イエス口づけ、ノーディメンター


心配していたディメンターイベントは眠っている間にすべて終わっていた。な、何を言っているかわからねーと思うが私も何が起こったのかわからなかった。すごく嫌な悪夢を見たとうなされていたらぺちぺちと頬を叩いて眠りから引きずり起こされ、目覚めてみるとスネイプ先生のしかめっ面がそこにあった。
「……ス……スネイプ先生?」
何してんのあんたこんなとこで。
辺りを見まわすと、おー女王さん起きた?なんて余裕な顔をしてチョコレートをかじっていたジェラートがにかっと笑った。コンパートメントは冷え切って、あんなに晴れ渡っていた空は夜の深い闇の帳を下ろしている。窓には薄氷が張り、陰鬱な気配が列車の中を這いずるようだった。どこをどう見ても異様な状況だ。
「(ディメンターの襲撃、か?)」
それにしては、甘い香りを漂わせるココアを飲むギアッチョも、チョコレートを食べるジェラートも、スネイプ先生に今後の指示を出されるソルベも、平然としている。
背中合わせに座る隣のコンパートメントをガラス窓越しに覗いてみる。そこにはホルマジオ、イルーゾォ、メローネが座っている。彼らに異常はないかと心配したことが馬鹿らしくなるくらいきょとんとした顔を私に向けたメローネは、椅子に膝立ちになって、立てつけの悪いガラス窓を開けた。声が通るようになる。大丈夫かいと問いかけられ口を閉ざす。それはこっちの台詞なんですけど。
「いいか。賢明なスリザリン生にそのような行いをする者はいないと信じているが、くれぐれも余計な好奇をそそり他のコンパートメントを覗きに行くなどという無駄な動きはしないように。今諸君らに求められていることは、身体を温め、チョコレートをすべて食べきることだけだ」
スネイプ先生は身を乗り出して私とメローネが言葉を交わすガラス窓をぴしゃりと閉じた。びっくりして身体をすくませると、いささかばつの悪そうな微妙な空気が流れる。しかしメローネが再び窓を開けようとすると、今度は杖を振って施錠をした。そんなにダメか。自分のことに専念しろという気遣いは、もう少しわかりやすくやるべきだと思うよツンネイプ先生。
ツンネイプ先生が立ち去ると、コンパートメントはいつも通り、午後のコーヒーブレイクと何ら変わりのない自然な雰囲気に包まれる。外の暗さも憂鬱な気配もなんのその。
「悪い夢でも見たかい?ポルポ」
「そうね。内容は憶えてないけど、悪い夢だった気がする」
気になるんだけど、君たち今この列車がディメンターに襲われたってそもそも知ってるよね?このコンパートメントだけフォースフィールドが展開されていて悪のモノを寄せ付けなかったとかそういうことじゃないよね?立ち直りがめちゃくちゃ早いの?それも暗殺者のスキルか?
