イエス番犬、ノーシリウス


ルーピン先生が辞職するそうだ。
私が悶々と悩んで悩んでもうどうにでもなあれと事態を丸投げしてから一日が経ち、朝食の席でうっかり属性をわざと発現させてとんでもない爆弾を落としたスネイプ先生はそれから数日後の今になっても苛々と指で机をたたいている。願った通りルーピン先生が職を追われたというのに楽しそうじゃない。
「貴様に話す道理はない。さっさと帰宅の準備をしたまえ」
「いやあ、今年も挨拶はしておかないとなあと思って」
よほどハリー君を落第に出来なかったことを引きずっているんだろうか。それともシリウス・ブラックが無事に逃げおおせてしまったことか。
シリウス・ブラックは逃げおおせた。無事に、と私が言ってしまっていいのかは微妙な判断が求められるけれど、ハリー君はそう表現することを望むだろう。私はね、微妙な気分なんだよね。
彼が逃げた経緯は簡単だ。プロシュートは緘口を敷き曖昧にしか答えてはくれなかったが、ハリー君がところどころ大事な場所をすっ飛ばしながらこっそり学期末に教えてくれた。
狼へと変わったルーピン先生を追いかけたシリウス・ブラックは、リーマス・オオカミ・ルーピンを禁じられた森の奥まで追い立てた。そうすることでホグワーツやハリー君たちを、そしてルーピン先生の心を守ろうとしたのだ。
しかしそのままで終わらないのがハリー君がハリー君たるゆえん。危険から遠ざけようとした少年は自らシリウスの元へ来てしまい、あわや大惨事となりかけたところでシリウスがハリー君を負ぶってダッシュ。湖畔までやってきて一安心かと思ったら今度は大量のディメンターに襲われ、杖を落としたシリウスは絶体絶命。するとここでハリー君が修業の成果を発揮し、シリウスの手を握りしめ、シリウスからも握り返されながら幸福を胸にエクスペクトパトローナムってディメンターを撃退。力尽きたハリー君は目覚めたら医務室にいたらしいが、その手には優しい甘噛みの痕が残っていたという。ハーマイオニーちゃんによると、ハリー君はパトローナムの光とディメンターの集団に気づいたプロシュート、リゾット、スネイプ先生に救出されたとのこと。ほんのりとスネハリ。いやごめん余談だったね。ハリー君は気配を感じたシリウスを逃げるように促して、力尽きそのまま気絶したそうだ。
ハリー君は甘噛みの話をしてから、ハッとあることに気づいた。
そう、彼はシリウスがアニメ―ガスであるという説明を極端に省き、私からその事実をひた隠しにしたいようだったので私も知らないふりを通したが、普通の人間を対象にした解説の流れではこうは言わない。
「シリウスは僕の手に噛み痕を残してくれたんだ……」
それどんな世界なんだよ。薔薇色じゃねえか。
言葉を失った私の目の前でハリー君がハーマイオニーちゃんに思い切りどつかれ、ロン君が苦しすぎる言い訳をした。
「"爪痕"の言い間違いだろ!手をさ、湖畔で、ほら、繋いでたんだろ!?その時に爪がな!」
「そ、そうなんだよ!ごめん英語を間違えちゃった!」
「ハリーったら!ごめんなさいポルポ、今のは"爪痕"よ!」
「う、うん」
"爪痕"だそうだ。どちらにしても何か、13歳から14歳の青少年とアラフォーの脱獄囚という組み合わせからして名状しがたい興奮のようなものを感じるね。
そのシリウスは、何食わぬ顔をして、ペッシの庇護下に戻ってきていた。多少傷だらけで多少申し訳なさそうで、私を見ると罪悪感からか尾っぽが丸まるけど、まあ、無事である。
その、まさしく多大な"爪痕"をホグワーツに残した脱獄囚は、ついでにこの教師の心も引っ掻いて行った。
ぎりぎりと歯ぎしりをするスネイプ先生からは口惜しさのオーラが波紋のように放たれている。波紋の呼吸をするんだ。一秒間に十回の呼吸をするんだ。
「出来るわけがなかろうが!!」
ですよね。
スネイプ先生は眉根がくっついてしまうのではないかというほど眉間にしわを寄せて低く私を威嚇した。
「貴様と話をする気分ではない。さっさと戻れ。そして来学期は魔法薬学でもう少し良い成績を取れ。なぜあのネエロと共にいて『優』以外の成績が取れるのか、"我輩"は非常に疑問だ」
人間には出来ることと出来ないことがあるんですよ。リゾットの教え方はすごく上手だけど、彼も私にかかりきりで居られるわけじゃないからね。何かかかりきりで居たそうにしている気はするがそうも行かないじゃん。とりあえず家の地下に調合用の小部屋は出来たし、みんなと夏季休暇に色々実験をしたりはしているんだけどね。私の趣味ってどっちかっていうと愛の妙薬とか媚薬とか身体が痺れて動かなくなるとか猫耳が生えるとかソッチ系の面白い魔法薬だから。
「……ネエロを犯罪者にだけはするなよ。アレは優秀な助手だ」
「盛るとしたらスネイプ先生に盛りますから大丈夫です」
「尚更悪いわ!!」
冗談だよ。嘘を嘘と見抜けないとこの業界はやっていけないよスネイプ先生。
実際のところ、スネイプ先生がなぜこんなに苛々しているのかというと別にそれは月の障りの直前だとかそういうことではなく、やっぱりシリウス・ブラックが手の届かないところへ去ってしまったからなのだろう。この表現、すごく耽美だけどそういうイミじゃない。
スネイプ先生は自分の手で彼を監獄にぶち込み、死刑を執行したかった。それが復讐だったのだ。蜜より甘い復讐は成し遂げられず、餓えた復讐心は標的を失ってやたらめったらに暴れ回っている。
こりゃあ絶対に合わないなあと、本を読んだだけではわからないガチの犬猿さを読み取って、私は改めて思った。スネイプ先生とシリウス、合わない。
かくなる上は、絶対に私の家にシリウス・ワンワン・ブラックがいると知られないようにしなくてはならない。
ホグワーツの六月を大きく揺らした事件に巻き込まれたのはプロシュートと、ハリー君たち主人公トリオ、それから今は学校を去ったルーピン先生だけだ。スネイプ先生はシリウスが犬だと知らない、はずだし、知っている彼らも誰にも話すつもりはない。対スネイプ先生に限ってはハリー君たちもうっかり属性を発動しないだろうし、私がぼろを出しさえしなければ問題ないのだけど、またそれがね。シリウスワンワン相手にもぼろを出さないようにしないといけないし、あの、"あの"プロシュート相手にも隠し事をしなくてはいけない。どうしようプロシュートがリゾットに話していたら。死ぬ。私死ぬわ。ていうかリゾットが知ってたら色んな意味で私とシリウス死ぬわ。
私は知らないことになっているから蚊帳の外扱いで良いとして、シリウスが針の筵すぎるよね。可哀想。まあ人の家を間借りする家賃だとでも思ってくれ。
スネイプ先生は青白い顔を苦く歪めた。
「もう行きたまえ。……ああそれから……、ミス。君に昨年やった薬はまだ飲まないのかね?君の貪欲な胃袋が空腹に耐える『我慢』を知っていたことには感心するが、いつまでも持つ薬ではない。いざという時に口にして、毒薬へ変化していたそれに中り苦しむなどという間抜けな姿を衆目にさらしスリザリンの名を貶めないよう、精々気をつけたまえ」
「心配してくれてありがとうございます。夏休み中に飲むようにしますね」
「私が、……我輩が心配しているのはスリザリン寮の名誉だけだ」
またこの人うっかり自分のこと"私"って言ったよ。ガードが甘いなあ、そんなんじゃ私みたいな薔薇大好きな人に付け込まれちゃうぞ。気をつけてね、ホグワーツで流行るとしたらスネイプ総受けでリゾット×スネイプが最大手だろうから。時点はフレジョフレ。なのは完売でーす!

