョ以外の私たちは、来年に控えるO.W.L試験に思いをはせつつ帰宅の途についた。もちろん列車に乗り込む前の恒例行事として、私は魔法薬学の教務室にいる。
「先生、なんだか憂鬱そうですね」
憂鬱じゃない訳がないよなあと思いつつ無邪気を装ってみると、スネイプ先生は珍しく嫌みをしまって指を組んだ。
「そうだな。私は……、……これから貴様がどのような成績を残すのか、非常に"心配"している」
あらまあ。ありがとうございます。
「学期末テストの結果は何だ?私はお前に優等……『O』を取れと言ったはずだが」
「でも悪くはなかったですよ。頑張りましたからね、先生の為に」
「私の為に努力をするのではなく自分の将来の為に努力をしたまえ。私は……いつまでも貴様を見ていられるわけではない」
何だこの人急にデレ始めたぞ。
もしかしてソルベが変装しているのかな?なんて思ってしまったけれど、十中八九これは本物のスネイプ先生だ。だってソルベはジェラートと戯れていたし、こっちの方向にはやって来ていない。列車への分かれ道でついさっきまた後でと言い交わしたばかりだ。
「でも先生、私に仰ったじゃないですか。"7年間よろしくをするかどうかは私次第だ"って。私はこれからも先生に面倒を見てもらいたいんですけど」
「そういう意味ではない。"我輩の授業について来られるのなら"という意味だ」
「よく憶えていますね」
「……」
スネイプ先生は不機嫌そうだ。選択肢を間違えたかな。乙女ゲーだったら青色の背景になっちゃってる?ホグワーツの王子様。私の胃袋はは108式まであるぞ。あっしまったこの人ガチでプリンスなんじゃん。似合わないとか言ったらもっと怒られちゃうから黙っていよう。
私はこの人をどうしたいんだろうな。ただずっとこうやってなまぬるーくお付き合いをしていきたいだけなんだけど、そうするには障害が多すぎる。ヴォルデモートさん腹心の部下を私にください!いやいらないけど、いらないけど!いらないけど連れてかないでください!ていうかダンブルドアはもっとスネイプ先生に優しくしてあげてください。誰に何を祈ればいいのかわからないので、スネイプ先生の手をそっと握った。少し荒れてる。ニベア塗ろう。
「来年から本気を出します」
「レスティンにもそう伝えたまえ。そして手を離せ」
イルーゾォは無理じゃないかな。あの子絶対本気出す気ないよ。ていうかそんな機会もないと思うよ。イルーゾォが本気を出さざるを得ない状況ってどんな状況なんだろう。
ああそうそう、レスティンといえば。
リュシアン・レスティンについて、私は特に何も思っていない。こんにゃろうやってくれたなマヌケですみません、くらいだ。
なぜかと言えばそれは私の周囲の人たちが、私の分まで怒ってくれたからである。
リュシアン君はスリザリン生なのに多大なる減点を受け、例のあの人にめちゃくちゃ与する一派以外には白い目で見られている。例のあの人の復活に一役買った、とかそういう功績はまったく関係がなくて、スリザリン寮としては寮杯を絶対に勝ち取れない部分まで点数を引き下げたリュシアン君を個人的にうらんでいるのだ。学校生活になじんだ生徒なんてそんなもん、なのかな。
そのリュシアン君はすっかり怯えてしまっていた。誰にかというと、つい数日前までバカにしていたイルーゾォにだ。詳しくは聞かされていないけれど、イルーゾォやソルベ、ジェラートなど、実はあの場面を目撃していたという三人は、少年の棒状メンタルを随分バキバキに折り尽くしたらしい。改めて思った。私、迂闊に傷つけないなって。
一年次ではリゾットが地下のチェス駒をすべて吹き飛ばしたらしいし、二年次ではメローネがロックハート先生の肋骨とバジリスクの牙を数本ブチ折った。三年次は幸運なことに何もなかったけど、今回は少年のメンタルがお亡くなりになってしまった。私一人に対して周囲への被害が大きすぎる。まあだいたいが相手の自業自得だから仕方ないと割り切ってしまいたい気もしなくはないけどさ。理由もなく行動を振るう人たちじゃないのは知っているから、無茶なことをさせないためにも、私が気をつけないといけないね。
特に何も思っていないとはいえ驚かされたことを気にしていない訳じゃあないので、自分から近づこうとは思わないけどね。腕がイテエのは君のせいだよとすれ違うたびに思っている。陰湿な25+26+15歳だ。嫌になりますねまったく。うっ、ああマジで記憶の年数のことを考えるのは嫌だ。