「俺ら、あぁいうの慣れてっから」
ああいうのってどういうのだ。ディメンターの特徴については少し前に夢の中で読んだつもりだったけど、彼らは近くにいる人に『二度と幸福が訪れないような気分』をもたらす。その、二度と幸福が訪れないような気分に慣れるというのはどういう修羅場を乗り越えればそうなるんだろう。心の中で無意識にエクスペクトパトローナムでも唱えているのかな。いやでも、それだと慣れているという言葉は使わないはずだ。
悩むより訊いてみるのが早い。思った通りに疑問を投げかけると、ソルベはけろっとした表情で言った。
「暗殺者に同じ絶望は二度効かねえんだぜ、女王さん。絶望と同時に、今は希望があるって知ってっしなー」
君たちはどこの黄金聖闘士だ。
あえて踏み込もうとは思わないけど、彼らの絶望っていったい何なんだろう。一度体験し、今はもう過去のことだと割り切れるどん底って、いったい。
ギアッチョが私を見ていることに気づいた。目を合わせると、チッと舌打ちをして顔を背け、熱いココアをすすり始める。音も立てずにちまちまと飲み進めているので、話しかけるのも躊躇われる。なんなんだこの空気。私に何を期待しているんだ。
もしかして。
その『絶望』って私が関わってるのか。超高校級のおっぱいの話をしているのか。彼らと私に関する『絶望』。それは私の身に置き換えてみれば簡単にわかることだった。私は彼らを失うことが何より怖い。きっと彼らも、私を―――……。
いや、ほじくり返して楽しい話じゃあない。ていうか私が自爆する。死んじゃってゴメンって!マジでゴメンって!!もう、彼らが黙っているんだったら私も沈黙を選ぶぞ。せっかくだからこの赤い沈黙を選ぶぞ。
気を取り直してチョコレートをかじると、中からキャラメルがとろりとあふれた。慌ててもう一口追いかける。糖分は良いね、人の心を癒してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう思わないかいギアッチョ君。
「どおおおおでもいいことで話しかけてくんじゃねえ黙って食ってろ」
ギアッチョは自分のチョコレートを半分に割って私の口に押し付けた。あまりの感動に眩暈を起こした。ヤバい可愛い。この子ちょうかわいい。私のことをめちゃくちゃ心配してくれているじゃないか。
感動を押し殺して無言で食べていると(だって可愛がって抱き付いたら絶対怒られる)、ソルベとジェラートが今度こそ笑いを噴きだした。
「ぶひゃははははは!ギアッチョもっとカワイー顔してやれよ、そしたらポルポが一瞬で元気になるぜ」
「そんな人を殺しそうな顔で可愛いことしてんじゃねーよ!ぷっ、ぐ、ぶっはははは!!」
陰鬱な列車に、五年生二人の盛大な笑い声が響いた。私が言うのも何だけど、もう少し周囲の空気を読んでやれ。

列車がホグワーツに到着すると、生徒たちは我先にと馬車に乗り込んだ。
勝手に空中を駆ける馬車と思われがちだけど、正体を知っていようといまいと、そこには馬がきちんと繋がれている。私には見えるし、きっと彼ら九人にも見えている。もし前世の記憶も『死』の目撃に当てはまるならの話だけど、私たちは超絶に余裕で条件を満たすぞ。私は積み上げられる程度の死体を生み出してきているし、彼らの仕事は言わずもがな。
大広間の席に着くと、周囲のざわめきは安堵の吐息に変わる。ホグワーツは世界で一番安全な学び舎だ。去年も一昨年もその安全性が脅かされていたわけだが、そんなことは今の生徒たちには関係ない。暖かい広間に、変わらず浮かぶ夜空の魔法。ともし火はゆらゆらと心を安らがせるろうそくの光で、気味の悪いゴーストたちですら懐かしい。そんな気持ちなんじゃないかな。
ちなみに我が寮スリザリンのゴーストである血みどろ男爵は『バロン』と呼びかけないと返事をしない時がある面倒なやつだ。"ほとんど首なしニック"と同じニオイがするけど、本人はただ単に聞き取り損ねているだけと主張している。
