イエスジャスティス、ノーイリーガル
プロシュートが闇の魔術に対する防衛術の教務室に戻ってみれば、机の上に地図が置いてあった。
校内の地図には教師やゴーストの名前が無数に浮かび上がり自由に動き回っていた。こんな物品は見たことがないし、城から遠ざかっていくインクの染みのような点の中に、リーマス・ルーピンとセブルス・スネイプの名がある。少し離れた『叫びの屋敷』と書かれた領域の近くには、動き回る『シリウス・ブラック』の文字と『ピーター・ペティグリュー』の名前があった。
ピーター・ペティグリューとは死んだ人間の名前ではなかったか。
プロシュートの記憶から過去の事件が掘り出される。シリウス・ブラックの脱獄と同時に再び表舞台に引き出された悲惨な事件の、魔法族の被害者がこのピーターという男だったはずだ。その死んだはずの男がなぜ、脱獄囚シリウス・ブラックから、まるで逃げるようにせわしなく動いているのだろう。もしもこの地図が"現在の"様子を表すものであるならば、これほど奇妙なことはない。
ただの悪戯道具であるにせよ、本物の魔法道具であるにせよ、脱獄囚の名が表された物を放置するわけにはいかない。校長に知らせる必要があった。
開けたシャツのボタンを閉め直した彼は退室しようとして、ふとあることに気がついた。机の上に、中身の入ったゴブレットが置いてある。
この容器には見覚えがあった。定期的にリーマス・ルーピンが飲む必要のある魔法薬だ。手で煽いで嗅いでみると、独特の嫌な臭いが鼻につく。確かに脱狼薬だった。
「飲んでねえのか……?」
今宵は満月。外出しているルーピンがいつ戻るかは解らない。もしも間に合わなければ、このホグワーツで大変な出来事が起こってしまうだろう。
プロシュートは舌を打って杖を振った。桜の木と不死鳥の灰が使われた気高い杖はゴブレットの中身を零さないための固定魔法を正しく発動し、プロシュートはもう一度杖を振ってそれを異なる空間へ"消失"させた。磨かれた革靴が暖炉の炎に照らされ、ローブを翻した早足の男がドアの向こうに消えるのを見送った。
地図に記された通りの道を通り、金髪の美丈夫は暴れ柳の根元へ辿り着いた。
セブルス・スネイプはすでにおらず、真新しい足跡だけが残されていた。
暴れ柳は緩やかに動き始めている。その攻撃的な枝葉を鍛えられた身のこなしで潜り抜け、プロシュートはさらに歩を進めた。
古びた屋敷に足を踏み入れた彼は上階の喧騒に気づく。階段を上る足取りは躊躇など感じさせない。杖に手を添えて扉を開けたが、古い蝶番が軋まなかったのは彼自身の抜けない癖のせいだった。音を立てることは暗殺に不向きだ。
しかしこの場合は音が立とうが立つまいが関係はなかっただろう。確かに全員の視線は開いた扉に向けられ、現れた人物が夕暮れの似合わない輝かしい金髪の教科助手だと知ると、全員が彼に杖先を向けた。眉を跳ね上げたプロシュートの秀麗な顔立ちに似合わない柄の悪い声が、いやな緊張に包まれた狭い部屋の沈黙を破った。
「なんだテメーら、揃いも揃って遊んでんじゃねぇよ」
「プロシュート、先生……」
「あん?」
名前を呟いたハーマイオニーを見ると、彼女は戸惑いを浮かべた。
「先生も、グルだったんですか……?」
「はぁあ?何の話だ?そこにいるシリウス・ブラックと関係してんのか?」
プロシュートは部屋に入る前から気配の数を数え人数を把握していた。扉を開けた瞬間に動いた眼は正確に一人一人の様相を見て取ったし、もちろん、ぼろきれのような服の男が誰であるのかも理解できていた。
即座に攻撃を加えなかったのは、プロシュートの冷静さのためである。事態がどう動くかわからない内に事を急いては大事を仕損じる可能性が高い。それを知っているプロシュートだからこそ、手を添えるだけで杖は抜かない。ホルダーに収められたままの魔法具は、まったく種類の違う、本来の目的を果たすべく使われるだけだ。
「ンなことはどうだっていい。おいリーマス、テメー、こいつを忘れてんぞ」
警戒されていることも構わず、プロシュートは緩慢な動作で空中に円を描いた。そこから落ちるようにゴブレットが現れ、ハッとした全員の視線がルーピンに集中する。これを調合した男は床に伸びて気絶しているが、今は誰も気にしなかった。
「プロシュート……君は私にこれを届けに……?」
「それ以外に何があるってんだ?さっさと飲んじまえ、多少時間は前後したが、気休めにはなんだろ」
男らしい動きで腰に手を当てたプロシュートは、今度こそ首元のボタンを緩めた。ルーピンは状況にそぐわない可愛らしいスピードでそれを少しずつ飲み下すと、今度は自分の杖でゴブレットを"消失"させた。その間、ロン・ウィーズリーの手に掴まれたネズミはキィキィとわめき続けていた。
