ロンドンの黒犬
夏休みというのは良いものだ。
だらだらと過ごしていても誰にも何も言われないし、宿題さえ片付けておけば学生としての大義名分は果たせる。夏休みにおいて重要なことはいかに面白く遊ぶかということで、いかに宿題を早く片付けるかということは大事ではないのだよ。私にとってはね。
そんな面白く過ごしたい夏休みに、ハンバーグに効かせるナツメグがごときスパイスを加えてくれるのは、今私と向かい合って舌を出している黒犬さんだ。
私は広い庭に出る窓を開け、床に座ったままアイスクリームを食べている。黒犬さんはそんな私の側で暑さに負けてハアハア言いながら、そのアイスクリームのおこぼれを貰いたくてずーっと近くに待機しているのだ。たぶんアイスクリームが食べたいんだと思うんだよね。だって他に私の側にいる理由はなくないか。
アイスクリームカップの蓋に一口分のアイスを載せて差し出すと、黒犬さんは大きな一口でそれを食べる。完全に犬。
「おいしい?」
「わふ」
完全に、犬。
なんだかこうして四六時中一緒にいると、犬に対しての愛着が湧いてくる。ペッシの気持ちがよくわかるね。このグレーのつぶらな瞳で見つめられたら何かしてやりたくてたまらなくなるよ。黒犬、お前はダメ男の才能があるよ。引っかかってるもん、私とペッシ。
楽しくなってきたので、最後の一口のアイスクリームを手に載せて差し出してみた。
黒犬のシリーは、君の最後の一口を貰うことはできない、みたいな眼差しを上目遣いで向けてきたけど今更だぜ。私はもう一つ食べるから良いのさ。それにもう手に載せてしまったから、食べて貰わないと。
シリーはおずおずとひと舐めし、即座に欲望に負けていた。最後の一滴までぺろぺろと私の手を舐めまわしてからハッと尻尾を逆立て、耳を立てた。ふと振り返るとギアッチョがアイスクリームよりも冷たい瞳で私たちを見ていた。犬相手にデレデレしてたから呆れたのかな。
「いらっしゃい、ギアッチョ。今シリウスと一緒にアイスクリームを食べてたんだよ。冷凍庫に入ってるからギアッチョも食べなよ」
「……要らねー。オメー、犬相手に手で物食わせんな。雑菌で汚れんぞ」
ギアッチョは部分的に潔癖症だからな。きちんと手を洗ってくるとしよう。ちなみにこの場合、私の手についている唾液からはシリウスの人間としてのDNAと動物としてのDNAのどちらが検出されるんだろう。
アニメ―ガスが登録を必要とすることを考えると、後者なのかも。安全性の問題と同時に犯罪を防止する、とか。
手を洗う前に、アイスクリームのカップをフローリングに置いて庭に下りる。サンダルを履いているから足が汚れる心配はない。
おすわりをしている黒犬さんの前にしゃがみ込んで、膝をついてもさもさもさもさと毛並みをかき混ぜる。ペッシの根気強いブラッシングによって、黒犬さんの毛並みはサラサラだ。手櫛で元通り。びだるさすーん。
暖炉が燃え上がる音にまた振り返ると、そのペッシがぱああと顔を明るくしてこちらに近づいて来た。
「ポルポもシリウスと仲良くなってくれて、俺嬉しいよ。最初は距離を取ってただろ?怖がってるのかなって心配だったんだ」
「特にそんなことはなくて、距離感をつかみかねてただけだから。こうして見てるとなんか愛嬌あって笑えるし」
「確かにたまに間の抜けた顔してるよね!」
ペッシを見て振られていたシリウスの尻尾が猛烈に元気を失った。間抜け呼ばわりに笑いで震えた。私も笑えるとか失礼なことをいっちゃったけど、ペッシもたいがい失礼である。相手が人間だと知らないんだから当然なんだけど、完全なる犬扱いに時々耐え難い笑いの衝動がね。こみあげてくるんだよ。声にならない叫びとなって。
ペッシたんだけでなく、他の人たちも結構、シリーのことをからかって遊んでいることが多い。