それにしても、今年の新入生は運がないな。出だしからこんな不吉なことがあるなんてかわいそうだ。ハリーポッター君の三年目の冒険が他の年に比べてまだましな内容であると知っているのは私だけなので、余計に同情してしまう。初っ端からディメンターに幸福を吸われちゃったらもうこの学園生活お先真っ暗だよと悲観してもおかしくない。私ならする。家に帰りたいと思う。
スリザリンのテーブルでお互いの無事を確認した私とパンジー、それからドラコ君はディメンターについてひとしきり感想を交わして組み分けの時を過ごす。知り合いのいない私にとって、新入生の組み分けはあまり興味のある事柄ではない。去年はジニーちゃんがいたけど、今年って別に見どころなくないか。
「おいポルポ、オメーの注目株が組み分けされるぜェ」
「え?」
私誰に注目してたっけ。推しメンはスネイプ先生ですよ。
ホルマジオが指差す新入生を目で追うと、マクゴナガル先生が「レスティン・リュシアン」と名を読み上げた。組み分けの時はファミリーネームの頭文字の順番だから姓が先に来るというわけなのだが、リュシアン・レスティンという名前は聞いたことがあるぞ。初めて耳にしたのは昨年度末のことで、一番最近では夏休みが終わる二週間ほど前、だった気がする。無駄な記憶力がうなる。
「イルーゾォの弟くんじゃん!」
「注目してんだろ?」
めちゃくちゃ気になってたよ。ありがとう。
リュシアン・レスティンの表情は、まったくイルーゾォと似ていなかった。イルーゾォの無表情がまことの無であるなら、彼の無表情は自信にあふれている。少し気を張っているのは、組み分けの結果におそれを抱いているからか。藍色に近い黒髪は短く切りそろえられ、青白い頬はろうそくの明かりに照らされていた。どうしてスリザリンに入る人はみんな顔色が悪いんだろう。寮室も地下にあるし、創設者がそもそも日光を苦手としていたのかな。日に当たると溶けるタイプの引きこもりとは私のことです。超絶インドア派。デスクワークばっかりだったから、身体に染みついちゃってるんだね、もう。
帽子は高らかにスリザリンと叫び、少年の首に巻かれた黒色のネクタイは魔法の力で緑色に変化した。ローブの胸元に蛇の紋章が形作られ、スリザリン寮に新たな生徒が一人増えた。
当然のごとく歓迎されたレスティン少年は他の子の組み分けには目もくれず先輩との挨拶をやり過ごすと、つかつかと新品の革靴の足音を立ててこちらへ向かってきた。なんだなんだ乱闘か?あなたなんて兄じゃないと意思を突きつけるのか?
固唾をのんで行き先を見守っていると、なんと少年は私のすぐ隣にやって来た。薄暗い逆光は少年の幼い顔を強気に見せた。
「あなた方に忠告します。この男と付き合うのは止したほうが得策です。我がレスティン家はこのイルーゾォを長兄とは認めておりません。ただ我が誇り高き家名を名乗るだけの凡夫です。この男と行動を共にしたところでレスティン家との繋がりは持てません。付き合っていたところで何の得にもならないどころか、あなた方の家名を貶めることになります」
「……パードゥン?」
「もうこの男と付き合うのは止めた方がいいですよと申し上げました」
ネタにマジレスありがとう。
どうやらこの少年は真面目に、真剣に、私たちのことを思ってイルーゾォの無能さを教えてくれているらしい。
私たちからしてみるとイルーゾォの無能さというのはかっこわらいかっことじがついてしまうでたらめ極まりないものなんだけど、このやる気のないイルーゾォくんは良くて『可』、平均的に『不可』ばかり取ってギリギリ及第といった成績を保っているから、傍目から見ると意味が解らんほどの落ちこぼれなのだろう。
それをイルーゾォの目の前で言ってのけるのがスゴイ。周囲のスリザリン生が固唾をのんで見守ってくれている気がする。イルーゾォが一筋縄ではいかない人物だということは、二年、いや四年だっけ。それほどを共にした上級生たちにはわかっているのだ。しかしわざと成績を下げるイルーゾォの狙いがわからなすぎて口をつぐんでいる。だからこのリュシアン・レスティンくんの思い切った行動に動揺が隠せない、そんなエアーのリーディングは日本人のたしなみです。
「あんた、そういうことをポルポに言わないほうがいいわよ。パーキンソン家として"ご忠告申し上げる"けれどね」