魔法薬学教務室から退室して寮に戻り、トランクを引きずって列車に向かう。パンジーは相変わらず身軽に荷物をまとめてトランクを押している。細い肢体を包むワンピースが初夏の風に揺れて可愛らしい。まだ私たちは、少女の枠から抜け出せない年齢だ。ぎりぎりで『女の子』。『可愛い』と『綺麗』の狭間をゆらゆらと彷徨って、パンジーはきっと素敵な女性になるのだろうなあ。
それじゃあ、とコンパートメントを別れて列車に乗り込む。
シリウスワンワンが我が家にやって来るのは教員の夏季休暇がある八月中旬からだ。それまではのんびりのびのび、安心して暮らそう。
ついでにお薬も飲んで手紙を送らなくちゃな。ルシウスさんからも誘いを受けているし、リゾットがダイアゴン横丁に行く時にはぜひついていかせてと土下座する必要もある。ダイアゴン横丁を縦断するリゾット、絶対面白い。グリンゴッツ銀行のトロッコに乘るリゾット、絶対面白い。安全バーのないジェットコースターめちゃくちゃ怖かったもん。蚤の心臓が破裂するかと思ったもん。リゾットが乘っているところが見たい。

私はまだ知らないことだったが、私の怖い予想通りにリゾットはプロシュートから"シリー"の正体を聞かされていた。否、リゾットだけでなく、ペッシと私以外の全員が聞かされていた。万が一にも"シリー"が私にナニかをしないよう、全員で様子を見ていろということだ。
可哀想なシリウス・ブラックはのんきな私の家の庭で番犬として日向ぼっこをしながら、ばっちりがっちりぎっちりと監視されているのであった。
もしかしてそうかなあと私だけは思っていたけれど、結局シリウス・ブラックが人間の姿を取り戻した一年と半年後に至っても、彼らは"知っている"ということを私たちに悟らせることはなかったのである。さすが、プロ。

そしてまた、夏が来る。