おやつの時間に、犬にジャーキーを食べさせたい!と言い出したメローネはいつまで経っても伏せを解除しないまま鼻先にジャーキーをちらつかせてドS根性を発揮していたし、ギアッチョが黒犬さんに向ける視線は冷たい。特に私が黒犬さんを家に上げて一緒にテレビを見たりしていると特に。もしかして犬と遊んでいる私に苛々しているのか?間抜けに遊んでんじゃねえくらい言いそう。直接言ってくれた方が助かります。
ホルマジオは苦笑しつつも積極的に黒犬さんを散歩に誘ってくれる。それは良いんだけど、根っから運動が好きなせいで毎回黒犬さんがへとへとになって帰って来るのでめちゃくちゃ笑ってしまう。
ついでにシャンプーしてやるよと嫌がられていることすら面白がって犬の毛を泡まみれにするのだから、シリウス・ブラックには同情する。いい年した男なのに、男の子に風呂に入れられて身体をあらわれる屈辱ったらないだろうなあ。
イルーゾォは犬が嫌いなのか、私が黒犬さんの前で教科書をぱらぱらめくっていると、そいつ遠ざけろよ、としっしと手で追い払うそぶりをする。黒犬さんはムカッとした雰囲気を出してから、お前に指図される謂れはねえこのスリザリンが、みたいな空気で私の足元に居座るんだけど、そのたびにイルーゾォの表情が呆れたものにレベルアップしていくからこっちが冷や冷やする。イルーゾォってこの中で一番スリザリン"らしい"気がするから、グリフィンドール出身の黒犬さんとは特に合わないのかもしれない。
ソルベとジェラートは黒犬さんのことをそれなりに可愛がっているみたいだった。近くに寄ってきたら頭を撫でてやるし、ホグワーツの面白おかしい話もしてあげている。通じているか通じていないかわからないのに問題なく話を進めることにシリウス・ブラックは当初疑念を抱いていたようだけど、ソルベとジェラートが素でそういう人物なのだと知ってからはぴくぴくと犬耳を動かして情報を収集することにしているみたいだ。なんだかんだで一番健全なお付き合い。
プロシュートとリゾットは、犬にあまり近づかない。私が犬に近づくこともあまり気に入らないようで、プロシュートは遊んでばっかりいるんじゃねえぞと教師の権力をかさに着て私を追い立てる。
リゾットはだいたいこちらを静観しているけれど、シリウスが私の太ももに顎を載せて食べ物をねだったり、子供と遊んで"あげている"(この表現は私にとって非常に心外なんだけど)ふうにじゃれていると、面白くなさそうにしている。
しかし、もしかしてこの人も犬と戯れたいのか……?とドキドキしながら「リゾットもやる?」とジャーキーを手渡してみると速攻で庭に向かって放り投げてシリウスを遠ざけていたので、特に犬と戯れている私に嫉妬しているわけではないらしかった。
犬の愛を競って私と張り合うリゾット、ちょっと見てみたい。全力で譲るわ。
「あんまりその犬に構うなよ、ポルポ」
そう言ってきたのはイルーゾォだった。
食卓の場にシリウスは入れないことにしている。賢い黒犬さんは当然人間の言葉を解し、夏のまだ暖かい夜ということもあって、開けた窓の側でくるんと丸まって耳を伏せている。
「なんで?予防接種してあるよ?」
「そうじゃねえよ。……ペッシの犬なんだからいずれは別れるだろ?そん時にお前が駄々捏ねたら面倒だから言ってんだよ」
私、そんなことするように見えるかな?ペッシの犬だってことは解っているし、そもそもこの黒犬さんが人間だってことも解ってるからな、私な。
「俺、ポルポとシリウスを無理やり別れさせたりなんかしないよ」
「……」
「あー……」
謎の気まずい雰囲気。なんなんだ、君たちは。そんなに私が犬と遊んでいるのが気に入らないのか?いいじゃん、君たちから見たらただの犬じゃん。ちゃんと宿題はやっているし、自主学習で媚薬の研究とかもしているよ!?