ゴブレットを消し去った男は、その杖の矛先をプロシュートに突きつけた。
「助かったよ、プロシュート。ありがとう、君は素晴らしい助手だ。だが……、―――シリウス、少し待ってくれ。―――……だが君は仕事熱心だからね。今ここでシリウスを"失神"させられては困るんだ。君にはわからないことだが、私たちはこのネズミと因縁がある」
待ち切れないシリウス・ブラックの灰色の瞳はぎらぎらと光り、今にもプロシュートを"失神"させてしまいそうな様子だ。その体躯が"本来"よりも健康的な肌つやをしていることは、誰も知らない。
シリウス・ブラックを押しとどめたルーピンは、穏やかな顔に苦渋を滲ませてスペルを口にしようとした。それより早く、プロシュートが防御の呪文を唱える。弾かれた赤い閃光は壁の一部を破壊し木屑を降らせた。
「興味深い話じゃねーか。そいつはあの地図に書かれてた『ピーター・ペティグリュー』に関することか?」
「ルーピン先生、プロシュート先生は信頼のできる先生です、スネイプ先生よりもずっと、……真実の探求に助力をしてくれると思います」
口を添えたのはハーマイオニーだった。
ルーピンはシリウスをちらりと見ると、噛みつくような視線を食らって苦笑した。
「そうだね。それなら、見て貰う方が早いだろう。シリウス、長く待たせたな」
「まったくだ、リーマス。……わたしがやろう」
「いや、二人でだ。……ロン、そのネズミをよく捕まえていてくれ。君に害は一切ないよ」
「は……、はい」
プロシュートの目の前で青い閃光が迸り、二対の光弾をまともに受けたネズミは床の上でのたうち回った。固唾を飲んで見守る子供たちの視線の中、強制的に容を変えられた男が小動物じみた動きで顔を上げる。その表情は恐怖に歪み、逃げ場を探す卑怯者の貌をしていた。
要するに、とプロシュートはこめかみを揉む。
シリウス・ブラックは無実で、すべてはこのピーター・ペティグリューの所業だった。そういう話をしているのだろう。にわかには信じがたいが、プロシュートはシリウス・ブラックから"本気"を読み取った。彼は本気でそう信じている。ありもしないことをここまで信じ込める人間は、催眠を受けているか、"服従"させられているか、気が狂っているかのどれかだ。しかしシリウス・ブラックはどれにも当てはまらない。それならば彼の言葉と、このネズミだった男の不審な挙動はすべて正しいのだ。
シリウス・ブラックは無実だった。
「(犬、か)」
シリウス・ブラックは犬の姿で脱獄し、今までホグワーツに潜んでいたという。その話を聞いた時、プロシュートは嫌な予感に襲われた。かつて弟分であり、今は血を分けた兄弟として生きる青年は、動物を見捨てられない優しさを持っている。自分の整理もつけられないのにあちらこちらから面倒を買ってくる性格は、直すべきだと思うと同時に、プロシュートに苦笑を浮かべさせた。そういうところをプロシュートは気に入っているのだ。愚直なまでに正直なペッシという弟を。
もしもそのペッシが、シリウス・ブラック扮する犬を目撃していたら、これはプロシュートにとって非常に頭の痛いことになっただろう。ペッシは痩せ細った犬を捨て置ける性分ではない。もしも彼がこの男にエサの支援をしてやったりしていたら、世間的には凶悪な犯罪者だと信じ込まれている男を無自覚の内に匿っていた彼は深い自責の念に駆られるに違いない。
プロシュートの嫌な予感は的中した。
脱獄から潜伏までの経緯を語るシリウス・ブラックは、ホグワーツ魔法魔術学校の医療事務を担当する青年に命を救われたとのたまったのだ。
「わたしは弱っていた。ホグワーツに辿り着いて、野生の獣を仕留めて食べる体力もないほどに弱っていた。あのままならわたしは死んでいただろう。しかし、ペッシ……という青年がわたしを救った。彼のおかげでわたしは健康を取り戻し、今こうして立っていることが出来る」
ハリーも、ロンも、ハーマイオニーも、三人ともが同時に互いを振り返って顔を見合わせた。プロシュートはその様子を訝ったが、彼の視線を察知したハーマイオニーが全員の総意を表すように話を逸らす。
少年たちは知っていたのだ。ポルポというスリザリンの友人が、ペッシ医療事務の拾った黒い犬に何度か会いに行っていたことを。そしてそれを知れば、ポルポを家族として尊重するこの教科助手の眉根が寄せられるだろうということを。
しかし少年たちの心遣いは、やはりシリウス・ブラックの発言で瓦解した。