「パンジー?」
「あー……その、……付き合う友人を考えるべきだという君の意見には僕も賛成だ。だけど、それをポルポに言うのは……やめたほうがよかっただろうね」
「ドラコ君?」
代わりにパンジーとドラコ君が怒ってくれた件について。これにはスリザリン席がどよめいた。マルフォイ家とパーキンソン家がイルーゾォ・レスティンを擁護したとも受け取れる発言だ。
「二人とも、私のことを何だと思ってるの?」
「べつに。レスティン、諦めて席に戻りなさいよ。聞いていて不愉快だわ」
リュシアンくんは食い下がって来た。どうしてですか、彼は落ちこぼれなんです、面汚しなんですよ、と不正を暴くように悪口を並べ立てる。波風立てずに、友人は自分で選べるよと言い聞かせようか迷っていたが、さすがに私もあまり気分がよくない。面倒なことは嫌いだけど、『家族』を悪しざまに言われて黙っていられようもなかった。
口を開こうとしたその時、ニヤニヤと事態を面白がっていた青年二人がリュシアン君の肩に手を置いた。
「よお後輩くん」
ソルベとジェラートだった。
我に返る。ああ、子供相手にむきになりかけた自分が恥ずかしい。でもあそこで黙っていられるなんて、そんなの男じゃあないんじゃないか。私は男じゃあないけれど、もうそこはスルーしよう。
「あんまり俺らの可愛い後輩を苛めてくれるなよな、ミスター、えー……なんつったっけ?まあ誰でもいいけどよ」
知ってるくせに家名ごと無視。大人げねえのはどっちだ。なんだかんだ言って、ソルベとジェラートも不愉快に思ったらしい。普段は成績のことでイルーゾォをからかって煩がられたり、ネグレクトされてる現状を笑い飛ばしたりしているくせに、他の人に侮辱されるのは許せない。そんなソルジェラとイルーゾォの精神的3Pがどうでもよくなってしまうくらいにリュシアン・レスティンは顔を赤くし、ソルベとジェラートの手を叩き落としてスリザリンテーブルの向こうへと走り去った。ショタの赤面すはすはなんて言えない。
「その……ポルポ。イルーゾォ先輩、それにホルマジオ先輩もソルベ先輩もジェラート先輩も……。ミスターレスティンは気が立っているんだ」
「そうでしょうね。レスティン家は―――……先輩の前で言うのも何だけれど、衰退の一途をたどっているから」
「えっそうなの?確かに没落しかけだとは聞いたけど、そんなにひどいの?」
パンジーが少し口ごもった。あのパンジーが口ごもった。珍しすぎて目を奪われる。残念ながらイルーゾォが彼女の言葉を引き継いだことで、すぐに表情を戻してしまったけど、貴重な一瞬だった。
「跡取りの俺が期待に添えてねえからな」
「しょーがねェんだよなァ」
「ちなみに本気を出す気は……」
「ねえけど」
ですよねー。
相手が眠れる大蛇だと知らずにつっかかっているリュシアン・レスティン少年に、心の中で十字を切った。がんばれ、君の未来は暗いぞ。

新学期が始まって初めての魔法薬学。今年の授業は波乱がいっぱいらしいけど、ネエロ先生も忙しくなりそうだなと視線だけでエールを送る。出席を取る時にばちりと目が合って、反射的に微笑んだけど何の反応もなくてちょっと悲しかった。おねえさん勇み過ぎたね、気をつける。
ネビル君と一緒に鍋の前に立つ。材料を切り刻むのはネビル君の役目で、私は調合のタイミングを計る係りだ。一週間ごとに役割を交代して、どちらも練習できるようにとお互いに取り決めてある。
角ナメクジをつぶす嫌な音が教室の石壁にこだまする中、ネビル君は伸びた背を少しかがめて小さな声で私に耳打ちした。
「ね、ネエロ先生と婚約したって本当?」
そうだね、本当だよ。
頷くと、なぜか前の席のロン・ウィーズリーが振り返った。耳をそばだてていたらしい。ハリー・ポッターもほとんど同時にこちらを振り返ったので、ネビル君がビクッと肩を揺らした。私もビビッて後ずさる。なんだよその表情は。
「お前、あのネエロと婚約したのかよ!?パパが言ってた通りだ!!」
何だその剣幕。押し殺していても、静かな教室には声が響く。なんで君はそんなに心外な顔をしているのかな。私のことが大好きすぎたか?ん?