スネイプ先生から手を離して(なんと振りほどかれることはなかった)、ポケットから時計を取り出す。開いてみるともうすぐ列車の出発時間だった。ぱちんと閉じて、それじゃあ、とお辞儀をする。そういえば私は「お辞儀をするのだポッター」発言を聞き逃したわけか、服従の呪文ダメ絶対。見どころを逃しまくりだ。
「先生、また来年もよろしくお願いします」
「……ミス。……あの薬は飲んだのかね?」
「あっ」
「貴様の頭には食べ物しか詰まっておらんのか」
言われて初めて思い出した。いやいや、バッグには入ってるんですよ。入れっぱなしだというのはあえて言わないけれど、入ってはいるんですよ。
「もう飲めんかもしれんな。念の為にこれも持っておけ」
「はい?」
杖を振ったスネイプ先生は、手に収まった不透明な小瓶を机の上に置いた。私が手に取ると、杖をホルダーにしまい込む。
「一昨年にミスターアトマが……、メローネの奴が採取したバジリスクの牙から精製した。毒の中和剤だ」
「そんなにヤバいんですかあのカロリー摂取薬」
「私もいまだ数度しか試したことのない、いわば治験のような段階だ。何かあっては"我輩"の沽券に関わるのでね」
つんとした態度だけど、私がお腹を壊してうっかり死なないようにという心配りだよね。ありがとう。あとそんな危険な薬の治験にしようと思わないでください。それから先生はもう少しカロリー摂取薬を飲んだ方がいいですよ、太らないと冬とか越せないんじゃないの。
「余計なお世話だ。放置している貴様が悪い。それこそ何度季節を越えたと思っている?」
「ですよね。ごめんなさい」
マジで飲む機会がないんだって。ホグワーツ凄すぎ。お腹が減ったら誰かしらが食べ物をくれるんだもん。みんなのやさしさで私の胃袋は保たれています。
不透明な小瓶をトートバッグのポケットに滑り込ませて、今度こそ私はスカートの裾を翻した。
この習慣も、もしかして来年で終わっちゃうのかなあ。それって凄く、寂しいことだ。


帰りの列車で、私は大鍋のケーキを豪快にスプーンで掘る。これが学期末の楽しみなんですよ。
「なあポルポ、あんたこれからどうするんだい?」
和やかを装っているけれど、メローネの視線は私の服の袖口に向けられている。口調は少し苛立っていた。
七分丈の袖口からは包帯のとれた肌が覗く。自分で言うのも何だけれど、白人特有のなめらかで白い肌だ。ちょっぴり日焼けしているのは私がちゃんと外に出ている証である。
「そうね、それはあたしも気になってたわ」
珍しく同じコンパートメントに来ることを選んだパンジーも、私の腕を見ていた。白い肌には切り傷の痕がある。これはしばらく消えないそうだ。魔法界の塗り薬をぬりぬりすることで次第に治っていくんだとさ。これでも女子の端くれなので忘れずに塗り込むつもりだ。いつまでも傷を残しておくと、私以上に気にする子たちがいることだしね。うっかり殺意を爆発させられては困る。
「どうするっていうのは、立ち位置の話?」
「そうよ」
「傷を……負わされて、さすがに君も嫌な気持ちになっただろう。僕も正直、少し抵抗がある。ぼ、……僕は君のことをその、友人だと思っているし、……例のあの人の恐ろしさは知っていても、余りにも理不尽だと……」
ドラコ君は私のことを友人だと思ってくれてたんだってよ!今全米が泣いた。ドラコ君が私のことを友人と思ってくれていたんだと。ドラコ君が。あのドラコ君が。クラッブとゴイルのことも友人じゃなくて付き人としか思っていないドラコ君が。実は誰よりお友達がいないのではないかと心配していたドラコ君が。私を。
嬉しかったのでスプーンで掘り出した大鍋ケーキをあーんすると、ドラコ君は頬を赤くしてもごもごと口を動かした。メローネが一人で勝手に口を開いていたのでそこにも突っ込んだ。金髪が二人、黙って頬に詰まったケーキを食べている。
立ち位置ね。
私も一口食べて、パッと浮かんだ答えを出した。
「逃げたい……かな……」
「……」
「……」
「逃げる前にそいつを殺してもいいかい?」
「危険だからやめようぜメローネたん」
緑色の閃光不可避。
「あんたらしいと思うけど、そうもいかないでしょ?」
「そうなんだよね」
かといってダンブルドアの側につくというのも面倒くさそうだ。立場を明確にするとめんどうくさい。これは私が三回人生を送って学んだことだ。曖昧に生きていきたい。迷った時は中道を行くのです、と心の中の聖人が言った。
「どこにつくにしてもさ、俺はあんたの行くところについていくから」
真剣な表情で言ったメローネを見て、ドラコ君がごくりとつばを飲み込む。
「君は……重いな……」
万感のこもった一言だった。