「ポルポという少女が色々なことを教えてくれた。彼女はもちろんわたしがシリウス・ブラックだとは知らないが、とてもユーモラスな女の子だ。わたしの毛並みが黒いことをペッシに聞いて、名前の候補に『ブラック』から連想した"流行りの脱獄囚"であるわたしの名を提言したらしい。この偶然にはとても驚いたよ。実際に彼女と会ってみて、また驚いた。朱い瞳は不吉な印象があるが、あれは誰とも違う穏やかなものだった。彼女の話す学園生活はとても平凡で、だが友達のことを話す時は活き活きとしていたな。じっと黙って私の隣で本を読んでいたこともあるが、居心地のいい沈黙だった。"あんな"闇の魔法使いばかりがいるネエロ家の当主と婚約を結んでいることを、スリザリンの少女であるにも関わらず可哀想だと感じてしまったくらいには、わたしは彼女に好意を抱いたよ。……まあ、彼女はそのネエロのことをとても好きなようだったが」
プロシュートは再びこめかみを押さえた。
「(あのバカ……)」
何も知らずに、あの能天気な顔をさらして動物に話しかけ続けたのだろう。あの女にはそういうところがある。ペッシと似ていると、プロシュートは時々思っていた。
「……テメーら、あいつには言うんじゃねえぞ」
突然のアクシデントに弱いあの女のことだ、とプロシュートは配慮する。
もしも自分がてらいもなく話しかけていた犬が人間で、更にそれが脱獄囚のシリウス・ブラックだったと伝えたらどんな表情をするか。想像するまでもなく、うわあ、とうめく少女の引きつった表情が頭に浮かんだ。それは少年たちもそうだったのだろう。彼らは一様に頷いた。
そしてその決意を掻き回した人物もまた、シリウス・ブラックだった。
シリウス・ブラックはピーター・ペティグリューを拘束し、地下の通路を歩きながらハリー・ポッターにこう言った。
「恥ずべきことだが、わたしには頼るべき者がいない。公に出歩けない以上、わたしはペッシとポルポに頼るしかない。……ペッシはわたしを―――……犬のわたしをポルポの家に預けると言った。今はそれに甘えようと思っている」
「(は?)」
プロシュートが動揺のあまりに足を止めたので、後ろを歩いていたルーピンがおっと、とバランスを崩す。潜められたシリウスとハリーの話が聞こえていなかったルーピンは、なぜプロシュートが三度こめかみに指をあてたのかが解らない。
「(ペッシ……)」
いや、この場合は誰をも責められないだろう。すべてが仕様のないままに進み、結果だけがここに残ったのだ。
満月を見たルーピンが狼に変貌する苦しみに悶える隙に変化し逃げ出したピーター・ペティグリューは、プロシュートが杖から放った赤い光線を小ざかしくも避け切った。投げたナイフは尾の先を縫い止めたが、ギャアと鳴いたネズミは血の滴る尾を文字通り切り捨てて逃げ去ってしまう。
舌を打ってそれを見送ったプロシュートが杖をホルダーに収めると、ちょうど狼に変じ切ったルーピンが禁じられた森へ走り去り、犬に転じたシリウスがそれを追いかける。
脱狼薬は今一歩のところで効き切らなかった。
半分ほど理性の残った狼人間は、誰も傷つけない為に森へ走ったが、森の中では本能のまま木々にぶつかり身を傷つけることだろう。人間であるプロシュートにこれ以上手出しできることはない。あとは教師としての役割を果たすだけだ。
気絶し、空中から見えない糸につりさげられたマリオネットのような格好で運ばれてきたスネイプはそのまま杖で城まで誘導することにして、プロシュートは脚を負傷したロン・ウィーズリーを肩に担ぎ上げた。ハーマイオニーの背中に手をやりハリーを振り返ったところで、プロシュートは今度こそ短い苛立ちの言葉を隠さなかった。何をしてやがんだと、森へ駆けていくハリーの背中を制止する。ハーマイオニーもロンもハリーの名を呼んだが、初めて現れた名付け親の、後見人の、家族の存在を失いたくないと衝動に突き動かされた少年は振り返らなかった。獣の姿を捜し求め、森の闇へ消えていった。
「あいつ……バカか!……スネイプ、いつまで寝てやがるんだ起きろ!」
自分一人の手には余る。プロシュートは力量をわきまえていた。
遠距離を回線で繋ぎ合わせた魔法具でリゾットへ呼び出しを掛けながらスネイプの頬を一度張って、地面に落ちた男がそれでも目覚めないと知ると杖を取った。少し長い呪文を唱える。
ようやくスネイプは意識を回復し、回線も繋がる。
「何が起きた?」
スネイプ、リゾットの両名が違う場所で同一の質問を投げかけた。プロシュートが手早く答え、二人の薬学教師は違う場所で同時に立ち上がった。