「そんなわけないだろ!お前のことなんて角ナメクジくらいにしか思ってない!」
どうして私の周りにはツンデレが多いんだろう。このことは人生でもう百万回は考えたけど、今ここで百万一回を数えたよ。
「だけどポルポ、あの……、"あの"、ネエロだよ?絶対に騙されてるよ」
面白すぎて笑いを堪えるのに大量のエネルギーを消費した。私の頬が引きつったのをどう見たのか、ロン・ウィーズリーはハリー君の言葉にうんうんと頷く。至極もっともだと言わんばかりに彼を支持してみせると、こっそり後ろを振り返って、パンジーの調合の様子を見ているリゾットを親指でガッ、と示した。
「あいつだぞ!冷たくて何考えてるかわかんなくて、スネイプとつるんでる闇の魔法使いの家系の当主だぞ!お前は絶対相手を間違えてる!それならパーシーと結婚したほうがましさ」
さすがに笑った。耐え切れなかった。仕方ないことばっかりあげつらわれているリゾットちゃん凄いウケる。冷たくて何考えてるかわからないっていう印象はまあ頷けるとして(私はとても優しいと思うんだけど、それは深く付き合っているから先入観があるだけかもしれない)、スネイプ先生とつるんでいるというのは魔法薬学教授と助教授という立場上当然だし、闇にほぼ全身持ってかれてるネエロ家の当主だっていうのも生れついちゃったモンはどうにもできない。めっちゃ笑った。絶対リゾットに聞こえてるよ。リゾット聞こえててスルーしてるから。減点も何もしないで無視だから。表情に出さないようにするのに必死で角ナメクジを茹でるタイミングを間違えた。ごめんネビル君。
「いいよ、あの、これくらいなら取り返せるって、いつもはポルポが言ってくれるもんね。今度は僕が言う番だ」
この男っぷりを見よ。三年間で少年がかなり大きくなったよ。おねえさんみたいな気分になってしまった。
「ほう……ウィーズリー。無駄話に花を咲かせる時間があるということはもう薬は完成しているとみて良いのかね?」
「あー……」
ハリー君は嫌そうな声を出して鍋に向き直る。スネイプ先生は容赦なく二人から2点ずつ減点すると、忌々しそうな顔をして仕方なく私からも1点減点した。ネビル君は2点減点されていた。
視線を感じて首をめぐらすと、パンジーに口パクで何かを言われる。え?ナニ?ポルポ可愛いね?
