ギアッチョの慟哭


居た、と思った。
咄嗟に考えられたのはそれだけで、今すぐにでもこの扉を開けて、胸ぐらをつかんで、今までどこにいたんだと問い詰めたい気持ちになる。どうして俺たちのところに戻って来なかったのかと理不尽に罵倒し、名前を呼んで、そうしていつかのように、忘れがたいその手のひらで髪を撫ぜてくれたらよいのにと。
ポルポはちらりともこちらを見なかった。ただ気づいていないだけかもしれない。同じコンパートメントの誰かと、身振り手振りを交えてぺらぺらと雄弁な口を動かし何かを話しているから、外にいるギアッチョに気づかないのかも、しれない。
だけど"ポルポ"なら。それが彼女なら、彼女だったら、ギアッチョがそこにいるのに笑顔を向けないなんてありえない。
ギアッチョの胸に強い感情があふれた。怒りだったり、やる瀬のない、ぽっかりと開いた穴に空気が通るような冷ややかな気持ちだった。
「(メローネは)」
メローネは、俺の知るメローネだったのに。あの気持ち悪い変態はギアッチョの知るメローネで、同じ時を二度過ごし、そして今また巡り会った"仲間"だったのに。
おまえはちがうのかと問い詰めたかった。前にどこかで会ったことはねえかと一つ訊ねるだけでいい。ギアッチョはそれくらいなら演じられる。
けれど一瞬のうちに多くを考えたギアッチョは、結局そのコンパートメントを通り過ぎた。足踏みを一度して、後ろ髪を引かれる思いで、苦渋の決断を下す。現実を見るのが怖かった。
こんな気持ちは、久しぶりだった。


メローネの歓喜


名前を呼ばれて、世界に足りなかった色が戻って来たような気がした。濃い金髪と夕焼けみたいな瞳はメローネの目の前にあって、手を伸ばせばすぐにつかまえられる。このまま彼女の存在を手に握りしめて離さなくても、この変わらない女性は笑ったままそんなメローネをまるごと抱きしめて許すのだろう。
メローネは深く息を吸い込んだ。よかった、ここにある。ポルポがいなかった世界こそがおかしくて、彼女がいることが正しいのだと、メローネはようやく自分を肯定することが出来た。
「会いたかったよ」
俺たちのポルポ。
ニコリと微笑みかけられて、私もだよと頬をくすぐられたので、メローネは声をあげて笑った。
こんな気持ちは、久しぶりだった。


ソルベとジェラートの安堵


今はもう聞き慣れない愛称で呼ばれた。
ソルベとジェラートの身内が彼らをそう呼ぶことはあっても、その機会はずっと昔に比べれば指で数えられる程度だ。その呼び方を蘇らせることで、全員が心の深い傷をえぐられると知っているから、いつしかソルベとジェラートはそう呼ばれなくなっていた。
「はいはいおはようございます、ソルジェラ先輩」
浮かんだ気持ちは何だっただろう。ごちゃごちゃに混ざり合った気持ちを大人の表情で押し隠すこともできない。
ソルベが吸い込んだ空気はホグワーツの静寂を含んでいたが、内心は荒れ狂う海のように波立ち、記憶の鍵が一息に開くようだった。
ジェラートは少女の肩に手を掛けて、喉からこみあげた名前を呼ぶ。
まるく見開かれた朱色の瞳に確かな記憶が宿っていることを見た。ジェラートは片割れと顔を見合わせて、そいつがひどく滑稽な表情を浮かべていることを笑った。ソルベも相棒の表情を見て笑った。
こんな気持ちは、そう、とても―――……。


ホルマジオの哀切


記憶がないのなら、もうきっと、あいつは心に傷を負っていないのだろう。
自分たちのことなど隅に寄せて、ホルマジオは組み分け帽子をかぶらされた小柄な少女を見つめた。ハイソックスに覆い隠される足首はとても細く、ホルマジオのものよりずっと華奢だった。力がたりなくても術さえ知っていれば簡単に折ることが出来る。
あそこを掴まれても、もう彼女は恐怖しない。なぜなら彼女がホルマジオたちと過ごした時間を憶えているはずがないのだから。
リーダーと、プロシュートと、ペッシと、ソルベと、ジェラートと、イルーゾォと、ホルマジオ。彼らが特殊だっただけなのだ。きっとそうだ。二度目はクソのようなものだったけれど、二度の人生を終えてまたこの世界に生まれたホルマジオたちが特殊なのであって、ポルポはホルマジオたちの理の中に入れられていないのだ。きっとそうだ。
ホルマジオはよく憶えている。彼女がどんな笑顔を浮かべて、どんなことを言ったのか、余すことなく憶えている。それだけは忘れないように何度も繰り返し思い出した。
やがて誰もの記憶が劣化して、ホルマジオだけが正しい姿を浮かべられるようになっても、彼はその記憶を抱え続ける。
スリザリンのテーブルへやって来たポルポはあっけらかんとした表情で、ホルマジオたちに気づきもしなかった。
こんな気持ちを、これから何度抱くのだろう。


