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嗚呼お嬢さま。この混沌と怪奇のしたたる不可思議な街でのご観光の時間も残り少なくなって参りまして、焦るお気持ちはよくわかります。
けれど健気な細い柳眉をそのようにしかめてしまっては、お嬢さまの柔肌にしわが寄ってしまいますゆえに、どうか心を落ち着けてくださいませ。
誰しもが必ず守って差し上げたくなる清らかな唇が淑やかで明るい微笑みを浮かべるご様子はまさしく人々を虜にするビスクドールが如き。
薔薇色の頬をふくらませることなく、安らかなご旅行を楽しんでいただきたいのです。
けれど、けれど、嗚呼、お嬢さま。
わたくしは何もできない己が憎らしくてたまりません。
のバッグはスーツの男に奪い取られた。しかも勝手にロックまで解除されている。はとてもびっくりして、不思議な色をした人外の瞳をぱちくりさせた。それは私のものなのに、と首をかしげる。平和な環境で育ったには、まさか他人のプライバシーを勝手に侵害する人物が存在するなんて発想は微塵も浮かばなかったのだ。
ひとしきり中身を漁ると、男たちは可愛らしいバッグを記念に買った奇怪なストラップごとコンクリ仕立ての地面に放り捨てた。虹色のパッケージをしたキャンディが一緒にばらばらと散らばって灰色を彩る。
砂埃にまみれてしまったそれを見て、はとても悲しい気持ちになる。
旅先でできたお友だちにも、ひょんなことから一緒にチリペッパーチキンサンドを食べた警部補にもデザインを褒められたものなのに、今やボタンの飾りは千切れかけだし、もみ合った際にチャックの歯も欠けてしまった。オーダーメイドの一級品はもちろん耐衝撃性に優れていたが、ここまでの暴挙には対応しきれなかった。
どうしてこんなひどいことをするのだろう。
はみのむしみたいに床に転がされながらジッと男の顔を見つめた。問いかけたくとも口に布が巻かれているため、唇と布の隙間から漏れるのは意味をなさない音階だけだ。
目は口ほどにものを言う、との家庭教師は言っていた。だから本当の心を隠したいときは決して動揺してはいけませんよお嬢さま。そう言った家庭教師はただれた異性関係に溺れきってやがて解雇されたけれど、が持つ純粋な心には彼女の言葉がよくよく刻まれた。
そうなのね、目は口ほどにものを言うのね。だというのなら、きっと私が問いたいこともこの誘拐犯さんたちに通じるはず。
ジッと、ジーッと自分のほうを見つめ続けるの真剣な顔つきに、誘拐犯はちょっとだけ後ずさった。人類のそれとは異なる幻惑的な瞳の色に気がついたのだ。これは攻撃の一種だろうか。危害を加えられる前におとなしくさせなければ。
「その気色悪い目で俺を見るのをやめろ!!」
怒号され、はこくりと頷いた。顔をそらすのは難しかったから目を瞑る。あまりにも素直であった。
拍子抜けした男が己の仲間にげらげらと笑われ、男も照れたように半笑いを浮かべる。調子の狂う人質だ。口車にのせれば何だって言うことを聞きそうで嗜虐的な気持ちすら湧き上がる。
上司からはあまり余計な手を出すなと厳命されたが理由までは聞かされなかった。ジャスミン・ハンゲイトについて調べを進める無謀な2人組の片割れを呼びつける餌として扱えとだけ伝えられたのである。それなので、が異界でどのような庇護下にありどんなふうに可愛がられて育ったかという話は全然知りやしないのだ。傷がつこうものなら、の両親は声にならない悲鳴を上げて気絶してしまうだろうことも。おお、おまえをひどい目に遭わせた者はいったい誰なのだ?ああちゃん、かわいそうに、お肌にこんな傷がついてしまって、大丈夫、母様たちがずっとあなたを守ってあげるわ。ついでにきっと、爺やは大病院を手配する。
はいつまで目を瞑っていればいいのかわからなかったのでずっと暗闇のなかに視界を閉ざしていることにした。黒服たちがしゃがみ込んであらゆる角度から玉の肌を見つめても、なんにも気づかず健気に頑張ってまつ毛を震えさせている。
大丈夫か、このガキ。
黒服たちは逆に心配になってきた。
厄介なのはこの無謀な探偵2人組のもう片方だけで、こっちの少女は従順なペットのようにそいつのあとをくっついて歩いていただけ、という報告も受けている。どこからともなく純粋な雰囲気を感じ取った彼らは、人間の心の片隅にこびりついて離れない残虐な気持ちがしゅるしゅるとしぼんでゆくのを感じた。
「お嬢ちゃんよ、こういうときは抵抗のひとつでもしねえと簡単にぶっ殺されちまうぜ」
最大限の善意をもって忠告した黒服は、がこくりと頷いたのを見てまた不安になった。このガキ、絶対理解できてない。
抗おうにも、ぐるぐる巻きにされてしまった非力なにはもはや出せる手も足もないのだけれど。本当は親切な人なのね、とは心の中でお礼を言った。次は気をつけるわ、と頓珍漢な決意も固める。
そんなから無理やり意識を引きはがし、誘拐犯のひとりは彼女の携帯端末で電話をかけた。
無機質なコール音。そして電話の繋がったスピーカーから聞こえるのは、癖のあるとがった声だった。
誘拐犯はまくしたてるように言う。
「おまえの相棒は預かった。取引をしよう。応じなければ、このガキの命はないと思え」
「お前マナーって知ってっか?挨拶もねえ電話をマトモに受けるつもりはねーぞ。どこのガキの話だ?」
「声を聴きたいか?……おい、布を取ってやれ。……お嬢ちゃん、きみの相棒に何か伝えたいことはないか?何でもいい。できれば泣きながら喋ってほしいがね」
電話を近づけられたは、自由になった口で大きく息をして少しだけ考えた。
それから電話の向こうのザップに言った。
「ザップ、どうしたらいいかしら……。泣きながらと言われたけれど、上手に涙が出てこないわ。ごめんなさい、誘拐犯さん」
「このクソバカ、お前永久に誘拐されてろ」
ああやっぱりこのガキは本当に変なやつなんだな、と黒服たちは改めて思った。