「違うわよバカ」
これだけは声がなくても聞こえた。
パンジーはさっさとドラコ君の刻んだ魔法の草の切り口を褒める作業に戻ってしまったので、私もお玉で鍋をかき混ぜる。お玉って言っていいのかな。削られた綺麗な棒だ。ところどころわざとでこぼこがつくられ、先端にスプーンのようなくぼみがある。それで中身を掬い取って瓶に移す。
さらさらした液体を提出する。スネイプ先生は中に綿棒を突っ込み、液体をしみこませるとてきぱきと取り出した。綿棒の先端は青色だ。液体は赤色だけど、試験薬と反応させて青色になれば成功ということになっている。不本意そうにオーケーを告げられた。誰から減点したかったのかな。もちろんネビル君だろうけど、何かにつけて私にも嫌みを言ってくれるので(我々の業界では以下略です)さりげなく私にも攻撃をしたかったのでは、と邪推してしまうね。たまには素直に褒めてほしいけど、何もしていないのにそれを望むのは野望が過ぎるかしら。何をすればいいんだろうね。ミスポルポよくやったな!と笑顔で私の背中を叩くスネイプ先生を想像して泣いた。そんなスネイプ先生、どこの時空で見られるんだよ。

授業終わりの挨拶がなされると、私たちはいったん寮に戻って教科書を取り替える。普段なら一日分のすべてをトートバッグに収めて持ち運ぶんだけど、次の授業で使う教科書にはちょっと、問題があるもので。
書店から直接ホグワーツに送られた分厚い教科書には数個の小さな目玉が並び、それを覆う表紙は瞼のように見える。小口は不揃いで、本自体もちょっと獣くさい。分厚すぎるので、お気に入りのものとは違うバッグに押し込んだ。教科書を"拘束"するなんてちょっと訳がわかりませんけど、拘束用のベルトをしてなおがちがちと歯が鳴る音がする。そう、怪物的な怪物の本だ。
パンジーは自分からできるだけ遠ざけて持っているし、ドラコ君は予備のベルトを念入りに巻きつけて汗だくになっていた。秋口とはいえまだ激しく動くと暑いよね。必死に押さえつけた教科書をクラッブとゴイルに預けたドラコ君は、胸ポケットから出したハンカチで汗をぬぐう。"必死に押さえつけた教科書"という表現、自分でしておきながらまったく意味が解らない。え?メローネとギアッチョ?ギアッチョは早々に怪物本の表紙を踏みつぶして黙らせ、メローネは読書に問題ないレベルで教科書を焦がしてどちらが主人かを教え込んでいたよ。バイオレンスだね。
日の光が木々に遮られる涼しい林に連れられた私たちは、この教科書を開くコツをようやく教わることが出来た。まあ私は知っていたんだけど、ハーマイオニーちゃんですら知らなかったらしい対処法を私程度が知っているのはおかしいだろう。ギアッチョとメローネのやり方は規格外なので無視。
背表紙をよーしよしよしと撫でてやると、チョコラータによしよしされたセッコのごとく、怪物的な怪物の本はゲチャッゲチャッと嫌な鳴き声を上げた。
ところで私の原作の記憶ではこの教科書を開くシーンなんて一度もなかったように思うんですけど、その辺どうなんでしょうね。これ結構高かったよ。
「とても美しい生き物を見せてやるぞ、みんな」
去年の某ロックハート先生も"世界で一番醜悪な生き物を見せて差し上げます"とキャッチ―なことを言ってピクシー妖精を教室に放ったけど、やっぱり初めての授業では生徒の心を掴むコピーを考えないといけないんだな。大変だ、教師という仕事は。私もボスに言われて例の小部屋へ向かった時は、やって来たギャングに"私でもわかるスタンドの才能開花講座"をたまに開いていた気もするけど、あれとこれとはまた話が別だろう。私のやつは二度目のない説明。彼らはこれから一年間、いや、もしかするとそれ以上にずっと教師でいる必要があるのだから。
何度かまごついたハグリッドはその巨体を揺らして柵の向こうに向かう。しばらく教科書をぺらぺらと捲って読んでいると、落ち葉を踏む大きな足音がした。顔を上げると柵の向こうに、数十頭の魔法生物が待機していた。あまりの迫力に声も出ない。