「オメーまだあの研究続けてたのか!!」
「俺が監修してるからだいぶ良くなってきたぜ!」
「リゾットに仕込むのも時間の問題だよ」
「……」
「たまにテメーとポルポが手ェ組むと碌なことにならねえな」
プロシュートが呆れたようにため息をつく。もちろん私だって本気でリゾットに媚薬を盛ったりはしないんだけど、そういう方面ではなかなか信用してもらえないんだよね。前科はないのにこの扱い。遺憾だ。
スパゲッティをくるくるとフォークに巻き付ける。トマトソースが口につかないようにあーんと食べると、ソルベが、良い食いっぷり、と褒めてくれた。褒めているのだと思いたい。
「シリウスに構いすぎかな?」
「まあ……なんつーの?」
「構いすぎ、っつうかさあ」
訊ねると、ホルマジオもイルーゾォもスッキリしない言葉で答えた。なんだなんだ、言ってもらわないとわからないよ。
「つまりさ、イルーゾォも俺たちも、ポルポが俺たちに構ってくれないから寂しいのさ」
「おいメローネお前適当なこと言うんじゃねえ!俺は寂しくなんかねえよ!」
「ツンデレ!それってツンデレだろイルーゾォ?」
「否定すればするほどアヤシイよなあ?」
そうだね。
トマトソースにリコッタチーズを絡めつつ、ぎゃあぎゃあと騒ぎ出した元同い年現一年先輩を見る。炭酸水がグラスの中で波立つくらい勢いよくツッコミを入れているので、私はグラスを彼から遠ざけた。イルーゾォは今日も元気だ。
テーブルに着く九人の内お酒の飲める年齢である男二人も、私たちに合わせてお水を飲んでいる。ペッシは元から下戸だからお酒を飲まないのだけど、お酒に強いプロシュートも、強いのか弱いのか底がわからないリゾットも、透明な炭酸水をグラスに注いでいる。
中身が何であってもプロシュートが飲んでいるというだけで美酒に見えるし、リゾットが口にするだけで甘露に見えるんだけどね。私にとってはイケメンが口にした飲み物なんて全部輝いて見えるわ。
「リゾットちゃんも私がシリウスにばっかり構ってると寂しいかな?」
んなわけないよなあと思っても訊ねてみたくなるのが人の性。いや、私の性。
リゾットは、そうだな、とリップサービスたっぷりに頷いてくれた。
「お前が犬にばかり構っていると寂しいかもしれないな」
「うわっかわいい。結婚しよ」
「お前らもう婚約してんだろ!!」
「びっくりした」
いきなりイルーゾォがこちらを振り返ったので驚いた。ツッコミという自分の能力を発揮しすぎ。
リゾットはもう今の会話なんてなかったような態度で平然とサラダを取り分けている。真新しいお皿に盛られたバランスの良い彩はそれだけで目を引く。
相変わらず器用だしセンスがあるなと見つめていたら目が合って、食べたいのか、と皿を差し出された。いやいやいや、そうじゃないんだ。君に見とれていただけだよ。所作が美しいと際立って絵になる。私も気をつけたいものだ。余裕をもって優雅にね。これでも一応気を遣ってはいるのだが、人と比べるとなかなか良く見えない。
「俺はオメーがナニとどうしようが構わねえがよお、その犬に舐められた手で俺に近づいてくんじゃねえぞ」
「うっ、そりゃ、もちろんやらないけど……そう言われると私がつらい……いつでもギアッチョに近づきたい……」
「だろうな」
仕方ないか。ギアッチョと触れ合う為だ。リゾットちゃんも、嘘でも「さみしい」と言ってくれたことだし、シリウスワンワンとの交流はしばらく控えめにしよう。
黒犬さんを振り返ると、頭をもたげた彼がこちらを見ていたので、へらりと笑いかけた。そういうことだから、しばらくアイスクリームはナシね。
私と遊ぶことよりもなにより、アイスクリームが食べられないことにショックを受けたらしい黒犬さんは、がっくり、と顔を伏せてしまった。それはそれで、失礼だ。