イルーゾォの驚愕


大げさな反応をする余裕がなかったので、イルーゾォは水を飲んだ。水と一緒に言いたかった言葉をすべて胃の腑に落として、じとりとポルポを睨み上げる。ポルポは困ったように微笑んで、それからイルーゾォの名前を口にした。そこには確かに記憶があって、思い出があって、イルーゾォは柄にもなく言葉を失った。ささくれだっていた心がこんなにも安らいだことに驚いていた。
「お前がいると、またうるさくなりそうだよ」
うんざりした風を装って憎まれ口を叩くと、ポルポは気にした様子もなくイルーゾォに、ひどくひどく懐かしい言葉をかけた。
「大変だと思うけど、老後もよろしくね」
「……意味がわかんねえよ、自分の世話くらい自分でしろっつうの」
不透明なグラスに口をつけて誤魔化したが、その口元は抑えがたい笑みをたたえていた。
こんな気持ちなんか、馬鹿らしいと思っていたのに。


ペッシの微笑


そうなんだね、とポルポを見つめる。俺たちがさがしていた人はここにいたんだ。
人生に見切りをつけて死を選んだ人たちの中で、ペッシは一番最後までそれを見届けた。彼らの悲嘆を知っていたからこそ、目の前で苦笑を浮かべる少女が愛おしくて仕方ない。
ポルポはペッシのことを可愛がるが、ペッシこそポルポのことを可愛がりたかった。ずっと遠くにいた『おねえさん』がようやく戻ってきてくれたのだ。欠けていた片足が戻ったように、ペッシは誰もいない廊下をスキップした。これからどんなことをしようか。魔法なんて、ポルポが好きそうなことばっかりだ。ペッシは妖精が使うような可愛らしい魔法が得意だった。きっとポルポに、生み出した花をプレゼントしよう。そしておかえりって微笑むんだ。
こんな気持ちになったのは初めてのことだった。


プロシュートの嘆息


Pの字を目にした時、プロシュートの手は動かなくなった。
長い間そのアルファベットを見つめていたのでインクが羊皮紙に染みを作った。その無駄になった添削用紙を捨てる間も惜しんで、すべての文面からPを探し出す。不思議なことに、魔法も掛けていないのにその文字は光り、浮かび上がってくるようだった。
プロシュートが何度指摘しても直らず、お互いに匙を投げた癖のあるPだった。
羽根ペンを投げるように机に置いた。乱雑な仕草はプロシュートらしくなかったが、今はそれよりもしなければいけないことがある。
ローブを羽織り、階段を下りる。生徒から挨拶をされて片手を挙げて応え、それでも急ぐように顔は前を向いていた。
地下教室の戸を開け放ち、魔法薬学の教務室の扉をノックしてからハッとした。確証もないのに、柄にもなく急きすぎたと気づく。
プロシュートを迎え入れた薬学教授は眉間にしわを寄せ、ネエロなら今出ていったところだ、とプロシュートに告げた。
むしろ、それで良かったのかもしれない。
目的が果たせなかったことを残念がりもせず、プロシュートは幾分か落ち着いた心持ちで職員室へと戻った。あの男に無駄な希望を持たせることほど酷なことはない。
プロシュートは息を吐く。
こんな気持ちは久しぶりだった。


リゾットの愛


金髪を持つ女に言い寄られるたび、リゾットの内心はひどく荒れた。冷たい対応をしていた自覚はあったが、イタリアの血を以てしてもどうしようもないことはある。
理由を知るプロシュートは女達に誠実な対応をしたが、そのせいでリゾットとプロシュートの深い信頼関係に邪なものが疑われたとしても、リゾットの硬質な表情は変わらなかった。むしろ世界から温度が失われていくようで、何かを見ては彼女のことを思い出した。
それすらも苦しくなった頃、リゾットの元へ一つの報せが届いた。それは新しくホグワーツに入学する子供たちの名簿だった。
「……プロシュート、これは……」
見間違いではなかった。そこには長年、本当に長い間求め続けた名前が記されていた。
プロシュートはポケットから煙草を取り出そうとして、決めかねたように視線を動かす。煙草を吸うプロシュートを見ると、彼女はいつもしみじみとその仕草の男気を褒め称えたものだ。気を遣われたと知っても、リゾットはあえて喫煙をすすめなかった。
「……」
ポルポが、来る。
そのポルポは"本当に"俺たちの知るポルポだろうか?
一度裏切られた心はほの暗い疑念を囁き、リゾットは目を閉じる。そのポルポは、本当に?

彼女が捕らわれたと聞いて、誰より先に立ち上がったのはリゾットだった。
地下室の仕掛けを潜り抜けた先に倒れ伏す少女を見つけた彼は、校長がそこに居ることや、同僚が見ていることなど、一瞬すべてを失念した。
駆け寄って、抱き起す。縄を解いて、見つめ合った似た色の瞳にリゾットへの想いを見つけて指先が震えた。
誰にも覚られることはなかったが、リゾットは確かに、この女への、自分の抱く深すぎる愛を実感した。
二度と離せない存在だと再び知り、子供の姿をしたポルポを腕の中に閉じ込める。もう一つの名前で呼ぶと、彼女は気恥ずかしそうに笑った。
「リゾット、ありがとう」
それを口にしたかったのはリゾットの方だった。憶えていて、この世に生まれ、俺の元へ、俺たちの元へ戻って来てくれたことに。
よほどそう言おうかと思ったが、言葉を出す必要もない。ただ抱きしめて、ようやく見つけた変わらない温もりを確かめた。
あんな気持ちになることは、もう二度とない。