魔法生物らしい魔法生物を見る機会は、セストラルやピクシー妖精、バジリスクを(バジリスクの件を『見た』と言えるのなら、だけど)除いてはそれほど機会は多くなかった。これほど巨大で、ファンタジックな生き物は久しぶりだ。挿絵でしか見たことがない、ヒッポグリフの姿だった。
鳥のような上半身に、地を力強く蹴る馬の下半身。ケンタウロスに似ているが決定的に違う、獰猛で野性的で、神々しさすら放つ生き物に目を奪われる。これだよこれ、こういうのを待っていたんだよ私は。この点だけでハグリッドを好きになる。うっかりなドジっ子おじさんだけど良いよ。必死に授業をしようという気概は素晴らしいし、こんな生き物を数十頭もずっと世話し続けられる彼の才能は素直に評価してよいものだと思う。
「綺麗だね」
正直に言うと、メローネも同意をしてくれた。あの羽根の質はかなりいいね、と頷く。誰かと誰かの着眼点が違っていることに、私は時々ものすごく関心を覚える。人と自分の見ている部分が違うのだと知らしめられるたび、世界の広さを感じるような気がするのだ。
私の感想は置いておいて、ヒッポグリフに意識を戻す。ハグリッドがもう少しこっちに来るようにと言ったのでふらふら近寄ろうとしたらパンジーにローブを引っ張られてたたらを踏んだ。
「やめておきなさいよ、……怪我するかもしれないでしょ」
パンジーがデレた。
非常に心残りだったけれど足を止めて、波が引くようにヒッポグリフを中心とした輪を作り生き物から離れたスリザリン生の中に混じる。一方、メローネは誰にも止められることなくずけずけと、グリフィンドールの主人公三人組に混じって歩を進めた。ギアッチョは、離れることも近づくこともなく、かったるそうに腰に手を当てている。
「あの無能が教師をやるなんて、ダンブルドアも何を考えているんだろうね」
「そうだな、ドラコ」
「ドラコが言うなら、そうかもしれない」
小さな声で悪口を言っているのが聞こえる。そういうことするから怪我しちゃうんだぜドラコ君。
どうしようかな、と考える。ハグリッドの説明を聞きながらパンジーのぶつぶつと呟かれる文句に相槌を打ってメローネの様子を気にしつつ思考する私のマルチタスクぶりを見よ。まあ半分くらいおろそかなんですけど。
ドラコ君はこれからヒッポグリフ、えーっと、バックビークという名前のヒッポグリフに腕を切り裂かれて傷を負う。そのせいでルシウスさんが凶悪な魔法生物バックビークを処刑する流れに持ち込むんだけど、私はそれを止めるべきだろうか。
少年が怪我をしなければ、バックビークは処刑されないかもしれない。しかしそうなるとバックビークを自由の身にするチャンスはなくなる。タイムターナーで過去に戻ったハリーたちが鎖を外してバックビークを解放することで、バックビークと共に逃げ去る予定のシリウス・ブラックは足を失うことになる、のではないだろうか。だってバックビークが逃げる必要はなくなるし、そんなもんじゃないのかな。
ついでにもしドラコ君を庇ったことによって私が怪我でもしたら大変だ。こちらもやはりルシウスさんがバックビークを処刑する流れに持ち込むだろう。リゾットはそのくらいで生き物を無為に殺したりはしないだろうけど、小言をいくつかいただくのは確定だ。イルーゾォにも怒られるだろうし、ホルマジオにも苦言を呈される。メローネは私にかかりきりになり、ギアッチョに悪態を吐かれ、ペッシに心配され、プロシュートに小突かれる。そのせいでドラコ君の肩身も狭くなるかもしれない。うん、誰にもメリットはないね。やめよう。ドラコ君には痛い目を見てもらうことにするわ。ハグリッド、ごめん。
考え終る頃にバックビークが滑空し、木々の中に戻って来る。蹄が落ち葉を踏んで、ハリー君はつるつると滑る翼から滑り降りるように地面に落ちた。ふらふらしているけれど楽しそうだ。若いっていいなあ、私もあれくらいの元気があれば。
ハグリッドは次に、スリザリンの生徒から一人選出し、手本を見せたいようだった。そうだよね、スリザリン生を集団で野に解き放つとどうなるかって、みんなしてハグリッドに失敗させようとするって思うよね。
「きちんと礼を取るんだぞ、ウーン、えー、それじゃあスリザリンからは……」
「ポルポがやりたいって!」
「うん?!」
私そんなことひと言も言ってないよ!?
思い切りメローネを振り返ると、だって綺麗だって言ってたし、あぁいう魔法生物好きだろ、と首を傾げられた。失敗したらどうするんだ。
「笑ってあげるわ」
パンジーちゃん冷たい。
「オメーなら大丈夫じゃねえのか」
ギアッチョからのちょっとした信頼の表れに胸がうずいた。
「ポルポなら大丈夫だぜ、絶対」
メローネは、私が喜ばなかっただろうか、と少しだけ不安そうにしている。
「まあポルポなら……」
「マルフォイよりはずっとマシだよな」
「ポルポなら問題ないわよ、きっと」
「うん、ポルポなら平気さ」
グリフィンドール席からひそひそと聞こえてくる四人の声。ハリー君、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニーちゃん、それにネビル君だ。私はなぜこんなに信頼されてるんだろう。ジョジョの世界でも思ったけど、若い子ちょろすぎ。
「おめーさんなら大丈夫そうだな!」
根拠のない後押しをありがとう。
「うん、わかった。私頑張るね」
もうここまで推されたらやるしかないだろ、常識的に考えて。断れないのは日本人の魂がこう、何かを叫ぶのさ。国際色豊かなジョークでもそうだったように、日本人は基本的に真面目で勤勉で責任感にあふれて押しに弱いのである。私もほら、気弱だからね。気弱なんだよ。図太くねえから。……図太い、のかなあ。まあどちらでもいいや。今はヒッポグリフに集中しよう。
日本人の魂に従い頭を下げる。日本人だった頃にはバイトの都合上めちゃくちゃ頭を下げていたから大得意だ。土下座するのも得意だよ。プライド何それおいしいの。長い物には巻かれよという言葉もあるくらいだし問題ない大丈夫大丈夫。
私からは見えなかったけど、ヒッポグリフのバックビークはお辞儀を返してくれたようだった。相手の誠意を見抜く賢さは琥珀色の瞳に現れている。鋭い猛禽類の瞳の中には猛獣なりの知性があり、私はそれに許可を得てヒッポグリフのくちばしを撫でる。顔を摺り寄せて来る仕草も野性味にあふれて生命力が感じられる。カッコいいなあと言うと、そうだろう、とハグリッドが嬉しそうに首を振った。
グリフィンドールとスリザリンがほぼ同時に騒めき出す。
「お、おいハリー、それに……その、スリザリンの。お辞儀ってどれくらいの角度でするのが良かった?」
「ねえポルポ、あたしドラコと一緒にやってもいいのかしら。一人で野獣に向かうなんてごめんだわ……」
「やっぱりポルポなら出来ると思ったぜ!なあなあ、俺怖いから後ろから見ててよ」
「オメーが怖がってるはずがねえだろーがよおおお!!可愛い子ぶってんじゃねえよ!!」
あれ?おかしくね?ナニこの流れ。全員ほとんど真面目に授業を受け始めたんだけど。ドラコ君、ちょっかい出さなくていいの?
「ポルポが出来たことが出来なかったと思われたら、父上に何て言われるかわからないからね」
君それ私のことをバカにしてるように聞こえるから気をつけようね。意訳するとアレでしょ。女の子の前で恥はかけないってやつでしょ。
下手を打てば恥をさらすかもしれないという可能性に気づくことが出来たドラコ君は、名家の子息にふさわしい礼儀正しさで、彼曰く野蛮な野獣に向き合った。翼に触れる時はびくびくしていたが、一足先に慣れたパンジーがひんやりと空気に触れて冷えた羽根の手触りに頬を緩めると、続いてそっと指先を当てる。
「もし尾が蛇なら、父上に買ってもらうのに……」
どうやらちょっと気に入ったらしい。男の子だし、格好いいものには弱いのかな。
「(……って、……えええ?)」
なんか、ドラコ君が、怪我をしなかったんですけど。